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 桜はすべて散ったはずなのに、風に撒かれて薄紅色の花弁が飛んでくる。  竹箒で店の前を掃きながら、ゆいは着物の裾に張り付いた花びらを指でつまんだ。  桜の枝が葉桜に変わり、梅雨がやってくるまでの短い期間は、白鷺町がもっとも過ごしやすくなる時期だ。周囲を山に囲まれた盆地にある為、夏はうだるように暑く、冬はとんでもなく冷えて雪が降る。暑くもなければ寒くもなく、日が長くて夜の訪れがだんだんと遅くなるこの時期は、道行く人々の足取りも軽く、朝から夕まで店を開けていても、誰も足を止めず、店に入って来ない――なんてことが起こるのも、この時期に特有の出来事だった。  大黒屋は白鷺町で中堅どころの生薬屋である。町医者や藩医に薬を卸すだけでなく、店頭での小売りも行っている。薬屋がもっとも繁盛するのは人々に病が流行った時で、次に必要とされるのは、火事や事故で怪我人が大勢出た時だ。主人の清衛門はなかなかやり手の商人であり、旧君水藩内に点在する忍びの里から生薬の原材料を買い付けたり、美容に特化した生薬の催しを開いたりして、手堅く稼いでいる。どうせあともう少しすれば、暑気中りの薬が必要となり、秋から冬にかけては風邪に利く薬草や薬湯が飛ぶように売れるわけだから、今くらいは穏やかに時が過ぎて欲しい――と思っていたら、道を歩いていた男が一人、店の前で歩みを止めた。 「いらっしゃいまし、何かお求めですか?」 「お女中さん……もしかして、お前さんがおゆいか?」 「はい?」  年の頃なら二十歳と少しくらい、大黒屋の帳面付けに週三日雇われている片瀬康之介と同じくらいの年端だろう。康之介と同じような浪人髷で、腰にきっちり大小を下げていて――というだけなら単なる浪人の若者なのだが、その風体は明らかに、単なる浪人の若者とは異なっていた。  紺地絣の小袖と袴の色合いは質素だが、襟はよれていないし糸も出ていない、上等の品である。そしてその上から何故か女物の友禅を羽織っている。読み本で昔「かぶき者」と呼ばれる人たちが好んでそのような恰好をしていた……と呼んだことがあるから、この若者もそういった懐古趣味の洒落者なのだろうか。それだけなら単なる変わり者で済ませるところなのだが、絣の小袖の上に乗った顔の造りが、ただの変人で済ませられるような代物ではなかった。  俗に役者のような男前というが、役者というより人形めいた、尋常ではない美形である。きりりと勇ましい眉。すっと一筋、刷毛で刷いたような鼻筋。切れ長の瞳には吉原の花魁でもこうは行くまいと思うほどの色気がある。ふっくらした唇は女ならば誰もがこうありたいと願うような形をしていて、艶やかに光っているように見えるのは――まさか紅を差しているのだろうか。 「あれ、ここは生薬屋の大黒屋だろう?今、大黒屋にいる若い女中はおゆいだけだって聞いていたんだけど、違うか?」 「あの、え……と、その」  ――そういうあなた様は、どこのどなた様ですか?  誰何の言葉が、どうしても口から出てこなかった。  ゆいも十八歳の娘である。見目麗しい若者にときめく心がないとはいわないが、真っ昼間の往来で、狐か狸に化かされているのではないかと思う。それに正直、男がここまで見目麗しい必要があるのだろうか。そう、見た目なんて程ほどでまったく構わないから、一緒にいて楽しくて、いざという時に頼りがいがって、何より心に誠がある――わたしはそんな人がいいと本気で思う。 「――ゆい、どうした?何かあったのか?」  店の入り口近くで、ゆいが箒を抱えて固まっているのが見えたのだろう。奥で算盤を弾いていた康之介が右脚を引きずりながら出て来た。手に竹箒を持ったまま、ゆいは彼の後ろに半歩下がった。脚の不自由な康之介に用心棒の真似事はできないが、やはり刀を差したお侍がいると何かと心強いと、以前、お内儀のお秋が言っていたことを思い出す。 「お客か?だったら中に入ってもらって――」  背中でゆいをかばいながら、康之介は謎の若者に向き直った。彼だって耕人堂の梅香先生が衣服の世話をしているのだから、そこまで粗末な恰好をしているわけではないのだが、二人が並ぶと対比で、生活に疲れた浪人の若侍のように見える。  次の瞬間、信じられないことが起こった。康之介が若者に向き直った瞬間、完璧に作り込まれた人形のような美形が、にっこりと子どもの顔で破顔したのだ。 「よお、康之介、久しぶりだな、元気だったか!」 「……え、倫太郎?お前、いつの間に白鷺町に来たんだ?」  まさか二人が知己だとは思わなかったので、ぽかんと口が空いてしまった。 「あ、あの康之介様、この方とお知り合いなんですか?」 「ああ、ゆい、こいつは――」 「俺は篠宮倫太郎という。そこの康之介とは、ガキの頃からの幼馴染なんだ。やっぱり、お前がおゆいか。おゆい、よろしくな」  倫太郎と名乗った若者は相変わらず、にこにこと笑っている。黙っていると尋常でない美形が、笑うと大黒屋の丁稚で今年十一歳彦三より――故郷の八歳の弟よりも幼く見える。一方の康之介は何故かとても渋い顔をしていた。彼の表情も気になったが、それ以上に今の若者の名乗りがとてつもなく気になった。 「康之介様、あの、今、篠宮って……」 「ゆい、そこは気にしなくていい。というか、気にするな。俺も普段、こいつが誰の息子かは敢えて考えないようにしている」  筆頭家老の長男はあっさりとのたまったが、浪人の娘であるゆいはどうしても気にせずにはいられない。白鷺町は元々君水藩の城下町であったのだが、君水藩は十三年前に高濱藩に吸収された。その為、白鷺町の人達は今でも高濱藩に対する帰属意識が薄い。しかしそれでもさすがに、自分達が頭上に頂く殿さまの名前くらいは知っている。  篠宮家――それはここ高濱藩において、藩主の一家にのみ許された苗字だった。
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