魔法の飴玉

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「香帆(かほ)ちゃん、目を閉じて。」 長い睫毛を微かに震わせながら、目の前の大きな瞳が静かに閉じていく。閉じきった瞬間、小さな口がその唇を結ぶようにキュッと動く。それを合図に、僕はポケットから小さな包み紙を取り出す。 「香帆ちゃん。」 そう名前を呼ぶと、結んだ唇がゆっくり開かれる。そこに僕は開いた包み紙の中身をそっと押し入れる。コロンと小さく音をたてて、香帆ちゃんの口の中へ吸い込まれる。空になった包み紙をポケットの中に押し込んで、その綺麗な顔を眺める。 「臣(おみ)くん。」 再び長い睫毛を震わせて、香帆ちゃんが目を開ける。 「ありがとう。」 その笑顔が好きだった。なのに僕の心は日々罪悪感を積み重ねていく。 僕は、どうしようもない嘘つきだ。  香帆ちゃんは体が弱くて、学校に行けない子だった。香帆ちゃんのお母さんも同じように体が弱く、もう随分前に亡くなったらしい。僕は香帆ちゃんのお母さんを知らないし、香帆ちゃんの体がどんな病気に苦しめられているのかも知らない。僕は、香帆ちゃんのことをほとんど知らない。  外にいるだけで汗が流れる夏の日々。学校からの帰り道、水筒の中身は既に空っぽで、滝のように流れる汗を手で拭いながら家への道を1人歩いて行く。街中にある中学から、僕はきっと1番遠い所に住んでいる。街の周りを囲むように並んだ小高い山の麓。そこに数軒忘れ去られたように建っているボロい家。その中の1つが今僕が住んでいる場所。蜜柑農家を営む爺ちゃんと婆ちゃんの家だ。  網戸になっている玄関。防犯意識も何もあったもんじゃない。窓は全て開けっ放しなのに、家の中には誰もいない。今は裏の畑にいる時間だろうか。空っぽの水筒をシンクに置いて、冷蔵庫から麦茶のボトルを取り出す。キンと冷たい麦茶が喉を通って体温を下げる。  時計を見ると4時半を過ぎていた。急いで麦茶を冷蔵庫に片づけて、ドアポケットにある飴玉を1つ握りしめる。そして僕は再び家を飛び出した。 「香帆ちゃん。」 山の麓から街の方へ下っていく途中に、花で埋め尽くされた広い庭の中に立つ平屋の家がある。低い塀の向こう側に見える庭は、何度見ても思わず息を飲む程綺麗で、初めてこの町にやって来た日、僕はしばらくその場から動けなかった。 ―――何か御用ですか? その時庭の中で花に埋もれるように立っていたのが香帆ちゃん。ビー玉みたいな大きな丸い瞳におかっぱ頭。真っ白な肌に細い体。花の中に佇む香帆ちゃんは妖精か何かのようで、僕は目を離せなくなった。 ―――お花、好きなの? 別に花に興味なんてなかった。でも僕は香帆ちゃんの言葉に黙って頷き、香帆ちゃんに招かれるままその庭の中に足を踏み入れたのだった。 「臣くん、汗だくだね。」 エアコンがついているわけでもないのに、僕の汗だくの額に触れた香帆ちゃんの手はひんやり冷たい。 「今日は最近の中で1番暑いよ。」 香帆ちゃんは迷いなく僕に触れる。毎回僕がどんな気持ちになっているのかも知らずに。 「何か、飲む?」 「大丈夫。さっき家でお茶飲んできたから。」 「そっか。それで今日は、学校でどんなことがあったの?」 目をキラキラさせる香帆ちゃんは、前のめりになって僕が口を開くのを待っている。今日の授業、今日の給食、登下校中にあったこと、休み時間にやったこと、クラスの友達のこと。些細なことでもくだらないことでも香帆ちゃんは僕の話を嬉しそうに聞いている。 「学校って凄いね。」 香帆ちゃんは言う。僕にはそうは思えない。でも香帆ちゃんが笑ってそう言うのなら、その世界を壊してはいけない。大丈夫。僕は嘘をつくのが得意だから。 「あ、臣くん。」 思い出したように香帆ちゃんは言う。僕は制服のズボンのポケットに入れた小さな包みを、ポケットの上から触れて確認する。 「うん、今日の‘薬’だよ。香帆ちゃん、目を閉じて。」 目の前で香帆ちゃんが目を閉じる。僕はポケットから飴玉を取り出す。‘みかん’と書かれた包み紙を手で広げ、中からオレンジ色の小さな丸い飴玉を取り出す。香帆ちゃんの小さな口が開く。僕はそこへ、オレンジ色の飴玉をそっと押し込む。コロンと小さな音を立てて、飴玉は香帆ちゃんの口の中へ吸い込まれていった。 「おいしい。」 香帆ちゃんが笑う。 「ちゃんと舐めるんだよ。おいしく作ってあるけど、ちゃんと‘薬’なんだから。」 「分かってるよ。」 香帆ちゃんと初めて会ったあの日、僕はいくつもの嘘をついた。 花が好きなこと。 友達がたくさんいること。 学校が楽しいこと。 ―――私、病気であと何年かしたら死ぬの。 父さんが東京で薬を作る仕事をしていて、どんな病気でも治す薬を密かに作っていること。 その薬を僕が持っていること。 ―――きっと君の病気を治せるよ。 初対面の女の子に、僕はそんな残酷な嘘をついたんだ。  それから僕は、学校が終わった後、毎日香帆ちゃんの家へ通うようになった。ついた嘘を本当にするために苦し紛れに持っていった飴玉を食べさせたら、香帆ちゃんは何の疑いもなく口にして嬉しそうに笑った。婆ちゃんがどこかで買ってきた聞いたこともないメーカーのフルーツ味の飴玉。そんなもので病気が治るはずもないのに、香帆ちゃんは僕を信じて毎日飴玉を舐め続ける。僕は罪悪感を募らせながらも、香帆ちゃんに会いたいがために飴玉を持って嘘を重ねる。気付けばもう夏。香帆ちゃんに嘘をつき続けて3ヶ月が経とうとしていた。  香帆ちゃんは僕より2つ年下。学年でいえばまだ小学6年生だった。あまりに華奢な体つきから、年相応にはまるで見えない。  お母さんは香帆ちゃんが小さい頃に病気で亡くなった。この家には仕事で家を空けがちなお父さんと香帆ちゃんが2人で暮らしている。朝から昼過ぎまでお手伝いさんがやってきて、家のことや香帆ちゃんの食事を用意し、庭の花の手入れをして帰っていくらしい。夕方しか香帆ちゃんの家に行かない僕は、そのお手伝いさんとは会ったことがない。 「今日は学校でどんなことがあったの?」 学校に行ったことのない香帆ちゃんは、僕の話をとても楽しそうに聞く。本当に何でもない話。漢字の抜き打ちテストがあってクラス中ブーイングの嵐だったとか、給食の揚げパンが人気で残ったパンをジャンケンで取り合ったとか。実際はどの話も大抵、僕は話の中に存在していない。僕はまるで置物のように、漢字テストに文句を言う皆を眺め、ジャンケンする姿を横目に苦手な揚げパンを必死に口の中に押し込める。香帆ちゃんが楽しそうに聞く学校での物語の中に、僕はいない。それでも僕は、あたかも僕が主役であるかのように香帆ちゃんに話す。そうすることで香帆ちゃんはたくさん笑ってくれる。 「臣くんは、どうしてこの町に来たの?」 初めて出会った日、僕は香帆ちゃんに言った。この町に引っ越して来たばかりなのだ、と。 「何度か遊びに来てたんだ。東京よりずっと静かでずっと良い。ここで暮らしてみたいって、僕が無理言って頼んだんだ。」 不自然にならないように、必死に頭の中で言葉を組み立てる。嘘の上にまた嘘を塗って、さらに嘘で固めていく。きっと僕は自分のことを何1つ香帆ちゃんに正しく伝えられていない。 「それよりほら、香帆ちゃん。」 僕はその話を断ち切るように、ポケットに手を伸ばす。香帆ちゃんは目を閉じて口を小さく開ける。 「魔法みたい。」 「え?」 飴玉の包みを開こうとした手が止まる。 「だって臣くんが口に入れてくれると、本当に元気になってる気がするから。」 目を閉じたまま無邪気に笑う香帆ちゃん。僕がついた嘘を信じ続ける香帆ちゃん。馬鹿みたいだ。そう思うのに、僕は何も言えなかった。  香帆ちゃんの家に着くと、いつもは開いている香帆ちゃんの部屋の窓が閉まっていた。香帆ちゃんは僕が来る頃になると窓を開けて、部屋から外を覗くように待っている。目が合って、香帆ちゃんが手を振って、僕が手を振り返す。僕は玄関に向かうことなく香帆ちゃんの部屋の窓から中へ入る。なのに今日は窓が開いていない。  花の咲き乱れる庭を通り、香帆ちゃんの部屋へ近付く。閉まった窓にそっと手を伸ばす。鍵が掛かっているのが視界に入って、僕は1度躊躇った手を再び伸ばして、小さく窓をノックした。 カタン 中から小さな音が聞こえる。そしてレースのカーテンがゆっくりと開く。 ‘…おみくん’ 窓越しに立つ香帆ちゃんの口元がそう動いた気がした。そして香帆ちゃんが窓を開ける。網戸も開けて、正面に立った香帆ちゃんの顔色は今まで見たことがない程青白く、虚ろな目をしていた。 「ごめんね、昨日の夜熱が出て。あと気持ちが悪いの。今日は、臣くんのお話、聞けないや。」 「いいから、もう横になってて。起こしてしまってごめんね。」 僕は慌ててそう言う。すると香帆ちゃんがゆっくり右手を僕に向かって伸ばす。 「臣くん、お薬ちょうだい。」 僕の心臓がズキンと音をたてる。 「でも今日は…」 「どんな病気でも治せるお薬なんでしょ?」 心臓が、痛い。僕は確かにそう言った。僕がついた嘘を、香帆ちゃんは今も信じている。
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