魔法の飴玉

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 土砂降りの雨だった。ずっと網戸のままだった玄関も窓も今日はしっかり閉まっていて、爺ちゃんも婆ちゃんも家にいた。窓の閉まった縁側に寝転んで外から聞こえる雨の音を聞きながら、僕は香帆ちゃんのことを考える。 ―――どんな病気でも治せるお薬なんでしょ? 出来ることなら変わってあげたい。元気な体も、学校へ行かなければいけない毎日も。香帆ちゃんが羨む僕の全てを、香帆ちゃんにあげてしまいたい。  青白い顔で笑う香帆ちゃんの姿が頭から離れない。香帆ちゃんの病気は少しもよくなってなんかいない。そんなこと一目瞭然だった。香帆ちゃんだって本当は分かっているはずだ。僕が‘薬’と称して食べさせているのはただの飴玉で、そんな薬は存在するはずがなくて、僕は嘘つきなんだって。  家の中に、ブザー音が響く。‘ビー’と鳴る不格好な音はこの家のインターフォン。近所の人は大抵玄関を勝手に開けて「こんにちは」と中に向かって大きな声を出す。だからこの音が鳴るのはとても珍しい。 「はぁい。」 婆ちゃんの声が足音と共に聞こえる。現実に戻された僕の頭の中から香帆ちゃんの姿が消える。目を閉じて、再び雨の音を聞こうとした時、玄関から婆ちゃんに大声で名前を呼ばれた。 「何?」 玄関に行くと、そこには婆ちゃんと知らない女性が立っていた。 「臣、お前、‘花屋敷の子’と知り合いなんか?」 婆ちゃんがそう尋ねる。 「···香帆ちゃんのこと?」 僕の問いに頷いたのは、婆ちゃんじゃなく女性だった。 「家政婦をしている篠田です。」 初めて見るお手伝いさんは、僕が想像していたより随分若かった。僕の母さんくらいだろうか。てっきり婆ちゃんと同じくらいの人だと思っていた。 「香帆ちゃんの調子が良くなくて、」 篠田さんの顔は真剣だった。 「本当は、東京の病院に行って治療をした方が良いって言われているのに、」 でもその顔は、どこか既視感があった。 「でも、香帆ちゃんは行きたくないって。」 ひんやりと冷たい手が、僕の腕を掴む。 「‘臣くんが治してくれるから良いの’って、一体どういうことなんですか?!」 その手に、体温を奪われていくようだった。僕は何も答えられないまま、その手を振りほどいて外へ飛び出した。  土砂降りの雨。サンダルを履いた足がみるみる泥だらけになっていく。緩い坂道を駆け下りて香帆ちゃんの家へ向かう。 ―――魔法みたい。 香帆ちゃんは笑ってた。 ―――だって臣くんが口に入れてくれると、本当に元気になってる気がするから。 僕の嘘を受け入れて、笑ってくれた。 「香帆ちゃん!!!」 ずぶ濡れのまま、香帆ちゃんの部屋の窓を叩く。雨の音で何も聞こえない。カーテンが閉まっていて何も見えない。 「香帆ちゃん!!このままでも良いから聞いて欲しい。」 雨の音に負けない声で、僕はそこにいるかどうかも分からない香帆ちゃんに話しかける。 「僕は、」 心臓が、胸が、心が、ズキンズキンと音を立てる。 「東京で、虐められてこの町に逃げて来た。」 思い出すだけで、体が竦む。 「怖いんだ。学校も、人の目も。···勉強も出来ない。運動だって出来ない。僕はいつも1人で、学校に行ったって楽しいことなんか何もない。」 それは、この町に来ても変わらなかった。 「嘘なんだ、全部。···香帆ちゃんに話したこと、全部、全部、嘘なんだ。だから、」 香帆ちゃんの前にいる時だけでも、‘普通’でいたかった。両親が望んでいた、普通の子どもとして存在してみたかった。でも僕の嘘が、香帆ちゃんが生きる邪魔をしているのならそんなのもう必要ない。 「僕の薬で、君の病気は治らない。」 香帆ちゃんと僕を繋いでいたあの薬は偽物。 「あんなのただの飴玉なんだよ!!」 これで香帆ちゃんと僕の間にあった繋がりが消えてしまうとしても、 「だから香帆ちゃん、ちゃんと治療を受けて、生きて欲しい。」 僕は、香帆ちゃんに生きて欲しい。 雨なのか涙なのか分からないけれど、ぐしゃぐしゃに濡れた顔を腕で拭う。すると目の前の窓のカーテンがゆっくり開いて、青白い顔をした香帆ちゃんが現れた。目を伏せていた香帆ちゃんの視線が少しずつ上を向いて、視界に僕を捉える。次の言葉を探していると、手を伸ばした香帆ちゃんがガラガラと音をたてて窓を開けた。落ちて跳ね返った雨粒が、部屋の中へ入って行く。窓際に立つ香帆ちゃんのパジャマにも小さなシミを作っていく。 「···臣くん。」 ポツリと僕の名前を呼ぶ。 「全部嘘だったなんて、言わないで。」 雨に当たっていないはずの香帆ちゃんの頬が濡れていた。 「ただの飴玉でも、臣くんがくれることに意味があったの。」 細い腕が、そっと僕に向かって伸びてくる。 「楽しかったの。嬉しかったの。1人ぼっちの私に、臣くんはいっぱい優しくしてくれた。」 雨に濡れた僕の腕に、香帆ちゃんの手が触れた。 「私にとっては、魔法の飴玉だったんだよ。」 香帆ちゃんは、ちゃんと気付いていたのだろう。あの飴玉が薬じゃないってことに。 「香帆ちゃん、東京の病院で治療すれば治るかもって、」 そう言うと香帆ちゃんは俯いて首を横に振る。 「···私、また1人ぼっちになっちゃう。もう臣くんに会えなくなっちゃう。」 苦しい。悲しい。愛しい。僕の知っている言葉じゃ言い表せない感情で、体中がいっぱいになる。僕に出来ることはないのだろうか。嘘をつくこと以外で、飴玉をあげること以外で、僕が香帆ちゃんのために出来ることはないのだろうか。必死に考えた。 「···香帆ちゃん、」 あった。 僕に出来ること。僕にしか出来ないこと。 「僕も、東京に戻るよ。」 声が、震えそうだった。目の前の香帆ちゃんの目が大きく見開く。 「僕も東京に行く。もう、イジメなんかに負けない。」 本当は戻りたくない。怖くて堪らない。 「香帆ちゃんが1人ぼっちにならないように、届けに行くから。‘魔法の飴玉’。」 僕の家と、香帆ちゃんが暮らす場所がどれ程離れているかも分からない。でも、ここからよりはずっと近い。いや、遠くたって良い。僕が、会いに行けば良いのだから。 「香帆ちゃんを1人ぼっちにはさせない。これは嘘じゃない。本当に、本当に会いに行くから、」 香帆ちゃんの手をぎゅっと握った。 「生きて下さい。」 香帆ちゃんの綺麗な顔がくしゃくしゃになって、雨に濡れた僕と同じくらい頬を涙が伝う。 「…嘘だったら許さないからね。」 そう言って、口をへの字にした香帆ちゃんは僕の手をぎゅっと握り返してくれた。僕は何度も首を縦に振る。 「これからも、よろしくね。」 香帆ちゃんがくしゃくしゃの顔で笑う。飴玉がなくても、嘘をつかなくても、香帆ちゃんは僕に笑ってくれた。
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