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ツノ
1
「このホテル、北枕だ」
いつだったか、家族旅行で泊ったホテルの寝室で弟が言った。
「姉ちゃん、北枕ってダメなんでしょ」
「うん。なにがダメなのかわかんないけど」
「オレも。でもここ北枕だ」
弟はきれいな白壁を見て、ぼんやりとつぶやいた。
その日の夜は、わたしも弟も「ダメなんだよなあ」と思いながらも、家のよりずっとふかふかのベッドでぐっすり眠った。
弟は目印がなにもなくても北をさすことができた。それが役立ったことは一度もない。家族旅行で泊ったホテルのベッドが北枕だと教え、わたしを不安にさせたくらいだ。
将来、弟が探検家や設計士になれば少しは役に立つのかもしれない。どこか遠い国へいく途中で小型飛行機が墜落し、なにもかも燃え尽き、地球のどこかもわからない場所でひとりぼっちになった時、自分が持てる唯一で北を頼りに歩いていった弟は、小さな村にたどり着き、一命を取り留める。
今のところその予定はなさそうなので、あまり心配はしていない。小学五年生になった弟はカードゲームに夢中だ。ケンタッキーフライドチキンの食べ過ぎで太っているし、コンパスの使い方が異様に下手なので一流設計士になる期待も持てない。
それでも北がわかる弟がわたしはうらやましかった。かっこいいとさえ思った。そんなわたしも今やツノ持ちだ。
『こんにちは。山の天気は変わりやすいというので心配してましたが、キャンプ楽しめてよかったですね。わたしは小さい頃にいったきりです。わたしもまたキャンプにいって、おいしいご飯が食べたいです。』
『ミカさん、お久しぶりです。痛みは数時間ほどありましたが、ホッカイロなど体を暖めるグッズをたくさん持っていったので、ひどくならずにすみました。ミカさんもぜひキャンプ楽しんでみてください。以前のコメントで体育の授業について話してましたが、その後どうですか?』
『その時はホッカイロ買い占めですね(笑)コメント覚えてくれていてうれしいです。最近はわたしも調子がよくて、今のところ体育は休んでいません。天候が落ち着いているおかげでしょうか。ただ日光が強すぎるとやはり痛むことはあります。』
『授業楽しんでいるみたいですね。わたしは大人になってからツノが生えたので、学生の頃は運動部で走り回っていました。今じゃ考えられない……(汗)わたしたちツノ持ちにとっては日光も大敵ですからね。十分ご自愛ください。』
『ありがとうございます。一つ質問させてください。ヤギさんはツノ持ちだということを家族以外の誰かに話したことはありますか?』
『話したことはありません。今の仕事は自分のペースでできますが、前の職場はツノ持ちが原因で休みがちになり、居づらくなって辞めたので話す機会もありませんでした。友人と会う日も、あらかじめ痛みがひどくなりそうな時は断るようにしています。ミカさんはまだ学生だそうなので、自分で予定を組むことも難しそうですね。』
『そうですね。体育が嫌いなわけではないので、調子のいい日に体育をずらすことができればいいのにとはいつも思います。』
『誰か話してみたい相手がいるんですか?』
『話してみたいというか、わたしがツノ持ちだって気づいてるような子がいて、どう振舞っていいか少し考えてしまって。』
『自分が話したくないことは無理に話さなくていいと思います。特にわたしたちのようなツノ持ちは外見ではわかりにくいし、その日によって症状の重さも違って誤解されやすいところがありますから。』
ヤギさんへお礼の返信を送り、わたしはスマホの画面を閉じた。
ツノ持ちたちが集まる掲示板には一年前から定期的に訪れている。
最初にコメントをしたのは半年前。体育を休みがちになり、ストレスが溜まっていたわたしはこの掲示板に救いを求めた。
管理人のヤギさんの症状はそのままぴたりとわたしに当てはまるものばかりじゃなかったけれど、お腹に溜まったくさくさした気持ちを軽くしてくれた。
掲示板の中でわたしは「ミカ」と名乗っている。「水川」からテキトーに取ってつけた。
わたしのコメントに対して、ヤギさんだけじゃなく他のツノ持ちからの返信もくることもある。同じツノ持ちの人なら共感やアドバイス。ツノ持ちじゃない人からは励ましの声や、知人や配偶者のツノ持ちさんが実践している情報を教えてくれる。
掲示板にはツノ持ち同士の温かいコメントであふれる一方、ヤギさんやツノ持ちを敵対視するようなコメントもあった。
『もっと症状の重いツノ持ちの人だっているんです。あなたがなにかするたび、ツノ持ちはこれくらいできるんだと勘違いされて迷惑です。』
『どうせ自作自演だろ(笑)』
『ツノ持ちだからって偉いんですか?』
この人たちの気持ちはわからない。でもわたしだって心の中で誰かにひどいことを言ったりすることもある。特に頭の痛みがひどい時は、ベッドの中で身をよじりながら誰にともなく悪態をついている。この人たちも誰かに暴言を吐きたいほどなにかに苦しんでいるのかもしれない。
掲示板を見つける前は、ツノがある人間なんて世界にわたし一人なんじゃないかと毎日不安だった。出会ってからは少し気がやわらいで、病院へいく決心がついた。
「よく頭が痛くなって、雨とか台風とか天気が荒れると特に。……ツノがあるみたいで」
思い切ってわたしが言うと、五十代くらいの男性医師はさらりと「じゃあ診てみましょう」と言ってキャスター付きのイスをわたしに近づけた。看護師も事務作業のように「失礼します」とわたしの前髪を持ち上げた。
眼鏡を上にずらしてツノを診る男性医師。こんなに近くでツノを見られたのは初めてで、わたしは知らないうちに息を止めていた。
「はい、結構ですよ」
医師の言葉に、看護師が前髪から手を離す。もう手遅れなのにわたしはツノを隠すように何度も前髪をなでつけた。
「一、二センチってところでしょうね。ツノがあることにはいつ気づきました」
「小六くらいです」
「頭の痛みもその頃から?」
「最初はそんなに。時々、違和感があるくらいで。そのうち痛むようになって、今は天気によってはすごく痛いです」
「そうですか」と男性医師は言った。
わたしはこれで診察が終わってしまうとひどくあせった。あんなに勇気を出してきたのに、これっぽっちしか診てもらえないのか。
「あの、ツノはなくなりますか」
医師は診断書になにかを書き込みながらこたえた。
「人によっては。今のところこの病気に対しては痛み止めを出すしか対処しようがありません。あとは食事や睡眠に気をつけて体質改善を試みることをおすすめします」
ペン先をしまい、医師はわたしを見た。
「まあ、あなたの場合まだ若いから。お薬出しておきますね。効き目がなければはやいうちにまた受診してください」
まだなにかあるだろうと期待して立ち上がらないでいると、「もう結構ですよ」と医師に言われ、「お大事に」と後ろの看護師がドアを開けた。
わたしは呆然として立ち上がり、ドアへ近づいていった。部屋をでる直前、やっぱりこのままではダメだと振り返った。
「先生、わたしはどこかおかしいんですか?」
男性医師はわたしをちらりと見た。
「あなたがおかしいならわたしもおかしいことになる」
なにかの書類を看護師に渡し、医師は大きく開いた足をわたしに向けた。
「人は誰でも病気になる。病むことが生きることと言ってもいい。もし病気じゃないとあなたが思う人がいるなら、それは病気とうまく付き合っている人だ。あなたもツノを毛嫌いするより、ツノとうまく付き合う方法を考えるようにしなさい」
ツノと痛みの関係はまだはっきりとしないのが現状らしい。ツノが頭の痛みを引き起こすのか、あるいは頭の痛みでツノが形成されるのか。最初はなんだか頭が痛いなあから始まって、それがだんだん続いて変だなと思った頃に、さらに変なものが頭に生えていることに気づく。
一説にはこのツノがアンテナのような役割をするために、温度や湿度、気圧、風速、場合によっては二、三日後の天候、すなわちそれは他国で起きていることに神経が過敏に反応して痛みが引き起こされるではないかといわれている。
ある生物学の本には、『このアンテナは本来人間に備わっていた古い機能で、例えば鳥や魚も地震の予兆を把握できるように、人間にもそういった〈動物的な勘〉があったのではないだろうか。そういった人々は天候や作物の育ち具合が読めるために重宝され、その地域のリーダーや祭祀を司る役割に抜擢されたと考えられる。文明の発達とともにそういった人々の役割は機械に取って代わられ、今ではほとんどの人間が失ってしまった。』と書かれていた。
木林さんはこのことを知っていて「特殊能力」なんて言ったのだろうか。あの時、彼女はわたしのツノの存在に気づいているようだった。たいていの人は、わたしがこめかみを押さえたらこめかみを見る。彼女の視線は常にその少し上へ向けられていた。
一体どこで気づいたのだろう。
彼女とちゃんと話をするのはあそこで三回目だったはずだ。最初はトイレで、その次が保健室の中。どちらも一分にも満たない短い時間だった。そこで髪の毛に埋まったツノを見つけることはとても困難だ。
それともわたしがそう思っているだけで、本当はとても簡単に見つかってしまうものなのだろうか。だとしたら、わたしが体育を休むことに一番の嫌悪を示しているクラスの女子三人組がツノをからかってきてもおかしくはないのに、これまで一度もなかった。
木林さんもツノ持ちなのだろうか。具合が悪そうな様子を見ても、そんなふうには感じなかった。彼女はなにを持っているのだろう。
2
昼休みの前に、日直は理科室の準備を手伝うようにと担当教師から言われていたのを思い出し、わたしははやめに教室を出る用意をした。
教室を出ようとするといつもの女子三人組がかたまった机の方から、「また保健室かな」とわたしに聞こえるか聞こえないかくらいの声がした。
わたしは足を止め、彼女たちの机に近づいた。
「理科室の準備をしにいくの。今日、日直だから」
彼女たちは興味なさそうな顔をして、「あっそ」と言った。
廊下に出ると、二組の教室の前で友達とじゃれている木林さんを見かけた。調子の悪い時にしか会ったことがないせいか、あんなふうに顔をしわくちゃにして笑うのだと少し驚いた。
最近は木林さんも調子がいいみたいで保健室で会うことはなくなってしまった。いいことのはずなのに、少しさみしいと感じている自分もいた。
わたしはまだこのツノとうまく付き合う方法を見つけられていない。
時々、このままずっと保健室にいた方がいいじゃないかと思うことがある。授業に出たり抜けたりすることで周りの目も集めるし、変なうわさも立ちやすくなる。教室が嫌いなわけではない。友達もいる。
いっそのことクラスメイト全員がわたしの敵になってくれれば、すぐにでも保健室登校に切り替えられるのに、そういうことは曇り空のようにはっきりしない。
理科室にいくと、もう担当教師が準備を始めていた。
「きみ一組の日直?」
厚いフレームの眼鏡に白衣を着たいかにも理系という装いの男性教師は、生徒たちの間では「博士」と呼ばれていた。
「今日は電流の実験するから。電流計と電圧計を各テーブルに運んで。落とさないように」
電流計と電圧計は見た目の小ささに似合わず重く、わたしは料亭の中居さんのように両手でもって運んでいった。
「きみは通電性が悪そうだね」
博士が言った。
わたしはなんのことだかピンとこず、黙って博士を見返した。
「水分と運動不足で血行が悪い」
「いけませんか?」
「そこは私の分野じゃない。でももし雷に打たれた時に通電性が悪いと電気が通り抜けていかずに死亡する危険性が高い」
「わたしは探検家にはなりません」
「探検家じゃなくても雷に打たれる可能性はある」
「雨が降るかどうかは事前にわかります」
「確かに。気象衛星の誕生で天気予報の精度は劇的に向上した。でも所詮イタチごっこだ。ゲリラ豪雨や季節外れの天候に振り回されるしかない」
「天気予報はあまり見ません」
博士は口を閉じると顎に手を当て、「続けて」と言った。
続きを持ち合わせていなかったわたしは、なにを言おうか迷った。
「できるだけ自分で感じたことを参考にします」
「いい心がけだ。私もいつも折り畳み傘を持ち歩いているから天気予報はそれほど気にしない。当たるも八卦当たらぬも八卦だ」
博士は占いに使う杓子を持つように両手を合わせて振った。
「理科の先生でもそういうこと言うんですね」
「私だって人間だ。自分のせいじゃないことで怒られるのはいやだ」
その顔で怒られることがあるのかとわたしは口の中で笑った。
それから電流計と電圧計を各テーブルに運び終えた頃、わたしは博士に聞いた。
「もしどこか遠い国へいく途中で小型飛行機が墜落して、荷物も全部燃えて、地球のどこかもわからない場所でひとりぼっちになった時、北の方角がわかれば助かりますか?」
博士はしばらく右上を見て考え、目元からずれた厚いフレームの眼鏡を押し上げた。
「それだけじゃなんとも言えないな。北にいったからってなにもなければ助からないし、なにかあったとしても体力が持たなければアウトだ」
弟に探検家になる素質がなくて安心した。
「きみ、さっき探検家にはならないと言ってなかった?」
「なりませんよ。探検家じゃなくても道に迷うことはあります」
「なるほど。やはり生還する第一条件は、歩いていった先で地図や食料を持った人と出会うことだ。そしてそれを分け与えてくれる人と。つまり運だ」
「先生は理科の先生っぽくないですね」
「年末に宝くじを買うのが私のささやかな趣味でね」
予鈴が鳴った。しばらくすると、一組のクラスメイトたちがぱらぱらと理科室にやってきて、始業のチャイムと同時に最後の生徒が駆け込んできた。
実験は、電池を並列と直列につなげた時の電流と電圧の違いについて観察する。
最初は順調だった。計測器の細かいメーターを見てもなんともなかったし、窓の外を流れる薄い雲もゆっくりとおだやかだった。
実験記録をノートに書いている途中、ひじで落とした消しゴムを拾おうと、イスに座ったまま体を下へ伸ばした。消しゴムを取り、起き上がる。ガラスにピシッとひびが入るような感覚が頭に走った。割れる手前のくすぶった状態が持続しているような痛み。頭の中で痛みのメーターが徐々に上がっていく。
こめかみを押さえ、じっとしていると少し痛みは落ち着いた。理科室の時計を見る。授業はあとニ十分ほどだった。
保健室にいこうか。落ち着いてきたからがんばれるか。この授業には出たい。特に理科が好きなわではない。さっき博士と話していてそう思ったまでだ。
痛み止めだけでも飲んでおこうかと、ブレザーのポケットに手を入れる。小さな錠剤の形を指でなぞった。
と、耳鳴りがした。ゲームの審判がルール違反をした者を制するような高い音。
我慢ができなくなったわたしは両手で頭を抱えた。ツノに手が触れて、一瞬意識が飛びそうなほどの激痛がした。
そのうち体を起こしていることもつらくなって、机に額をつけて目を閉じた。
目が覚めると保健室だった。
どうやら友達に付き添われながら階段で何度もうずくまり、長い時間をかけて保健室まできたのは夢ではなかったらしい。
ベッドから抜け出し、上履きを履く。立ち上がると、頭痛とともにめまいがした。
仕切りのカーテンを開ける。保健教師の姿は見当たらなかった。奥の控え室に声をかけても返事はない。どこかへ出ているようだった。
時計を見ると六時限も終わりそうな時刻で、放課後までここにいることにした。
イスに座ってぼうっと天井を見つめた。そのまま窓の方へ視線を移す。昼過ぎの暖かな日差しが降り注いでいた。
遠くの空を考える。どこかで雨雲が発達していて、深夜にでもここまで流れてくるのだろうか。
ツノが天気予報より優秀なアンテナだろうが、決して天候を操ることはできない。博士が言っていた通りだ。人間は振り回されるしかない。ツノ持ちの古い機能があっても、地図と食料を持っている人がいなければわたしたちはずっと迷子だ。
誰かが保健室のドアをノックした。保健教師ならそんなことはせずに入ってくるはずだから、おそらく生徒だろう。わたしは誰に見られてもいい姿勢に直った。
ドアが開き、顔をのぞかせたのは木林さんとよくいっしょにいる女子生徒だった。確か「しーちゃん」と呼ばれていた。
「あれ?」
しーちゃんさんはきょろきょろと室内を見回した。
「先生なら今いないけど」
わたしが言うと、しーちゃんさんは小さく「そうなんだ」とつぶやき、
「木林、二組の木林さんきてる?」
わたしはカーテンの開いた三台のベッドを振り返った。
「きてないと思う」
「あれー? あいつどこいったんだ」
緊張がゆるんだしーちゃんさんは、ガラッとドアを全開にした。
「どうかしたの?」とわたしは聞いた。
「気分悪いって言って、六限始まる前にはもう教室出てったの。保健室にいると思ったんだけど。まさかどっかで倒れてないよね」
冗談にしたいしーちゃんさんは笑いながら言った。
「すれ違いになってるのかも。ありがと」
「待って」
ドアを閉めていこうとする彼女を呼び止める。
「もしものことがあったら大変だから、わたしも探してみるよ」
「具合悪いんじゃないの?」
「歩くくらいなら平気」
「うーん、じゃあ、もし見かけたら声かけといて」
「わかった」
わたしたちは保健室から近い階段と遠い階段をそれぞれ上っていった。
まずは二階のトイレに入る。六個ある個室のうち一つが使用中になっていて、迷惑だと思いつつノックをした。反応はない。もう一度ノックする勇気はなく、あとでまたこようとトイレを出た。
四歩いったところで、個室の鍵が開く音がした。もどって確かめると、腰に手を当ててつらそうにしている木林さんがいた。
「木林さん大丈夫?」
「うん……」
おそらくそれしか言えないほどつらいのだろう。
木林さんは蛇口まで歩いてくると、洗面台に片手をついてうずくまった。そんな彼女に近寄ってはみたものの、わたしはどうしていいかわからなかった。
「友達が探してたよ」
とりあえず要件を伝えた。きっと聞こえてはいない。
「保健室いけそう?」
「うん……」
木林さんに動く気配はなかった。今、彼女は綱渡りをしている状態だろう。気分の落ち着く方へと一歩一歩向かっている。
わたしはそれ以上声をかけることはせず、彼女が口を開くまでじっと待った。
十五分くらいして、木林さんは青白い顔を上げた。
「水川さん?」
「うん。保健室いけそう?」
「もうちょっとこのまま」
「わかった。寒くない?」
「大丈夫」
木林さんはしゃべるたび大きく息を吐いた。頬には涙を流した跡があり、前髪は汗で額に張り付いていた。
丸く小さくなった彼女の背中に手を当てようとして、おしりの辺りのスカートが妙に浮き上がっているのに気づいた。
「ウザいよね」と木林さんは言った。
「毎回毎回なにがしたいのって感じ。今すぐ切って捨てて燃やしたい」
彼女は笑いながら泣いていた。
「痛いし、恥ずかしいし、すぐ毛落ちるし。なんにもいいことない」
わたしたちの一体誰が地図と食料を持っているのだろう。わたしは彼女に分け与えられるものを持っているだろうか。
木林さんの震える背中にそっと手を当てた。
3
台風が近づいていた。三日前から耳鳴りが止まらず、頭は痛む一方だった。台風による痛みは薬を飲んでもよくなることがほとんどない。長めにお風呂で温まって、部屋のベッドに入ってもなぐさめ程度にしかならず、眠れない夜を過ごしていた。
今すぐ切って捨てて燃やしたい。
木林さんの言葉を思い出した。あのあと木林さんはどうにか立ち上がって保健室までいくことができた。しーちゃんさんとも合流でき、わたしは役目を終えた。
あの時、彼女を苦しめていたのは、彼女のおしりでスカートを押し上げていたものだ。それをはさみで切って、ゴミ箱に捨てて、火をつけてやれば、木林さんへの地図と食料になっただろうか。
ベッドの脇に放ったスマホを手に取り、ツノ持ちの掲示板を開いた。暗い部屋に青白い光が灯って、わたしの鼻頭を照らした。
掲示板にはヤギさんがコメントを投稿していた。
『台風が近づいてますね。みなさん体調いかがでしょうか。』
『ヤギさん、こんばんは。ここ数日は痛みでうまく眠れてません。台風がはやく過ぎ去ってくれればいいんですが。』
十分しても掲示板には誰も現れなかった。夜中の二時過ぎだ。ほとんどの人は眠っている。眠っているということは、他のツノ持ちはぐっすり眠れているということだ。わたしのツノだけが、わたしを眠らせてくれない。
『ミカさん、こんばんは。』
ヤギさんから返信がきた。
『わたしもあまり眠れていません。よかったら少しお話しませんか?』
『ぜひお願いします。』
『ヤギさん、ミカさん、こんばんは。ぼくも参加させてください。』
『セヴンさん、こんばんは。どうぞどうぞ』
『セヴンさん、こんばんは。お願いします。』
『ありがとうございます。台風まいりましたね(汗)』
『最初はこっちにはこない予報でしたけど、見事に直撃しますね』
『ぼくはそんな予報信じてませんでしたよ。ずっと痛みが続いてましたから。』
『ほとんどのツノ持ちは信じてなかったでしょうね(笑)ミカさんはどうですか?』
『天気は落ち着いてるのに、なんとなく痛むなとは思ってました。台風の影響だとは考えてませんでした。』
『普段でも痛みの正体が二、三日後にわかることってありますもんね。』
『あります!』
『そうすると、自分でも自分を疑っちゃう。この痛みは本当にツノのせいなのか、ぼくが勝手に作り出したものじゃないかって。』
『すごく厄介です。』
ヤギさんとセヴンさんの会話が一区切りしたところで、わたしはコメントを投稿した。
『少し話がずれてしまうんですが、ヤギさんとセヴンさんはツノを捨てたいと思ったことはありますか?』
『毎日(笑)』
『同じく!』
『今すぐ切って捨てて燃やしたい。』
『ミカさん情熱的!』
『すみません。今のは冗談で、わたし自身はまだ迷い中です。』
『迷い中? ミカさんはツノが憎くない、と』
『弟のおかげかもしれません。』
『ミカさんの弟さんもツノ持ちなんですか?』
『ツノではなく体の中に方位磁石を持っています。なにも見なくても北の方角がわかります。小さい頃はそれがうらやましくて、自分もなにか持ちたいと思っていました。』
『あ~なんかわかります。小さい頃って特別なものが欲しいですもんね。』
『特別なものを持ってると苦労するって気づくのは大人になってから。』
『昔みたいに人の役に立てればよかったんですが……。』
『そうですね。人の役に立てるなら、この痛みも少しは我慢できそうなのに。』
『お二人ともすばらしい。ぼくはたとえ人の役に立つとしてもツノは持ちたくないです(笑)』
『セヴンさんすみません、見栄張りました(笑)』
『ヤギさん正直(笑)』
『ミカさん、役に立つ立たないはあまり考えなくていいじゃないでしょうか。』
『ぼくたちは誰かのためにツノと戦ってるわけじゃありませんから。』
『まずはツノと和平交渉をするのが先決かと。』
『おそらくミカさんもそれを望んでいるから迷い中なのかもしれませんね。』
部屋の窓が激しく揺れた。
台風はもうそこまできている。
翌日は台風の影響で中学校は休校になった。弟の小学校も休校になり、父は出勤だった。
わたしがベッドから出られた時間には、母は父を車で駅へ送りにいっていた。リビングには弟が朝食の食器を片付けないまま、テレビをつけっぱなしにしてマンガを読んでいた。
「マンガ読む前に食器片付ければ。お母さんに怒られるよ」
弟はちらりと顔を上げただけで返事すらしなかった。
「ねえ」
少し強めに言うと、
「……わかったよ」
弟はやっと小学五年生にして六十キロの体を重そうに起こし、
「あーあめんどくせー」
ぶつぶつと文句を言いながらキッチンに食器を運んだ。
「なに」
「なんでもありましぇ~ん」
きのうベッドに入ってから眠りにつけたのは、ほんの二、三時間で、頭の痛みは最悪だった。正直話すのもつらいし、怒るのも一苦労だった。だったら弟のなまけぐせくらい放っておけばいいと思うのだけど、姉らしいことをできていないという負い目があった。
わたしがツノ持ちになってからは、どこかへ出かけてもわたしの頭が痛くなればさっさと引き上げるし、旅行へいっても母や父のどちらかがわたしの看病のために宿泊先にとどまってくれるようになった。
最近では出かけることさえ減って、家族四人でなにかを楽しんだ記憶がなかった。
そのことで弟がわたしを責めたことはない。さっきみたいな小言はしょっちゅう言うのに、わたしのツノ持ちについては口を閉じていた。
弟はキッチンからもどってくると、またリビングに寝そべってマンガを読み始めた。つけっぱなしのテレビは台風の最新情報を伝えている。
「テレビ消していい?」
黙って消すとうるさいからいちおう聞いてみた。
案の定「えー見てるんだけど」とうそが返ってきたから、「マンガ読んでるじゃん」とわたしは言った。
「聞いてるの」
「ニュースを?」
「そうだよ。大雨で家が流されたら危ないだろ」
マンガを読みながら言うセリフじゃなかった。
わたしは言い返す気力がなくなって、ソファに寝転がった。照明の明かりがわずらわしくて、うつぶせになって目を閉じる。
『こちらでは避難所が開設され、職員が準備に追われています。地域住民の中には「一年前の災害を思い出し、はやめに避難所にきた」と言う方もいて、不安な様子がうかがえました。今後市の対策本部では……』
切迫したアナウンサーの声と、家の外壁や庭の木々を揺する風音だけがリビングを満たしていた。
「ねえ、どうして北がわかるの?」
弟はすぐに返事をしなかった。うつぶせのまま話しかけたからうまく聞き取れなかったかもしれない。
「なんとなく」弟は心底めんどくさそうに言った。「何回も言ってんだろ」
「痛くなったりしないの?」
「はあ?」
「北がわかって、体のどこかが痛くなったりしない?」
「しないよ」
「そっか」
マンガのページをめくる音がかすかに聞こえた。
「探検家には? ならない?」
「意味わかんねーし。なったらなんかくれんの?」
「やめときなよ。ジャングルにはケンタッキーないよ」
「そっちが聞いてきたんだろ」
ごそごそと物音がして、弟がわたしに背を向けたのがわかった。
「探検家なら姉ちゃんの方が向いてるだろ」
「どうして」
「雨が降ると服が濡れて風邪ひくし、放っとくといろんな病気になって危ないんだぞ。川だってあふれるし、道はぬかるんで敵にねらわれやすくなる。だから、雨が降るってわかってた方がいいだろ」
「よく知ってるね」
「常識だろ」
最近の小学五年生の常識はあなどれない。
少しして玄関で物音がして、母が帰ってきた。
「ひゃー外すごい雨よ」
母は誰にともなく言いながら脱衣所へ駆けこみ、タオルで髪や服を拭きながらリビングへ入ってきた。
「あら、お姉ちゃん起きたの。ご飯は? 食べた?」
「食べてない」
告げ口するように弟が言った。
「食欲ないの?」
「うん」
今度は自分でこたえた。
「スープあるよ。ヨーグルトも。どうせ今日はお父さん帰ってこられないだろうし、夜もできあいのにしちゃうから、好きに食べて」
すると弟が調子に乗って、
「じゃあケンタッキー頼もうよ」
と言い、すかさず母が、
「こんな日に頼めるわけないでしょ」と返した。「お姉ちゃんスープ作ろうか。ね。ちょっと待ってて」
母がキッチンへいくのを見届け、弟がわたしを振り返った。
「ジャングルじゃスープなんてめったに飲めないんだぞ」
「探検家になんてならないよ。雨が降るってわかっても頭が痛いんじゃお荷物でしょ」
「だったらオレの方が荷物だろ」弟はなぜか張り合った。「この間の遠足も最初は二列目だったのに、終わる頃には一番後ろにいたんだぜ」
きっとクラスでこの話をすると爆笑を取れるのだろう。弟の顔はいきいきとしていた。
「北がわかったってこんなデブじゃ歩けねーっての」
「でもこの前、作文のコンテストで賞もらってたでしょ。方角がわかるだけじゃなくて、調査日記も書けるから大事にされるよ」
「それなら姉ちゃんだって裁縫できるじゃん」
弟の何気ない返しは、わたしがいつも見ていながら気づけなかった小さな灯りを教えてくれた。
台風が過ぎると日々もあっという間に過ぎ、夏休みになった。
夏休み前日には、職員室の前で博士に会って「どこか探検にいくの?」と聞かれた。
「わたしは探検家にはなりませんよ」
「探検家にならない人も探検くらいするだろ」
「近所と図書館くらいは」
「うん、素人にはいいチョイスだ」
「最近は探検家もちょっといいなあとは思ってます。きっとまたいやになると思いますけど」
「それこそが探検のいいところじゃないか」
あまり表情を変えない博士が薄っすらと笑った。
博士に言った通り、わたしが外に出る用事といえば自転車でニ十分のショッピングモールへいくか、徒歩で十分の図書館へいくかのどちらかだった。
両親とも実家は近所にあるので普段から行き来していて、夏休みだからといって特別長く泊まることもなかった。
旅行の計画も持ち上がりはしたものの、父の仕事の都合でダメになった。それだけが理由ではないことはもちろんわかっていた。
母は気を使って弟を遊園地や科学館に誘っていたけれど、そういう年頃なのか全て断っていた。
そういうわけで弟は一日中家でマンガを読んでいるか、大好きなカードゲームを持って友達と遊びにいっている。
わたしは家でも図書館でもやることはほとんど同じで、勉強、読書、裁縫。ツノがおとなしい日は気分転換も兼ねて外に出るようにしていた。
最高気温三十六度の中を歩いていく。テレビの天気予報では、全国的に連日真夏日を記録しているそうだ。天気予報は夏休みになってよく見るようになった。ツノは天候の変化には敏感だけれど、気温までは知ることができない。
たった十分の距離を歩くだけでも肌が焼け付くように火照って、図書館のすずしい空気に当たっても、だらだらと噴き出した汗はしばらく止まらなかった。
今日は宿題をやるつもりできたから机席に座りたかったのだけれど、考えることはみんな同じようで六席ある机席は全て埋まっていた。
仕方なく宿題は別日にしようと、本棚を回って読む本を探した。
なんとなく足がビジネス書のコーナーに向かい、「企業戦略」や「交渉術」など難しい単語がやけに目に付いた。
ヤギさんやセヴンさんが言っていたツノとの和平交渉の道筋を、わたしはまだ見つけられていない。それはわたしが勇気を出していった病院で診察をした医師にも言われたことだった。
ツノを毛嫌いするより、ツノとうまく付き合う方法を考えるようにしなさい。
ツノを嫌うということはどんなことだろうと考えると、やたらと突っかかってくるクラスの女子三人組が浮かんだ。
あの三人はわたしよりツノが嫌いなように見える。正確には嫌いなツノを持っているわたしが嫌い。そんなことわかっている。
今思えば、わたしと彼女たちはとても近い位置にいた。わたしと彼女たちはあまりにもツノを特別視していた。わたしはツノ持ちだけど、ツノだけがわたしの全てではない。弟が教えてくれた。
小さい頃、わたしが弟にあこがれていたのは、体の中に方位磁石を持っていたからだけではない。それを太っていたり、生意気だったり、人が本当に気にしていることには口を閉じたりする弟のあらゆる部分と同じように扱っていたその姿にあこがれていたのだ。
木林さんだってそうだ。彼女もしっぽを自分の全てだと思いこんでいた。でも彼女はしっぽ以外にもたくさんのものを持っている。そしてたくさんのものに苦しんでいる。彼女と話していてそれを感じた。
彼女はもう一人のわたしだ。
もし木林さんが衝動的にしっぽを切って捨てて燃やしたあと、後悔した時はわたしが縫い合わせてあげられたらいい。
小説や詩集のコーナーでぱらぱらと立ち読みしていると、だんだんと頭が重たくなってきた。ガラス張りの館内から外を見ると、空にはうっすらと雲がかかり始めていた。
一雨くるのだろうか。
わたしは図書館を出て、家の方へと歩き出した。五分ほどすると急激に頭が痛み出して、うつむいた足元に小さな水玉が落ちた。
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