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 蓮と練習デートの日を迎え、やってきたのは綾芽の好きなテーマパークだった。有名キャラクターが闊歩する中、まるでひとつの街のような広さを誇るパーク内を進む。今日は律の月に一度ある日曜のオフを利用したため、行き交う客で園内はごった返していた。 「律さん大丈夫っすか? 息できてます?」 「大丈夫です。そんなに埋もれていませんよ」 「埋もれたら俺が肩車するっす」 「それはちょっと恥ずかしいです……あの、蓮くん。やっぱりフェアじゃないと思うので、チケット代を受け取ってはもらえませんか」  言った途端、男の頬が子どものようにふくらんだ。ぷっくりと空気を溜めるさまは、「やです」と今にも聞こえてきそうだ。 「俺が誘ったんで、遠慮しなくていいっす。それに律さん、その代わりにランチは連れてってくれるんすよね?」 「そうですが、蓮くんの負担が大きすぎますから……」  何せこのデートは予行演習だ。なんなら年上である律が費用面を全て負担するくらいでちょうどいい。それなのに蓮は入園前、律が財布をしまったバッグのファスナーを閉じきるまで『いえ、俺が』と主張し続けた。折れた律がせめてとランチを驕る約束を取りつけたが、それだって二つ返事ではうなずいてくれなかったのだ。  そう安い入園料でもないため、律は視界に広がるワクワクする光景よりも、彼への申し訳なさで耳を垂れ下げる。 「僕も何かしたくて……」 「うわ何、耳、やば、かわい」 「え?」 「あ、いえいえ、なんでも。そっすね、律さんがランチで納得してくんないなら……今日は夜まで付き合ってくれます?」 「そんなことでいいんですか……?」  もち、と歯を見せて笑う蓮が、ピースサインを作る。立てた二本指がひょいと律の下がった耳を優しく挟むと、元の場所へ戻すように頭上へ持ち上げた。 「せっかく来たんすから、いっぱい遊んでほしいっす。それが一番嬉しいもん」 「あ……僕も今日楽しみにしてたんです。とても久しぶりだし、その……はい、いっぱい遊びましょう」  棚ぼたで来園した身でありつつ、ちゃっかり楽しみにしていたのが恥ずかしくてピンと耳が立つ。しかし蓮は「俺も」と笑ってくれ、人混みに圧倒される律を連れてアトラクションをまわってくれた。  蓮と過ごすのはとても楽しかった。上手に順番待ちの少ないアトラクションを探し、並んでいる間もなんくれとなく会話を続けてくれて退屈を感じる暇もない。就職活動中、ヨロヨロのおじいさんの荷物を持って送り届けた結果、そのおじいさんが面接先の会社の社長で、現在の勤め先だと言うのだから驚いた。 「歩きながらおっぱい派か尻派かで議論したのがよかったんすかね」と彼が首を傾げるから、律は笑いが止まらなかった。心優しい青年の心温まるエピソードに、すっかり緊張も解ける。  そんな蓮が観覧車に乗ると途端に大人しくなるのが意外だった。コースター系は勢いで乗れるらしいが、ゆっくりと高いところに上がっていく観覧車は苦手なのだそうだ。猫獣人なため馬鹿にされるのが嫌で、人には言っていないのだとつぶやいていた。  隣で律の手をひっしと握り、徐々に大きな身体を寄せてくるから兄心がこれでもかとくすぐられる。広い肩に腕をまわし、彼の気が紛れるようにと、律は自分の好きな童話を語って聞かせた。  怠け者のウサギが亀との勝負に負ける顛末を、蓮は「じゃあ俺がウサギさん抱っこして行くっす」となぜか亀に敵対心を抱いていてまた笑ってしまった。  ランチも終え、またアトラクションをまわり、写真を撮ったり、お土産屋であれやこれやと買いこんだり。気づけばすっかり日が落ちていて、二人は人気のパレードに背を向けて退園した。蓮のお腹が大きな音で空腹を訴えるのが可愛くて、律が促したのだ。  それから地元まで戻り、蓮が予約していたらしい和食ダイニングで夕飯を食べることになった。暖色のライトと飴色の木素材が温かみのある店内は、カウンター席と個室に別れている。蓮は個室を選んでいたようで、こぢんまりとした座敷の部屋で向かい合って席についた。 「予約してくださってたんですね」 「まあ……できれば夜も一緒がいいなって思ってたんで。あ、嫌いなもんないっすか? ここ、夜はコースなんすけど、予約制なんで勝手に頼んじゃってて」 「なんでも大丈夫です。すごいです、スマートで、蓮くんは格好いいですね」 「律さんは可愛いっす」 「ふふ、どうもありがとうございます」  褒め言葉の切り返しが早く、一瞬ドキッとしたものの笑って流す。和やかに食事を終えてから、律は蓮にあるものを差し出した。 「あの、これなんですけど。よかったら」 「ん……? これ、律さんの手作り?」  こくんとうなずく。市販のラッピングフィルムに包まれてリボンで結われたそれの中には、おやつのクッキーを詰めていた。ココア、ナッツ、ドライフルーツ、と種類も様々だ。 「いつもおいしいって食べてくださるのが嬉しくて……お嫌いでなければ、夜食にでもしてもらえたらと」 「いいんすか……!? やった! 今日は外だから律さんの作ったものは食えないなって思ってたんすよ。うわー、嬉し……」  わざわざ作って持ってくるのは変かと躊躇もしたが、渡してよかった。パッと目を輝かせて「今食いたい……や、でも腹いっぱいだからな……食って感動したいし」と唸り始める様子に嘘は見えなくてホッとする。喜ばれると作った甲斐があるし、また作ろうと思えるのだ。 「蓮くんはお菓子が好きですか?」 「あー、お菓子っつーか、手作りが好きなんすよ。家が父子家庭だったからか、家庭的な子が好きで……」 「そうなんですね」 「ベタっすけど、肉じゃがとか」 「僕も好きですよ、肉じゃが。おいしいですもん。他にも好きなものはありますか?」 「……笑わないっすか?」  もちろん、とうなずく。蓮は大事そうに持ったクッキーの包みで顔の下半分をそろりと隠した。そのくせ上目遣いで律を見つめるのだから、今日はひっきりなしに胸がキュンとしてしまう。 「卵焼き……甘いのが好きなんっす。別に他のも食うけど、あの……寿司屋で出てくる甘いやつ。あれがめっちゃ好き」 「可愛いです」 「ツレに言ったら笑われるから、これ言ったの律さんだけっす。内緒っすよ。はい」  照れくさいのかむむっと口を引き結ぶ蓮が小指を差し出してきた。節が太く存在感のある指に小指を絡めると、彼はニパッと笑顔になって指きりの歌を歌う。罰の針千本は「甘い卵焼きをつーくる」に変わっていた。  ゆるりと小指をほどく。するとすぐに蓮の手が戻ってきて、律の手を握った。驚いて顔を見ると、目尻をちょっとばかし赤く染めた男が「嫌?」と笑っている。  律は首を横に振った。嫌じゃなかったからだ。それに、練習だとわかっていてもドキドキした。こんなふうに家族以外と手をつなぐのは、幼少期の遠足でペアになった子とつないで歩いたころ以来だ。 「蓮くんは手が大きいですね。なんでも持てそうです」 「でっかいけど、俺は持ちたいもんしか持たないっすよ。ね」  きゅ、と改めて握られる。まるで律を「持ちたいもの」の中に入れてくれたのかと錯覚しそうで、慌てて自分の舞い上がる心を宥めた。だがこんなふうに大事そうに手を握ってもらえる機会はもうないだろうから、忘れたくはない。 「帰りましょっか、律さん」 「ですね」  店を出て、家に送ってもらうまでの道中も手をつないだ。はい、と差し出された大きな手を拒む理由がなかった。 「また誘ってもいいっすか?」 「僕でよければ」  その日、自宅前で蓮はまた律の額にキスをした。デートを締めくくるには、最高のタイミングとシチュエーションだと思った。  連絡先を交換したことにより、蓮からの誘いは増えていった。仕事帰りにちょっと珈琲へ誘われたり、休日に買い物や食事に行ったり。蓮は律の読んでいる本にも興味を示し、先日はお勧めしてほしいと乞われ図書館へ行った。初心者にも読みやすい文体で物語に起伏のあるものをいくつかチョイスして熱弁すると、喜んで借りて行って、それから読んだ感想まで話してくれる。なんにでも熱心で真面目な青年への好感度はうなぎ上りだった。  関わる回数が増えれば親密度も当然高まっていく。春に出会い夏を過ごし、秋も中頃を迎えると、何気ない「おはよう」だけのやり取りや、道端の猫の写真を送って可愛さを共有することもあった。まるで友だちのような――友だちよりずっと心を寄せた、けれど家族や恋人とは呼べない中途半端に甘い関係だ。  しかし同時に、以前のように綾芽が蓮を連れて来る回数は格段に減っていった。  様子を見ていた律は、さすがに放っておけないと、ある日リビングで寛いでいる妹へ声をかけた。 「綾芽、ちょっといいですか?」 「なあに?」  風呂上がりのすっぴんでもとびきり美人な彼女が、ソファに手足を投げ出してリラックスしている。頭のそばのひじ掛けへ腰かけた律は、まだ少しだけ湿っている妹の黒髪を撫でつけた。 「最近、蓮くんを連れ帰らなくなりましたね」 「ん? ああ、まあね~」  律としては結構恐々と問うたのだが、返答はからりとしたものだ。それがどうかしたのか、と言いたげな綾芽は、兄の手に頭を押しつけてもっと撫でてと甘えている。 「ええと……喧嘩をしましたか……?」 「なんでよ。しないよ、そんなこと」 「そうですか……」  こういうとき、律はどうするべきなのだろうか。綾芽の頭を撫でてやりながら考えた。  蓮はあれだけ一生懸命、律を相手に練習を重ね、綾芽のことを知ろうとしている。だからちゃんとアシストしてあげたいのだ。彼の恋の成就を願っている。仕事帰りに寄り添って珈琲を飲むのも、休みの日にぶらりと買い物へ出かけるのも、蓮は綾芽とこそしたいのだから。 「……っ、……?」  意気ごんだ途端、胸にズキっと痛みが走る。  驚いて押さえると、撫で撫でが止んで不満そうな綾芽が顔を上げた。 「にぃ? どしたの、痛いの?」 「あ、いえ……あの、綾芽……」 「何?」  心配そうな彼女は身体を起こし、兄の言葉をじっと待っている。気の強そうな見た目通りに気の強い女性だが、思いやり深くて可愛げがあり、甘え上手で素敵な人だ。兄の欲目抜きにしても、綾芽は誰に好かれても当然な女の子だと思っている。  だから――だから、綾芽と蓮に、幸せになってほしいのだ。 「……いえ、何もないです。すみません。僕もお風呂に入ってきますね」 「にぃ……?」 「きちんと髪を乾かすんですよ。風邪を引いたらいけないので」  最後にぽむっと彼女の頭を撫でてソファを立つ。足早にリビングを出てバスルームに向かう律は、自分の行動にとまどっていた。  蓮はとても信頼できる素敵な青年だ。綾芽を大事にしてくれる。だから、綾芽にも彼を男として好きになってもらいたかった。  そのために教えてあげようと思ったのだ。実は高いところが苦手な可愛さや、手料理が好きなこと、中でも肉じゃがと甘い卵焼きに目がないこと。最近は本を読むようになって、とりわけダークファンタジーが好きなこと。  手が大きいこと。だけどつなぐと優しく引いてくれること。「ん?」と小首を傾げるとき、とても甘い声になること。――蓮のいいところを挙げればキリがないほどに出てくるのに、どれひとつ言えないのは、どうしてだろうか。 「このままじゃ……二人は……」  風呂を終えて自室へ引っこみ、頭を抱えながらつぶやく。めっきり減った訪問や気のなさそうな綾芽の態度を思い出すと、二人の関係が発展するとは思いにくい。そこまで考えて、律は両手で自分の口を押さえた。 愕然とする。心の中に仄暗い喜びが芽生えていたからだ。 「いま、今のは、何? どうして僕は……」  無意味に立ち上がり、部屋の中をうろつく。じっとしていると恐ろしいものが背中に張りついて、重みで潰れてしまいそうな予感がしたのだ。  幸せになってほしい二人の、大好きな人たちの別れを望んでいる。そんな自分が信じられない。だが二人が仲睦まじく寄り添う光景を想像して抱くのは、モヤモヤとした悲しみだった。  それがなぜか律にはわからない。わからないものを持っている不安で顔が歪む。 「っ……?」  ピリリと携帯が着信音を鳴らし始めた。飛び上がった律はバクバクと跳ねる心臓を深呼吸で宥めて発信者を見る。そこには今、一番話すのが気まずい人物の名前があった。  だが話せる機会を無碍にするという選択肢はない。 「……もしもし、蓮くん?」 『あ、律さん。こんばんは、今いいっすか?』 「えと、はい……あの……大丈夫です」  心の中を覗かれたわけでもなければ、うろつく不審な行動を見られていたわけでもないのに、嫌な感情を抱いた罪悪感と居た堪れなさでソワソワしてしまう。会話もスムーズにできなくて、早々と蓮は怪訝そうな声色になった。 『なんかありました? 俺、相談乗るっす』 「大丈夫です。心配しないで……そうだ蓮くん、あの、綾芽……」 『綾芽?』 「――……」  本格的におかしい。綾芽と最近会えていないのか、喧嘩をしたのかと訊きたいのに、彼の声で綾芽の名前を紡がれると胸が詰まったように息が苦しい。続く言葉が出てこなくて無言になる律の耳元で、蓮が囁いた。 『ちょっとだけ出てこれません? 律さん家の近くにある公園まで来てるんすけど』 「! すぐ行きますっ」  携帯だけを手にそそくさと公園へ向かうと、ベンチには蓮がポツンと座っていた。長い脚を投げ出し、固い背もたれに体重を預けてぼんやりと夜空を眺めている。なぜだかその姿を見ただけで、胸が震えるような不思議な感覚を味わった。  足音に気づいたのか、男が顔をこちらへ向ける。目が合うと嬉しそうに笑うから、律の胸中はざわついたり震えたり、きゅうっと痛くなったりで忙しい。 「こんばんは、すいません呼び出して」 「いえ……全然。家に寄ってくださればよかったのに」 「あー、それは……夜なんで。あんまよくないっつーか。ね」  女の子のいる家だから気を遣ってくれているのだろう。紳士で好ましい。胸が痛い。 「お風呂上がりっすか?」 「あ……はい、そうです」  よ、とベンチから立ち上がった蓮が近づいてきて、タオルドライしかしていない髪に触れる。一束、指の間に挟まれただけなのに、毛先にまで神経が通っているのかと思うほど心地よかった。律はうっとりと目を細め、「すいません」と謝る蓮の声に我に返る。 「乾かす時間なかったっすよね。すいません。これ着ててください」  彼は心配そうに律の濡れた髪を撫で、自分の着ているカーディガンを脱いで肩にかけてくれた。袖を通すまで手伝われて恐縮に思うより先に、ふわっとお日様のような香りがして、うっかり長い袖口を手繰ってくんくんと吸う。 「すごく……いい匂いが、します」 「ほ、ッほ、んと、っすか」  蓮の声が裏返ったことにも気づかないほど、律はカーディガンの匂いに夢中だった。普段は一瞬で離れていく蓮の香りに身体中が包まれている。香水か、シャンプー類だろうか。それらと体臭が混じって、甘いのにくどくなく、意識を微睡みの中へ誘うような匂いだった。大きく吸った息を吐かずに肺の中へ留めておきたくなる。  両手で握った袖に頬ずりしたくなったところで、ようやく我に返った。ハッと顔を上げると、ニコニコと蓮が律を見守っている。 「満足しました?」 「う、ぁ、はい、すみません、僕失礼なことを……!」 「いやぁ、いいっす、いいっす。可愛かったんでいくらでも嗅いじゃってください」 「でも」 「――ところで律さん、いいっすか」  突然硬くなった声色に口をつぐむ。蓮はどことなく緊張した様子で、手のひらをズボンにすりつけた。 「告白んとき……どんなシチュエーションがいいとか、あったら、教えてほしいっつーか」 「――……こくはく」  蓮のカーディガンを着せてもらってから浮き足立っていた心が、真っ逆さまに地面へ落ちて地中へめりこむ。目が覚めるとはこのことだ。律は一気に夢から覚醒したかのように、呆然と自分の立場を思い知った。 「告白、するんですね」 「うっす。そろそろ我慢できないし、やぱね、男としてカッコよく決めたいっつーか……や、訊いたらカッコ悪いかもなんすけど」 「とんでもない。蓮くんは格好いいです」  くしゃっと彼が嬉しそうに笑う。その笑顔を見上げ、律はひどく痛む胸を無視した。  いよいよ蓮は綾芽に告白するのだ。律にできることは、そのアシストだけ。蓮の見せてくれた甘い行動や言葉は、律のためのものじゃない。  綾芽は告白のシチュエーションについて過去に何か言っていただろうか。記憶を漁り、恋愛ドラマを一緒に見ながら話していた内容を思い出す。 「告白は……自分から言いたい派、だったりします」 「えっ……あ、そうなん、すか」 「蓮くんも言いたい派でしたか?」 「まあ……けど、それなら俺は待つっす。見守んのは慣れっこなんすよ。片想い歴八年の猛者なんで」 「八年……」  八年といえば、彼が高校一年生のころだ。そんなに長く、友人として付き合いながら想いを温めていたのかと思うと胸の奥が軋んだ。  男は照れくさそうにうなずく。「任せてください」とガッツポーズを作るから、かろうじて笑い返したが、気力だけで遊川律をなぞっているだけだった。  それから数回のやり取りののち、綾芽に会っていかないのかと問う。蓮は首を横に振ると、律の肩に手を置いた。 「律さん、またね」  近づいてきた笑顔に息が止まる。律は反射的にぎゅっと目を閉じた。すると鼻先に笑う吐息が触れ、次の瞬間には頬へまろやかな温もりがすり寄せられる。何ごとかとまぶたを開けると、蓮の肩越しに夜の公園が見えた。  すりすりと頬ずりされている。肩から上がってきた手のひらは頬ずりされていない側の頬を覆い、それから丁寧に一度撫でた。 「この服、着て帰っていいっす。風邪ひいてほしくないんで」 「で、でも」 「なら明日飯食いに行きません? 仕事終わったら。そんとき返してくれたらいいっす」  ごくりと唾をのむ。蓮の声も体温も、袖口を手繰って嗅いでいた香りも近くて頭が働かない。いったい自分がなんと返事をすればよいのか、動いていいのか、何がしたいのか判然としない。  何もわからない雑然とした思考はやがて真っ白に塗り潰され、折っていた腰を戻した蓮を目で追うだけの生き物となり果てていた。 「かーわい……ほら律さん、戻んないと。ね」 「あ、う……おや、おやすみ、なさい」 「はい、おやすみっす」  身体をくるりと裏返されて、優しく背中を押される。勢いで一歩踏み出したあとは、身体が勝手に公園の出口へ向かってくれた。  だが背中が熱い。蓮に見られていることがわかるからだ。今すぐ振り返りたいような、脱兎のごとく逃げ出したいような複雑な気持ちは、家へ帰ってもなくならなかった。  ストン、と自分の部屋のベッドに座って呆然とする。二階へ上がってくる前、母親に「どっか行ってたの?」と訊かれた気がするが、なんと返事をしたか記憶がない。もぞもぞとカーディガンの袖に顔を埋めかけて、律は自分の行動に焦った。  借りた服の匂いを嗅ぐなんて失礼極まりない。蓮は優しいから文句を言わなかったけれど、もうしては駄目だ。悲しい気持ちになりながらカーディガンを脱ごうとして、ポケットから携帯を取り出す。 「……?」  メッセージが入っていた。音に気づかないほどぼんやりしていたようだ。画面を操作してみると、送信者は蓮だった。  その服、着たまま寝てもいいっすよ。また明日連絡するっす。おやすみなさい――。  律は携帯を枕元へ置くと、カーディガンを脱がないままベッドに入った。体格に差があるため肩も袖も裾も余るそれを自分ごと抱きしめる。目を閉じると気持ちがふわふわと落ち着かなくて、けれど身体の芯が温まるようにぽかぽかして、熱い溜め息がこぼれた。  この匂いが堪らなく好きだ。大きく息を吸って丸くなると、律は素直に想像した。 「今日だけ……ちょっとだけ……」  ベッドに横たわる蓮が手招いている。膝でマットレスに乗り上げるとギシッと音が鳴った。おいで、と呼ばれるまま、律はすっぽり抱きしめられにいく。頬をすり寄せ合い、目を閉じた。嬉しい。とても心地がいい。  おやすみ、と囁いてくれる声を想起して、律は眠りについた。
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