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しっぽ
1
目が覚めた瞬間、そうだとわかった。
先月は十二日にきた。今日は二十六日で、十四日も過ぎていたから今月はもうこないかと思っていた。
おしりの辺りに違和感がする。なんとなく全身がだるくて、特に腰周りがひどく重い。ベッドボードに置いていたスマホを手に取ると、セットした目覚ましより一時間二十分もはやい時間だった。
もうひと眠りしたくて胸まで下がった毛布をあごまで引き上げる。でもおしりの不快感がどうにも気になって、到底眠れそうにない。
仕方なく体を起こした。ベッドに手をつくと、風邪をひいた時のように腕の関節が鳴った。心の音のようだった。
座るとおしりの違和感はひどくなった。座る位置によっては鈍い痛みがあった。立ち上がるのにもずいぶん時間がかかって、軽い立ちくらみもした。
窓から差しこむ白けた明かりがカーテンを縁取っていた。夜の間に星座を転写したように繊維の隙間までキラキラと光っている。
全てがぼやけた薄暗い部屋の中で、全身鏡の前に立った。ブサイクな顔がぎろりとわたしをにらむ。
そんな顔でにらまれたって、一週間前に右頬にできたニキビはわたしのせいじゃない。
横を向き、猫背、主張の少ない胸、主張の多い腹へと視線を下げていくと、腰とおしりの中間辺りがぽこっと盛り上がっていた。
わかっていたことなのに、いざ目の当たりにするとため息がもれた。知らなくてよかった秘密を打ち明けられたような気の重さ。私、実はあの子のこと嫌いなの。あなたってあの子にはやさしいよね。あの子は先生のお気に入りだから、どうせ私たちは選ばれないよ。
どん底に落ちていく思考を止めるため、両手で顔を覆い、目頭を押さえた。そのまま手を頭にやって髪を後ろへ流す。
パジャマに着ていたスウェットのズボンを太ももまで下ろすと、あとは重さですとんと落ちた。鏡には三つめのおしりができたバケモノが映っている。
パンツの後ろの縁に親指を入れ、横に引っ張って空間を作ってやると、十センチくらいのしっぽが顔を出した。
赤茶色で、見た目はふさふさしている。実際に触ってみるとちくちくした感じもあってそんなに気持ちのいいものじゃない。色もその月によって赤が強かったり、濃い茶色だったりすることがある。最悪なのは赤と茶色が分かれて縞模様になっている時だ。できるだけ隠したいからそんな派手な見た目にされちゃ困るし、小さい子のぬりえみたいで恥ずかしい。
動物園のにおいが鼻をついた。動物園のにおいは、しっぽが生えた時にだけする独特なにおいだ。本当は動物園のにおいでもないんだけど、なにをたとえに出してみてもこのにおいを表現できるものがなく、探しに探した中で一番近かったのが動物園だった。
もっとくわしく説明すると、動物園をミキサーに入れてかき混ぜ、冷蔵庫で一晩寝かせ、それからいろんな調味料と食材をぶちこみ、焼いて煮て蒸したのがしっぽのにおいだ。
わたしだってよくわからない。
ため息を吐く。ため息を吐いたからといって状況はなにも変わらないけれど、数ミリでもいいからとにかく体を軽くしたかった。
パンツをゆっくり元にもどす。さっきと圧迫される位置が変わったせいか、腰の右下の辺りがどうにもむずがゆかった。パンツの中に手を入れてしっぽを左にずらすと、今度はおしりの中央に不快感が増して、しっぽをちょっと上に引っ張った。
しばらく鏡の前で格闘してベストとは言い難いけれど、だいぶましな位置を見つけてやっと手を離した。
とても長い間、鏡の前にいたように感じたのに、時計を見るとまだ十五分しか経っていなかった。今日一日、こんなペースで進むのだろうか。
うんざりしてベッドに仰向けに寝転がると、おしりの下の不快感に顔をしかめた。寝返りをうって横向きになる。それでも不快感が少し減るだけで解消されることはなかった。
先月は、五日ほどでしっぽは消えた。今月もそうであってほしい。しっぽがない時の五日は五日で過ぎるのに、しっぽがある時の五日は永遠のように感じる。今日から私の永遠が始まるのだ。
ネットの記事によれば、一ヶ月の半分以上しっぽがある女性もいるそうだ。症状も腰周りが重くなったり体のだるくなったりする他に、しっぽがあることで平衡感覚がくるって吐き気を催したり、もっとひどい人は寝込むほど全身に倦怠感が広がるそうだ。
わたしはまだこの程度でよかったと思う。同時に、寝込んでしまえば学校にもいかなくてすむからそっちの方がよかったとも思う。
しっぽがあることは誰にもバレたくない。中学の男子はもちろん、女子友達や母親にさえ気づかれたくない。
時々、誰かが体調を崩したり、トイレにいく回数が多くなったりすると、女子友達との会話でそういう話題が出てくる。でも話の中心は最初にしっぽが生えた年齢で、症状の重さや日の長さについては話さない。友達はネットの記事に載る人とは違うから、きっとみんなわたしと同じような症状なんだろう。
しっぽを理由に学校を休んだ子がいるという話は聞かない。だからわたしも学校を休めない。みんな同じなんだから。
わたしに初めてしっぽが生えたのは、小学五年生。金曜日の朝だった。翌日に友達と映画館にいく約束をしていたからよく覚えている。
朝、目が覚めてトイレにいくと見慣れないしっぽがあるのに気づいた。そのうち取れるかと思い、しばらく便座に座っていた。
なんとなくお腹が痛くなってきて、その原因がしっぽだと直感的にわかったわたしは、なぜか冷静になって母親を呼んだ。
悲しかったのは、翌日の遊びの予定をキャンセルしろと親に言われたことだった。なぜ楽しみだった映画をあきらめなければいけないのか。わたしは母親に文句を言いつつ、母親のせいにできることにほっとしていた。しっぽがあるまま電車に乗って、二時間近く映画館の中にいられるかどうか不安だった。友達への言い訳も「しっぽが生えたから」なんて言いたくなかった。
でもそういうことに女子はするどい。わたしが家の都合で映画館にいけなくなったというと、約束をしていた三人はその場では「仕方ない」と笑ってくれた。そのあとわたしがトイレから帰ってくると、三人が真面目な顔でこそこそと話していた。
会話の内容を聞いたわけじゃない。でもきっとわたしの言い訳の理由を疑っていたんだろう。
数ヶ月前に、わたしも同じような会議に参加したことがあった。その日、体調不良で休んだ女子がほんとは別の理由で休んだんじゃないかという議題だった。その子が特別嫌われていたとか、悪口を言い合っていたわけじゃない。ただ前日に保健室に入るところを目撃し、トイレに小さなポーチを持っていったという報告だ。結論は出さない。報告を聞いてそれぞれがどう思うか。
わたしはどう思ったんだろう。どう思われたんだろう。
あと一時間したら、ベッドから起きて学校の準備をしなきゃ。そう思うと、時間が短くなった気がした。
タンスの奥から、しっぽ用のパンツを取り出して、つけていたものと履き替えた。
いらないって言ったのに、母親が勝手に買ってきたものだ。本当は履きたくないけど、これをつけるとしっぽのおさまりがよくなる。それだってなぐさめ程度で、しっぽがある違和感は消えない。
制服に着替えると、おしりの方で不自然にスカートが浮いている気がして、なかなか鏡の前を離れられなかった。おしりだから自分の目でちゃんと見ることもできず、左を向いたり、右を向いたり、振り返ったり、ターンしてみたり、いろいろを見る角度を変えてスカートの浮き具合が不自然じゃないかチェックした。
遅刻するよと母親におどされながら、それでもこれだけはおこたることができなかった。もしスカートが浮いたまま出かければ、すぐにしっぽがあるとバレる。誰とは言わないけれど、わかる人にはわかる。学校ですれ違った女子生徒のスカートの浮き具合を見れば、その人にしっぽがあるかどうかわたしにだってわかるぐらいだ。
スカートの浮き具合だけじゃない。歩き方にだってしっぽのあるなしが出てくる。
歩くとおしりにしっぽが擦れて痛がゆくなる。それをさけようと無意識に足が開いたり、片足にだけ重心が乗ったりして歩き方がおかしくなる。いつも通りを振舞いたいのに、そうすればするほどいつも通りがわからなくなる。
においだって自分じゃどうにもできない。信号待ちで隣に立たれると、動物園のにおいがその人にまで届きはしないかと不安だった。
気軽に歩いていた通学路も、しっぽがあるとこんなにも困難な道のりになってしまう。
信号の向かいにあるマンションから、しーちゃんが出てきた。わたしを見つけて信号の前で止まる。
今日はしーちゃんに会わずに学校へいきたかった。ちゃんとした約束をしているわけじゃないけれど、こうやって通学時間が合った時はいっしょに登校している。
信号が青になり、わたしはわざと時間をかけて横断歩道を渡った。
「木林、はやく」
しーちゃんは手招きしてわたしをせかした。
走りたくない。走ったら余計にしっぽが擦れて痛くなる。
わたしは二、三歩駆けたことを急いだ証として、最後は歩いてしーちゃんと合流した。
「おは。眠そうだね」としーちゃんは言った。
「眠いよ」
六時前に起きたということは黙っておいた。なぜ起きたのか聞かれたら困る。
「今日さ走り幅跳びのテストじゃん」
「うそ! そうだっけ!」
絶望だ。このまま家に飛んで帰りたい。
「そうだよ。この前の体育で次はテストだって。わたしきのうの夜、逆てるてる坊主まで作ったんだよ。なのにさー」
しーちゃんは晴れた空を憎らしそうに見上げた。五月の中旬。春の荒れた季節は終わり、梅雨はまだこない。
「休みたい」
思わず本音をもらすと、しーちゃんがうれしそうに肩を組んできた。
「いっしょに休んじゃう?」
「二人で休んだら絶対バレるでしょ」
「えー、バレてもよくない? 一組の水川さんだってテストの時ほとんど休んでんじゃん。もうやりたくないのバレバレ。でも先生なにも言わないでしょ」
「うーん、まあそうだけど」
あまり気にしたことはなかった。いや、気にしないようにしていただけで、体育のテストになると水川さんの姿が消えることは知っていた。そんな大胆なことができてしまう彼女が正直うらやましい。
わたしたちは二組で、体育の時間だけ合同になるからまだいい。同じ一組の人は彼女のことをどう思っているんだろう。彼女もそんなに休んで、どう思われたいんだろう。
「水川さんはもう今さらって感じでしょ。わたしたち二人が急に休んだら怪しまれるよ。それに小塚さん辺りがなんか言いそうじゃない?」
「ありえるー。あいつら絶対なんか言いそう。木林はまだいいとして、わたしはめちゃくちゃ言われそう。今でも部活やめたこと言ってくるんだよ。ちょー陰湿」
不機嫌になったしーちゃんが早足になる。それについていこうとわたしも歩幅を大きくすると、お腹がずきずきと痛んだ。
学校が近くなるにつれ、見かける生徒の数は増えていった。校門を入るとその数はどっと増え、下駄箱にはひっきりなしに現れた。
高い声に低い声、廊下を走る足音、カバンに着いたキーホルダーが揺れる音、スマホから流れるメロディー。あふれかえった音が土足で耳の中に入ってきた。頭の中をごちゃごちゃと散らかしていく。ひっくり返った棚から人形やアクセサリー、ポストカードが床に転がり、クローゼットからは洋服を四方八方にばらまかれ、誕生日プレゼントの包装のように愉快に壁紙をはがされる。
めまいがしそうな光景だった。いっそのこと額から上を切り取って、ぽいっと投げ捨ててしまいたかった。
スニーカーから上履きに履き替えるわずかな間、目を閉じることでなんとか平静を保ち、廊下や教室で会う友達とあいさつを交わしていった。
席に着けば少しは頭が休まると思い、気持ちあせって向かうと、教室の後ろでじゃれていた男子がぶつかってきた。わたしはよろめき、背後にあったロッカーに手をついた。
ヤバいという感じで男子が振り返る。
わたしは怒りよりもしっぽのことがバレないかと心配になり、相手の顔色をうかがおうと男子たちをじろりと見た。
彼らは「おまえなにぶつかってんだよ」「そうだよ、木林さんに謝れよ」「ふざけんな、おまえらのせいじゃねえか」と互いに責任を押し付け合うのに必死で、しっぽのことなんてまったく気づいてなさそうだった。
「すいませんでしたー」
なにが恥ずかしいのか、男子たちは冗談めかした態度で頭を下げてきた。教室の後ろでじゃれている方がよっぽど恥ずかしいのに。
わたしはなにも返事をせず、自分の席へ向かった。後ろで「おまえがちゃんと謝んねーから木林さんキレてんじゃん」と男子たちが言い合いをしているのが聞こえたけれどどうでもよかった。
席に着くと、数秒おしりに不快感が広がったものの、少し気持ちが楽になった。
2
体育は三時限目だった。着替える前に、しっぽの確認をかねてトイレへいった。本当はもっとはやく、授業ごとにトイレへ駆けこみたかったけれど、さすがに怪しまれそうでやめておいた。
しっぽの確認ができない間は、綱渡りのような不安定な足場に立っているような心地だった。なにかの拍子でしっぽの位置がずれてスカートが浮き上がってこないか、しっぽの毛が大量に落ちていないか。友達とおしゃべりしていても、そっちの方に頭がいってなにをしゃべったかは覚えていない。
トイレの個室に入ると、急いでパンツを脱いだ。ずっと座りっぱなしだったから、しっぽが蒸れて気持ち悪かった。ひさしぶりの解放感にほっとする。
このままトイレにこもっていたかった。お腹が痛いと言って走り幅跳びのテストは休もうか。体調が悪いのは本当だ。でも朝にしーちゃんの申し出を断ってしまったから気が引ける。機嫌を損ねてしまってもめんどくさい。
体育に出るならあまり長居はできなかった。遅刻したら悪目立ちするだけだ。
わたしはパンツについたしっぽの毛をはらい、用を足して個室を出た。
手を洗っていると、別の個室から水が流れる音が聞こえてドアが開いた。肩まで伸ばしたストレート髪の水川さんが出てくる。スカートはちょっと長め。重そうなまぶたに、面長な顔。
わたしは彼女に気づかれないように隣を盗み見た。ゆっくりとした仕草で手を洗う水川さん。今日のテストも休むつもりだろうか。わたしはしっぽがあっても出るっていうのに。
ぶつけどころのない怒りがわいてきて、洗う手を強くこすった。
「具合悪いの?」
思わず水川さんを見た。わたしがなにも返せないでいると、水音でうまく聞き取れなかったと思った彼女が自分の蛇口を閉めてもう一度言った。
「具合悪いの?」
わたしはどうしていいかわからず、口を半開きにしたまま首を横に振った。
「ごめん、ちょっと顔が白かったから」
水川さんは申し訳なさそうに言って、トイレから出ていった。
一人になったわたしは蛇口を閉め、目の前の大きな鏡を見つめた。白いと言われた顔に触れてみる。彼女との会話に緊張したのか頬骨の辺りは妙に火照っていて、耳から顎にかけてはひんやりとしていた。
水川さんと言葉を交わすのはこれが初めてだった。正確には彼女が一方的にしゃべって、わたしは首を振っただけだけど、これまでは互いを認識して会ったこともなかった。
そんな水川さんだけが、しーちゃんやクラスメイト、親にだって見破られなかったことをたった数秒で言い当てた。
わたしから休みたい気持ちがあふれていたのだろうか。それとも彼女もしっぽがある日なんだろうか。
朝とは違う意味で水川さんが気になっていた。彼女のことを知りたいと思った。彼女にならしっぽのことを素直に打ち明けることができそうだった。
それからわたしは着替えの時間が終わらないうちに教室へもどっていった。
机に体育着を出しながら、一組の女子の中に水川さんを探す。体育の時、一組の女子はわたしたち二組の教室で着替えることになっている。二組の男子は一組で着替える。
誰が決めたわけでもないのに一組の女子は教室の廊下側半分、二組の女子は窓側半分に寄って着替えるようになった。その半分の中にやはり水川さんの姿はなかった。
「木林遅~い」
ただの事実を説明しながらしーちゃんがわたしの机に手をついた。
「ごめん、トイレいってた。先出てよかったのに」
「わたしがそんな薄情なことするわけないでしょ」
「はいはい。やさしいしーちゃん大好き」
「わかればよろしい」
軽口を叩きつつ、着替えを側で見られたくなかったわたしは、一人にしてもらった方がよかった。
体育着のズボンはスカートの下から履くため、わざわざしっぽを隠すこともない。しーちゃんの視線を気にしながらも、ズボンを履こうとすると、
「ねえ、もしかして〈あの日〉?」
耳元でしーちゃんが言った。
瞬間、止まりそうになった手をどうにか動かし続け、しーちゃんを見返すことも寸前のところでとどまった。
「違うよ」軽く笑いながら返す。どうして正直に「そうだよ」と言わなかったんだろう。「ちょっと変なこと言わないでよ」
正直に言っていれば、走り幅跳びのテストを休めたかもしれないのに。ちょっと強引なところもあるしーちゃんは、その強引さを時々、正義感に変えて周りと戦うことだってあるのだ。
しーちゃんが一年間続けた卓球部を辞めたのは、塾との両立が困難になったからだけじゃなく、部活内でいじめがあったのを顧問に訴えてもなにも動いてくれなかったからだ。
いじめを受けた子がチクったと仕返しされるのを心配して、しーちゃんはそれを卓球部の誰にも伝えず部活を辞めた。そのせいで今でも小塚さんたちに裏切り者扱いされている。小塚さんたちだっていじめがあったことは知っているはずなのに。
「違うならいいんだ」
しーちゃんは納得がいかない顔をしながらも、それ以上は聞いてこなかった。
わたしは手の震えに気づかれないよう急いで着替えた。
しっぽがあることは変なことじゃない。わたしだけにあるわけじゃないし、数日経てば消える。それなのに、自分についているしっぽはどうしても変なものに感じてしまう。〈あの日〉というのは、わたしがわたしじゃなくなる日だ。
気分が重くなると、腰周りもずーんとだるくなった。
授業の始めは体育教師の分子みたいになった体育係を先頭に校庭を一周する。一列になって走るから、おしりにしっぽが擦れようと、お腹に突き刺すような痛みがあろうと後ろの人が気になってペースを落とせない。
準備運動へ移る少しの間、足が疲れた振りをしてその場にしゃがみこむ。「整列してください」と声がかかると、みんなの集まり具合を見て最後にならないように立ち上がった。
腕を回す、体を折りたたむ、すべての動作が寝起きのようにおっくうだった。
首筋を汗が伝う。健康的な汗じゃない。きっと脂汗だ。
準備運動が終わると体育教師がテストのやり方を説明した。最初に練習で二本飛んだら、出席番号順に距離を測っていく。計測は体育係の仕事で、テストを受け終わった人は次回からやるサッカーのパス練習をしているようにとのことだった。
テストの前に二本も走り幅跳びを飛ばなきゃいけない。練習は流して飛んで、本番に力を残しておこうか。そんなことしたら、しーちゃんや周りの人に〈あの日〉だってバレるかもしれない。あの短い距離を走るのでさえ気が遠くなりそうなのに、三本もちゃんと跳ぶなんて無理だ。
「木林~パス練いっしょにやろう」
しーちゃんが寄ってきた。
「パス練?」
「サッカーの」
「幅跳びだよ」
「終わってからだよ。全然話聞いてないじゃん」
しーちゃんはわたしを不真面目だと笑った。聞いてないんじゃなくて、聞いたけれどそんなことはさっさと忘れて頭を軽くしたかった。
それからテキトーに列に並んで幅跳びの練習をした。
前の人たちを見ていると、近所のコンビニへ入っていくようにふらふらと駆け、小さい子が水たまりに入るように両足で着地している子が数人いた。わたしもその子たちをならってふらふらと走り、ちょこんと砂場に立った。
これなら体への負担がおさえられる。
でも運が悪かった。さっきまで手元のボードになにかを書き込んでいた体育教師が顔を上げ、わたしのいいかげんなフォームを見ていた。
「木林ちゃんとやんなさい。そんなんで本番やったらケガするよ。みんなも練習もテストの内だからね。ちゃんとやるように。ほら、木林もう一回」
一瞬、意識が飛んだ。血管の中を細い針が流れていくように、頭から足のつま先までするどい痛みが突き抜けた。
横顔にみんなの視線を感じる。わたしがもう一度跳ばないと、この時間は進まないのだろう。
わたしは助走位置に立った。喉がカッ熱くなって、鼻がつんとした。泣きたくはなかった。
「しっかり構えて」体育教師が首にかけていた笛を鳴らす。
私は走り、踏切り位置で地面を蹴った。砂場に片足がつくと、衝撃で痛むお腹が破けるんじゃないかと思った。
「はい次」体育教師が笛を鳴らす。『ピッ』という音がわたしの頭を『ガン』となぐりつけた。
無性に悲しかった。あふれてくる涙をこぼすまいと肩で息をしてどうにか引っ込めた。
「ドンマイ」
やさしく背中をさすってくれたのはしーちゃんだった。そのなぐさめも今はみじめさを引き立たせるだけにしか思えず、わたしはそんなじゃないとアピールするために笑ってみせた。
自分から進んで列に並ぶ。そうしておきながら、できるだけ自分の番が遅くなるよう願った。
「練習とかいいからはやく終わらせてくんないかなー」
隣の列に並んでいた子が言った。茶色がかった長い髪に、うっすらと化粧をしている。名前がはっきりしない一組の子だ。
「マジだるい」
「日焼け止めもっとぬってくればよかった」
その子の前後の女子もぶつぶつと不満をもらした。
「あたしも休みたかったなー」
「マジそれ。あたしもだわ」
「あんたらじゃ言ったって休ませてもらえないっしょ」
三人目がそう言うと、他の二人がその子を小突いた。
「なんで水川さんはいいのにあたしはダメなわけー?」
「普段から水川さんみたいにおとなしくしとけばいけんじゃね?」
「てか、水川さんのあれ、絶対仮病だから」
「んなの常識っしょ」
「体育のテストの日とかバレバレなんだよ」
ヒートアップしてきた三人は声を潜めるのをやめた。
「ずりーんだよ、毎回毎回さ」
「最初から休むんだったら学校くんなって話でしょ」
「なんだっけ、ほらシャトランのあと」
「調理実習!」三人が声を合わせた。
「シャトランやんないのに調理実習はするんだよ」
「あれはマジでムカついた」
「あたしちょっと言ったからね」
「うそ。なんてなんて」
「お腹空いてないのに食べんのって」
「なにそれー、ウケるー」
「こわいんですけどー。なんか言ってた?」
「なにも。さっきまでは調子悪かったからって」
「うそ下手すぎっしょ」
「そこ、おしゃべりしてないではやくする」
体育教師の注意で、三人組の会話は一旦終わったものの、跳び終わった砂場の向こうでもこそこそと話を続けていた。
彼女たちは間違っていない。その通りだと思った。ずるい。わたしはしっぽがあっても、こうしてやり直しに耐えて必死にテストを受けようとしている。他にも走り幅跳びが死ぬほど嫌いな子だっているだろうし、足が痛い子、歯が痛い子、なんとなくどこかが調子の悪い子だっている。
その人たちを差し置いて、水川さんだけ休みなんて許せなかった。
トイレで彼女に調子を聞かれた時、首を振っておいてよかった。もしかしたら道連れにされていたかもしれない。彼女だってこれだけ休めば、陰でいろいろ言われていると気づいているはずだ。じゃなきゃバカだ。
水川さんはわたしの体の内を見破ったんじゃない。単に道連れがほしかっただけなんだ。
そんなやつに一瞬でもしっぽのことを打ち明けようとしていたなんて、わたしの方こそバカじゃないか。
わたしはずるいやつにはならない。しっぽがあったって普段通りにやってみせる。しっぽにわたしを明け渡したりしない。
テストが終わると急激に気分が悪くなった。
サッカーのパス練習なら立っているだけだし乗り切れると思ったけれど、だんだんと吐き気もしてきて、立っていることさえつらくなった。
ボールを蹴るために重心を動かすこともできない。指先ひとつでも動かしたらギリギリのところで保っている堤防が崩れて、全身に気持ち悪さが流れ込んできそうだった。
「木林パース。木林ぃー。おーい」
二十メートルくらい離れたところでしーちゃんが両手を振る。逆光のせいかずっと顔をしかめていた。
十五秒くらいしてわたしの反応がないとわかると、しーちゃんは走ってきた。
「木林? どうした? 具合悪い?」
これ以上はと思って、わたしは黙ってうなずいた。
「もうはやく言えよー。先生にはわたしが言うから保健室いってな」
ごめんも、ありがとうも言えず、わたしは一番体に負荷がかからないタイミングを見計らって、よたよたと歩き出した。
下駄箱がはるか遠くに感じる。まるで砂漠のど真ん中を歩いているような心細さだった。
下駄箱に着いた時、終業のチャイムが鳴った。
四時間目は社会で、確かビデオを見るだけの授業だった気がする。大変な思いをしてまで走り幅跳びをやって、座っていればいいだけの授業を休むなんて。自分の間抜けっぷりを呪った。
一階の端にある保健室に入ると、ちょうどベッドを仕切るカーテンから水川さんが出てくるところだった。
「教室もどるの?」と保健教師が言った。
「はい」と水川さんがわたしに気づいた。
「無理しないでね」
「あの先生……」
水川さんがドアの方に手をやって、保健教師の視線をわたしに向けさせた。
「あら、ごめんね。気づかなかった。どうしたの? 気分悪い?」
声を出す気力がなくて、わたしはうなずいた。
「熱はありそう?」
首を横に振る。
「横になりたい?」
うなずく。
「そっか。じゃあしばらく休んで様子を見ましょう。ここ使っていいからね」
保健教師が水川さんが出てきた隣のベッドのカーテンを開ける。わたしはふわふわした足取りでベッドへ向かった。
水川さんの前を通り過ぎる時、涙目で彼女を見上げた。なにか違和感を覚えたけれど、それよりもはやくベッドに横になりたかった。
ベッドに入ると、保健教師が布団をかけてくれた。ちょっとかさついた手でわたしの額と首筋に触れる。
「熱は大丈夫ね。でも顔が白い。貧血かしらね。ああ、寝てていいから」
保健教師がカーテンを閉めて出ていくと、わたしは目を閉じた。ほんのわずか気分がやわらいだ。
「体育なんだったのかしら」
保健教師の声が聞こえて、そういえば体育着のままだったとぼんやり思った。
「幅跳びです」と水川さんの声。
「あなた知り合い?」
「体育がいっしょで。その前から具合悪そうでした」
「あらそうだったの。今日ちょっと暑いもんね」
「じゃあもどります」
「気をつけて」
ドアの開け閉めが終わると、保健室の中は妙に静かになった。すぐそこに保健教師がいるはずなのに物音がしない。かと思えば大音量の予鈴が響いて、わたしは頭から布団の中に潜り込んだ。
しばらく楽な態勢を探してもぞもぞと動き回った。おしりを上にして、やや横向きの位置で落ち着いた。
眠くはなかった。目を閉じたままじっとする。そのうち、しーちゃんのことがぽっと頭に浮かんだ。先生にはなんと言ってくれただろう。迷惑かけて悪かったな。机の上の制服は、きっとしーちゃんがロッカーにしまっておいてくれるだろう。〈あの日〉じゃないとうそついたこと、あとでいろいろ言われるかな。でもしーちゃんのことだから黙って知らない振りをしてくれそう。わたしはどっちがいいんだろう。どっちでもよくて、どっちもいや。
少し首の角度を変える。頭とベッドが擦れて、髪がぼさぼさだと遠い意識の中で思った。
ツノ……。
ぱっと目を開ける。
そうだ、ツノだ。水川さんの頭にはツノがあった。すれ違った時の違和感はそれだ。
髪に埋もれているから一目見ただけじゃわからない。さっきは水川さんが油断していたためか、それともわたしの焦点が普段とずれていたためか見ることができた。
やや赤みがかった彼女の肌と同じ色の小さなツノ。
決してするどいものじゃなく、先端も丸みを帯びていてやわかい部分も持ち合わせたようなツノ。
彼女にツノがあるなんて知らなかった。誰もそんなこと言ってなかった。ただ彼女は体育のテストをずる休みする人として広まっていた。
あのツノはなんだろう。わたしのしっぽのようなものだろうか。だとしたら彼女はとんでもない誤解を受けている。いや、わたしたちが勝手に誤解しているんだ。
もし水川さんがツノを見せれば、なにかあるんだと周りの人の目も変わるだろう。でもどうやって? わたしが彼女ならやたらにツノなんて見せたくない。ツノが恥ずかしいものだからじゃない。ちょっとはそういう思いもあるだろう。なぜツノを見せなければ悪者になるのか。ツノは銅鏡でも印籠でもなく、ただのツノだ。
しーちゃんの声で目が覚めた。いつの間にか眠っていたらしい。
布団の中からのそのそとはい出る。
「気分どう?」しーちゃんが言った。かすかにハンバーグとマカロニサラダが混ざったにおいがして、数秒息を止めた。
「だいぶよくなった」
「ゼリー持ってきた。給食の」
「ハンバーグだった?」
「うん。食べたかった?」
「ううん。そんな食欲ない」
「それから制服ね」
「ありがとう」
「着替える?」
「うん」
「髪ぼさぼさ」
しーちゃんはわたしの髪をいくらかとかしてからカーテンの向こうへ出た。
「ねえちょっと名簿にお友達の名前書いてくれない?」
「わたしでいいんですか?」
「組と名前がわかればいいから。具合悪い人に書かせられないでしょ」
しーちゃんと保健教師のやり取りを聞きながら服を着替える。
ズボンを脱ぐとしっぽの毛がぱらぱらと床に落ちて、はっとした。急いで上履きではいてベッドの下へ追いやった。
布団をめくってベッドを見ると、わずかに毛が落ちていた。一本も残さないように両手を使って集め、ベッドサイドのティッシュを三、四枚むしり取ったのに包んでゴミ箱に捨てた。
布団の裏にもついてないか細かくチェックする。他は大丈夫そうだった。
制服に着替えてカーテンを開ける。
真面目な顔のしーちゃんが中央のテーブルに向かっていた。
「名前合ってる?」
保健室の利用者名簿を見せてくる。
「『カ』が違う。『加』じゃなくて『佳』だよ」
わたしはテーブルの上に指で字を書いた。
「うそ。ずっと『加』だと思ってた」
「よく間違えられるんだよね。スマホでも最初に出てくるの『加』だもん」
「どこからカラスが入ったのかしら」
保健教師が冗談めかして言うと、しーちゃんは「カーカー」と下手なカラスのものまねをした。
それを見て笑うわたしに、保健教師が言った。
「顔色よくなったわね。午後は出られそう?」
「なんとか」
「無理しないでね」
「ゼリー食べてけば?」イスに深く腰かけたしーちゃんは自分の家みたいにくつろいでいた。「もうみんな食べ終わってるし、教室じゃ食べにくいっしょ」
「いいんですか?」
わたしは保健教師を見た。
「どうぞどうぞ。お茶でもいれる?」
「やったー」
しーちゃんはうれしそうに両手を突き上げた。
3
それから数日、体の不調は続いた。初日と比べれば楽になっていったものの、透明な重いコートを一枚羽織っているように体はだるかった。学校のチャイムも耳障りだったし、給食も献立によってはにおいだけで吐き気がした。
四日目。短く、細くなったしっぽに終わりを感じて、ひさしぶりに気分が晴れた。反対にしっぽの毛はしんなりとして、色も薄くはっきりしなかった。
なにもしなくても浮き上がらないスカートがうれしくて、鏡の前を離れたくなかった。
気づけば八時を過ぎていて、わたしはあわててカバンを引ったくり部屋を出ていった。階段を駆け下りる。四日前はこんなこともおっくうでできなかった。
玄関を出る直前、ふと雨が降ると思って脇に置いてある傘立てから青色の傘を取った。
「え、なんで傘?」
わたしが信号を渡ってくるなりしーちゃんは言った。
「今日雨降るんじゃなかったっけ?」
「降らないよ。わたし天気予報見てきたもん」
「あれ、そうだっけ」
しーちゃんはスマホを出して、天気予報を検索した。
「ほら、全国的に洗濯日和だって」
見せられた画面には、日本列島のいたるところにニコニコマークがついていた。洗濯物が干せるのがそんなにうれしいことなんだろうか。わたしは母親がニコニコ顔で洗濯物を干しているところを見たことがない。
「なんで傘持ってきちゃったんだろ」
「知らないよ」
「雨降ると思ったんだけどなあ」
「どこの天気予報?」
しーちゃんに聞かれて、わたしは今朝見たテレビの内容を思い出した。
「そういえば今日、天気予報見てなかった」
「なにそれ。木林ってたまに天然だよね」
「やめてよ。人をバカみたいに」
「バカじゃなくて天然」
「だいたい同じでしょ」
「違うよ。バカはさ、なんていうかバカ? じゃん。天然はかわいげがある」
「かわいげがない天然は?」
「バカ!」
わたしたちは声を上げて笑った。
通学路で見かける生徒の中にも傘を持っている人はいなかった。わたしはだんだんと傘を持っているのが恥ずかしくなって、しーちゃんに押し付けようとして逃げられた。
下駄箱で会う友達にもなぜ傘を持っているのか聞かれ、知らない人も遠目から怪訝な顔で見てきた。
教室ではバレないと思って安心していたのに、さっそくしーちゃんがバラしてみんなに笑われた。よく晴れた窓の外を見ると、しっぽがむずがゆくなった。
お昼休み、トイレにいったついでに、気になって下駄箱まで傘を見にきた。がら空きの傘立てには青色の傘、それから白い傘があった。てっきり青い傘が傘立てを独り占めしていると思っていたから、白い傘があるのに驚いた。
まさかわたしのように勘違いをして傘を持ってきた人が他にもいるのだろうか。
廊下の先でドアが開く音がした。そこにあるのは保健室だ。水川さんが出てきて、そっとドアを閉めた。
体育のテストの時だけ保健室にいくんじゃないんだとぼんやり思った。
水川さんは二、三歩進むとアニメのキャラクターが特殊能力を使う時のようにこめかみを押さえた。その様子をなにげなく見ていると、視線を上げた彼女と目が合った。
わたしは彼女が会話の糸口を見つけてくれることを願った。けれど、彼女はとてもつらそうで、そんなことができる状態じゃなかった。
わたしは緊張につばを飲み、五回以上瞬きをしてから口を開いた。
「大丈夫?」
水川さんは深く息を吐いた。
「今日はちょっときついかな。これから雨が降るから」
下駄箱の外に目をやり、遠くを見つめる。
「雨が降るの?」
「うん。これは降るね」と水川さんはまたこめかみに手をやった。
わたしも彼女にならって下駄箱の外を見た。校門の前に生えたソメイヨシノの木の葉が強い太陽に照らされて青々と光っていた。
「もしかして、白い傘って水川さんの?」
「そう」
「そっか」なんとなくそんな気がしていたからうれしかった。「わたしもなんだか雨が降る気がして傘持ってきちゃったんだ」
わたしたちはしばらくの間、雨が降りそうにない外をながめた。
上からは生徒たちの騒ぐ声、前からは車の走行音が聞こえた。不思議とそれらは雑音には聞こえず、わたしたちに静けさを与えてくれた。すずしい風が通り抜ける。
「どうして雨が降るって思ったの?」
水川さんの表情はいくらかやわらいでいた。
「なんとなく。そんな気がして」とわたしは言った。「体が雨だって言ってて、わたしもそれを疑わなかった」
疑わなかった理由は、きっとしっぽだ。今朝はしっぽがしんなりして、色つやも悪かった。それと雨がどう関係しているかは知らない。でもきっと関係している。
「水川さんはどうして雨が降るってわかるの? もしかして、本当に特殊能力が使えるの?」
「特殊能力?」
おかしそうに笑う水川さんに、わたしはこめかみに手を当てるポーズをまねて見せた。
「こう、してたでしょ?」
「そんなこと初めて言われた」
彼女は自分のツノを見るように上向いた。
「頭がぎゅうって締め付けられるように痛むんだ。そういう日はどんなに晴れてても必ず雨が降る。わたしのは天気予報より正確なの」
水川さんはお天気お姉さんのように愛想よく笑った。
「そういう意味では特殊能力っていうのも間違いじゃないね。そんなふうに考えたことなかったな。木林さんっておもしろいね」
彼女がわたしの名前を知っていることに少し驚いた。
「木林さんは体調もう大丈夫?」
「うん。もう平気」
彼女は「よかった」とわたしにもやっと届くような声でつぶやいた。
わたしは二本の小さなツノを隠し持つ頭を見つめた。そのうち、「体育のテスト」と口をついた。言い出したからには最後まで続けなければならない。
「休むのも特殊能力のせい?」
水川さんは無表情でわたしを見たあと、そっと目を閉じた。こめかみに手を当て、その流れで横の髪をさっと後ろへとかす。目を開けた。
「そうだよって言えればいいんだけど。体育のテストの日と重なって頭が痛くなるのが、テストを受けたくないからなのか、それとも他に原因があるのかはわからない。今日は締め付けられるような痛みだけど、あの日はガンガン響くような痛みだった。ズキズキ痛む日もあれば、鉛のように頭が重い日もある。天気みたいにその日で変わるの。医者には根本的な解決策はないって言われてる。痛みをやわらげる薬しかもらえないから、薬が効く以上の痛みが出ると立っているのもつらくなる。本当は痛みがあるうちはできるだけ寝ていたい。でもそうすると、一日中保健室にいることになる。だから出られる授業は出ようって思ってるんだけど、そのせいで『体育のテストだけ休むキャラ』になっちゃった。うまくいかないもんだね」
わたしも知らないうちに水川さんを『体育のテストだけ休むキャラ』に仕立て上げていた。
あの日はしっぽのことを隠したくて、わたしが勝手に無理をした。彼女が保健室のベッドを占領していたわけじゃない。なのに、わたしは保健室のベッドで痛みに耐える彼女を恨んだ。
スカートの中で小さくなったはずのしっぽが、わたしを責めるように存在感を増した。
「体育、次からサッカーだって」
知りたかったツノから今は遠ざかりたくて話題を変えた。
「できるだけ出るようにしないと」
「……無理しない方がいいよ」
「お互いにね」
「……そうだね。でもあの日はほんとに大丈夫だと思ったんだよ、ほんとに」
水川さんにはうそだとバレてるだろう。それでもわたしは言い訳をせずにはいられなかった。
あなたは強いから休めるけど、わたしは違うなんて思いたくない。みんなあなたみたいにはなれないなんて、言ってやるもんか。彼女だって十分周りの目を気にしてる。
わたしはスカートを握った。
彼女はこめかみを押さえた。
居心地の悪い沈黙のあと、水川さんは「じゃあ」と去っていった。
六時限目の国語の途中、雨が降り出した。ため息と驚きに満ちたクラスメイトの視線は窓に集中し、授業は一時中断した。
帰りの会が終わると、外の部活の子は活動場所が変更になったと伝言を回し、帰宅組はこのまま帰るか、時間を待って様子を見るかを考えていた。
しーちゃんはまっすぐにわたしの席へ走ってきて、手を合わせた。
「お願い木林、傘入れて」
「今朝はなんて言ってたっけ?」
わたしはわざとしーちゃんには目を向けず、カバンに教科書やノートをつめていった。
「え、わたしなんか言ってた? 「木林様、天才」しか言った記憶ないんだけど」
調子のいいこたえに、わたしは思わず笑った。
二人で下駄箱へ下りると、玄関ドアの手前で空を見上げている生徒が数人いた。ここまできたのはいいけれど、雨の中帰る踏ん切りがつかないでいるらしい。
わたしは上履きからスニーカーに履き替えると、傘立てから青い傘を取った。白い傘が目に付く。
「あれ誰の傘だろう」しーちゃんが言った。「木林みたいに雨降るって知ってた人がいたのかな」
「そうかも」
「へえ、すごい偶然」
「そうだね」
雨宿りをしている人たちの前で傘を開くのはなんだか気が引けて、わたしたちは一番端のドアから出ていった。
玄関の庇を出ると、雨粒が当たって傘の中は騒がしくなった。二人で傘の中に身を寄せて歩いていく。
「すぐやみそうにないね」
しーちゃんは傘から手を出して雨の具合を見た。
後ろからジャラジャラとキーホルダー同士がぶつかる音が近づいてきて、わたしたちの横を男子生徒が走り抜けていった。
「あーあ、ずぶ濡れだ」
少しでも濡れないように走りながら地面に水しぶきを上げ、ズボンの裾をひどく濡らしていく男子生徒。
わたしは水川さんのツノのことを考えていた。
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