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 ――こんこん、と扉をノックする音がする。  二階の自室で本を読もうとしていた律が返事をすると、扉の向こうから「蓮っす」と、リビングにいるはずの男の声がした。  平日の今日、両親は二人で食事に出かけてしまい、律は綾芽と蓮の三人でテーブルを囲んだ。いつもはタイミングよく律の休日に遊びに来るからおやつを用意しておくのだが、今夜は違う。仕事から帰ると蓮が職場でもらってきたらしい新鮮な魚と鍋の材料が待っていて、三人でキッチンに立った。綾芽と蓮は仲がよくて、自分のほうが料理は得意だと睨み合うから、律はその微笑ましさにずっとニコニコしていたのだ。  食事を終え、少しは二人にしてあげたほうがいいだろうと自室に引っこんだのがついさっき。何かあったのだろうかと扉を開けた。 「どうかされましたか?」 「ふぁっ」 「え?」  扉の前に立っていた蓮は律を見下ろし、それから部屋の中を一瞥して謎の音を漏らす。すん、と鼻がヒクついたから、もしかすると苦手な匂いがしたのかもしれなかった。 「すみません、臭かったでしょうか。掃除はしているのですが、男の部屋ですもんね。猫獣人さんは鼻もいいですし……」 「や、ちが、違うっす! なんかめっちゃいい匂いして! ビックリしただけで!」 「あわ、あ、そ、そうですか……?」  パタパタと両手を振る蓮の勢いに押されてしまう。「かぐわしいっす!」と妙な言い回しをするから、律は一瞬ポカンとしてしまった。 「あは……ふふ、それはよかったです。あ、何かお話があるんですよね。中へどうぞ」 「え!? いや、それはさすがに殺されるんで……」 「殺……? 物騒ですね……僕でよければ相談に乗ります」 「マジで、マジ、うわぁ、やば……大丈夫っす、もう俺今何も怖くないっす……お邪魔していいっすか?」 「はい、どうぞ」  元気よくて気さくな青年である蓮は、関われば関わるほど面白さが見えてくる。正直、彼が何を言っているのか律はよくわかっていないが、今日も元気そうで何よりだ。  室内へ招き入れ、テーブルのかたわらへ促す。大きな体躯を縮めて行儀よく正座した蓮は、向かい側へ座った律にずずいと身を乗り出した。 「あの、律さん!」 「はいっ」  相変わらずの近さだ。いつも驚くからそろそろ慣れてもよいころだが、律は今日も鼻先まで迫った美形に驚いて固まった。  斜め上側から見下ろす形になっているせいか、いつも明るい色味をした緑色の瞳がかげって濃く見える。下まぶたに睫毛の影が伸びて、格好いいな、鼻が高いです、と感心していると、放たれた言葉が一度耳をすり抜けた。 「どこが好きっすか?」 「え? あ、すみません。見惚れていて聞いていませんでした」 「んふぁ」  謝った途端、蓮はテーブルに顔を伏せた。ゴツンと鳴った音の大きさに律はぎょっとする。額か、あの高い鼻をテーブルに打ちつけたに違いない。 「大丈夫ですか!?」 「あんま……大丈夫じゃないっす、けど、嬉しいんでヘーキっす……」 「嬉しい!? えっ、ぶつけるのがお好きですか!? あの、あんまりお勧めしません……!」  ゆっくりと顔を上げた蓮の額が少しだけ赤くなっている。慌てる律は、綾芽にするように痛そうな患部をそっと撫でた。 「痛かったですね、可哀想に……よしよし」 「律さん!」 「ッはい!」  突然、手首に男の長い指がまわる。軽く一周したその指は、痛くない程度に律を捕獲していた。 「行きたいとことか、好きな場所教えてください!」  ハッとする。そうだ、蓮は用があって律の部屋を訪れている。綾芽の好みを聞き出したいのだ。  ぶつけた額は心配だが、まずは彼の知りたいことを教えてあげなければと律は燃えた。 「テーマパークが好きですよ」 「賑やかなとこが好きなんっすね……!」  新しいアトラクションが出たばかりのテーマパークのCMを見るたび、綾芽が行きたがっていたことを律はよく知っている。季節ごと、イベントごとに土産物などのラインナップも変わるからか、しょっちゅう行きたがるのだ。  律はあまり頻繁に行きたいとは思わないが、綾芽におねだりされて年に一回は二人で遊びに行っている。賑やかだから話すときもつい顔を寄せてしまうような場所だ。きっと蓮と綾芽の関係にも、甘いものが育つに違いない。 「蓮くんはお嫌いではないですか?」 「俺は二人ならどこでもって感じなんで!」 「よかったです」 「あ、じゃあ早速いいっすか……? 律さん、次の休みに行きましょう。予定あったらその次の休みまで待つんで、俺」  いつの間にか手首を捕まえていた男の手は、律と手のひらを合わせていた。指も長ければ手も大きく、祈りを捧げるような形で握りこまれると律のそれは隠れてしまいそうだ。  蓮の目はキラキラと輝いている。どうして律と一緒に行くのか――と首を捻ったのは一瞬だった。 「はい、僕でよければ」 「ありがとうございます! 連絡先教えてもらえたりします……!?」 「構いませんよ。いつでも連絡してください」 「っしゃあ……!」  拳を突き上げて喜ぶ蓮を前に、律は気合いを入れる。  デートの練習相手として、できる限り彼の役に立つ心積もりは万端だった。    律は幼いころから、外で遊ぶより室内で本を読んでいるほうが好きだった。料理をしてみたい、と思ったきっかけは、おやつを作る絵本との出会いだ。休み時間は図書室で借りてきた本を読み、夜遅くまで本を読んでいては叱られ、時間潰しは携帯よりも本。そんなふうに育ったため、本に関わる仕事は律にとっての天職だった。 「お疲れ様です。お先に失礼します」 「はーい、お疲れ。また明日ね、遊川くん」  駅前の総合スーパーで二階フロアの半分を占める書店が、律の職場だ。日曜日の今日が早番だった律は店長に挨拶を済ませると、バックヤードをあとにした。  書店内をスイスイと抜けていくと、学校帰りの学生や、夕飯の買い物ついでに見てまわっている親子連れとすれ違う。彼ら彼女らは好みの一冊に出会えるだろうか。今は電子書籍も普及しているが、紙の手触りや匂いも含めて一冊のエンターテイメントを味わってもらえたらいい。明日手をつける予定だった来月の「書店員さんお勧めコーナー」では、装丁にもこだわった本をチョイスしてみようと決める。  買い物客で賑わう様子を横目に駅方面へ続く出口から店舗を出ると、夕方の街には多くの人と獣人が行き交っていた。  これから出かける人、家路を急ぐ人。ちょっと疲れた顔をしている人には、健やかな夜を過ごしてほしいと思う。名残惜しそうに手をつないで歩くカップルが、さみしい時間を糧に愛を深められますように。人を観察することも好きな律は、ゆったりと駅へ向かいながら周囲の人々に思いを馳せた。  そのときだ。標識の下で退屈そうに携帯をいじっている男性が顔を上げ、ふと目が合った。彼は柔和な笑みを浮かべて近づいてくる。 「すみませーん、ちょっと道訊きたいんですけど」  迷い人だったようだ。律は足を止め、男性へと向き直った。 「はい、どちらへ向かわれる予定ですか?」 「なんかこの辺りで、めっちゃうまいパスタ屋があるって教えてもらったんですけど、知ってます? 隠れ家っぽい店らしいんですよ」 「隠れ家っぽいおいしいパスタ屋さん……」  職場があるため近辺は通い慣れているが、律はあまり飲食店に明るくない。男性の役には立てないかもしれなかった。 「すみません、僕は存じ上げなくて……お店の名前だけでもわかりませんか?」 「んー、それがわかんなくて……この辺りのはずなんだけどさ。そうだ、お兄さんこの辺り詳しい? 俺全く土地勘ないから、一緒に探してくれません?」 「ええ、それくらいなら――」  自分にもできる。そう思い、うなずく寸前だった。 「悪いけど無理。その右手に持ってるもん使って検索でもなんでもして」 「……!?」  背後から伸びてきた手に口元を押さえられ、律は快諾の返事を飲みこむ。驚いてビクッと肩を跳ね上げてしまったが、次いで頭のそばに囁かれた声は聞き覚えがあり、力が抜けた。 「律さん、行こ」  蓮だ。休日に出かけていたのか、私服姿の蓮が背後に立ち、律の口を押さえている。彼は高い背をゆるっと丸めて律の顔を覗きこむと、ニッと見慣れた笑みを見せてくれた。くるりと振り向かされて手を引かれる。 「あ、ちょっと!」  背後から道に迷っている男性の慌てた声が聞こえた。蓮が足を止めないため、律は首を巡らせて男を振り返る。 「すみません、店内へ行けばインフォメーションがございますので、そちらに……!」  男は眉を寄せていたが、不貞腐れた様子でどこかへ歩いていく。彼がおいしいパスタにありつけるとよいのだけれど。 「律さん、優しすぎっしょ」 「? こんばんは、蓮くん。こんなところで会うなんて奇遇ですね」 「っすね。……んー、やっぱちょっと言ってもいいっすか」 「どうかしましたか?」  蓮が広い歩道の隅へ寄る。おとなしく手を引かれるままついていくと、彼は向き直って律の鼻先をちょんと指で叩いた。 「律さん、さっきのは駄目っす」 「……?」 「そんな、きょとーんと可愛い顔しても駄目なもんは駄目なんっす。あんね、わかってます? さっきの、ナンパっすよ」 「いえ、パスタ屋さんをお探しでしたよ」 「それ口実! 律さん無防備すぎて思わず声かけちゃったっすよ……! や、別に今は隠れてなくていいのか……」  口を手で覆ったままブツブツと何かを言っているが、くぐもった声は聞こえにくい。律はどうしたものかと首を捻るが、蓮が嘘を言っているようにも思えなかった。 「つまり蓮くんは、さっき僕を助けてくれたということでしょうか」 「そっす! あのままどっかに連れてかれたらどうしようかと思ったっすよ」 「そうだったんですね……ありがとうございます」  蓮の言う通りナンパだったなら、さっきの男は一人の食事が嫌で声をかけてきたのかもしれない。少し胸は痛むが、帰って夕飯の支度をしたい律は食事に同席できないから、蓮の横槍がありがたかった。 「もー、ホントにわかってんのかな……俺が守るんで、いいんすけど」 「頼もしいですねえ。そう言えば昔も、こんなことがあったんですよ」 「昔……?」 「ええ。高校三年生のころ、道を聞かれて案内していたら、よくわからない場所へ連れて行かれそうになったことがあるんです」  蓮と肩を並べて駅へ向かいながら、懐かしい記憶を掘り起こす。学校帰りに地域の図書館へ行き、ずいぶん時間を食ってしまった夜だった。すっかり暗くなった街を足早に歩いていた律は、道がわからないと声をかけてきた男性と駅へ向かおうとして、ビル間の小道へ連れこまれたのだ。腰を抱かれ、手首を握られ、「こっちに駅はないです」と訴えても聞いてくれない。困っていると、男の子が割って入ってくれた。 「中学生か高校生か……だと思うんですが、男の人の腕を剥がしてくれて、そのまま表通りへ連れて行ってくれたんです。金髪がツンツンしていて、すごく怒った顔をしていたんですけど……黙ってついてくんじゃねえ! って、心配してくださって」 「へ、へえ……口悪いっすね、そいつ」 「いえいえ、可愛らしいですよ。怒ってくださって、反省しました。そういえばあのときの彼も、猫獣人さんだったんです。黒いお耳をよく覚えています。蓮くんと同じですね」 「そっすか……」  蓮の視線がふらふらと明後日を向く。学習しない律に呆れているのかもしれないが、今後もっと気をつけることで挽回したい。 「あのとき僕は学校帰りのままで……何もお礼できるものを持っていなかったんです。だからおやつ用のクッキーをお渡ししたんですけれど、それが心残りで」 「っえ、なんでっすか?」 「もっとちゃんとお礼をしたかったです」 「大丈夫っすよ!」  力強い肯定は少々声が大きかった。律がビックリして目を丸くすると、蓮が手を握ってくる。ぐいと持ち上げられ、健闘を称え合うチームメイトのような形になった。 「律さんのお菓子めっちゃうまいんで、絶対喜んでます!」 「そうでしょうか……だといいなって思いますが、蓮くんにはきちんとお礼をさせてください」  高い場所にある猫目が瞬く。かと思えば、焦ったように彼は首をぶんぶんと横に振った。見ているだけで酔いそうだ。 「とんでもねっす! 俺としては当然のことしただけなんで……!」 「何か食事でもご馳走できたらと思ったのですが……そうですね、でしたら綾芽と二人で食事する場をセッティングする、というのはどうでしょう?」 「え? なんでっすか?」 「……?」  どちらともなく立ち止まり、首を傾げ合う。律としては自分が食事に連れて行くより綾芽とのほうが喜ぶと思ったのだが、蓮はそこにこだわらないのだろうか。 「っていうか、高望みしていいなら、ひとつお願いしたいことがあるんすけど……」 「なんでしょうか?」 「俺、律さんの手料理食いたいっす! いつもおやつ作ってくれて嬉しいし、こないだは一緒に鍋囲んだっすけど、もっと普段の律さんの飯も食ってみたいっていうか……や、駄目ならマジで、その、一旦諦めるんすけど」  離れていった手が気まずそうに頬を掻いている。チラリと律を見ては目を逸らし、また遠慮がちに視線を戻して「……駄目っすか?」と小声で言った。  きゅ、と胸のどこかが締めつけられたような感覚を味わう。律は初めてかもしれない「胸キュン」とやらを実感していた。 「喜んで。蓮くんはいつがいいですか?」 「あっ、今日! 今日がいいっす! もう腹ペコペコで! 俺嫌いなもんないんで!」 「では一緒に帰りましょう。特別なメニューは出ませんが、よければ」  男が大きく首を縦に振る。元気よく「早く帰りましょ」と律を急かすのが可愛く思えたのは、兄心がくすぐられているのだろう。  ご機嫌な蓮と連れ立ち、自宅へ帰った。  広々としたキッチンは律の領域だ。食材の管理も、献立の決定権も、さらに言えば調理器具も律の好みで揃え、そして律の使いやすいように配置している。だがもちろん家族がキッチンで料理をすることもあれば律を手伝うこともあり、その逆も然りだった。遊川家のキッチンは律の城だが、律だけのものではない。  とはいえ、そこへ当たり前に蓮が立ち、大きな身体を縮めてお手伝いに勤しんでくれる光景も、すっかり見慣れたものとなっていた。 「終わりです。蓮くん、今日もありがとうございます。いつも手伝わせてすみません」  洗い終わった皿の最後の一枚を差し出すと、隣でニコニコと立っている蓮が受け取って綺麗に拭いてくれる。数枚まとめた皿やカップは、憶えのいい彼の手で手際よく食器棚へ返された。  綾芽もよく手伝いはしてくれるが、蓮が来るようになってからは、もっぱら律の助手は蓮だ。綾芽との時間を奪うようで罪悪感はありつつも、気のいい青年の手は助かっている。 「なーに言ってんすか。俺が好きでやってるんすよ。急に押しかけてご馳走になってるんで、これくらいじゃ恩も返せてないし」 「蓮くんは真面目ですねえ。今日はお礼って名目でしたが……ご馳走でなくてもよければ、いつでもどうぞ」 「あざっす!」  男が顔中に喜色を浮かべた。  律は本心から彼が来ることを歓迎しているが、やはり綾芽との時間を増やしてあげたい気持ちもある。恋愛経験がないなりに、兄として二人の恋を応援していた。  それからさほど時間を置かず、蓮は帰り支度を始める。 「綾芽~、またな」 「あ、帰んの? はーい、じゃあまたね」 「おう」  ソファでテレビを見ている綾芽は、チラリと蓮を一瞥して気さくに手を振る。ダイニングテーブルにいた律はぎょっとした。 「っあの、お見送りします」 「いいんすか? 嬉し」  蓮はそんなふうに言ってくれるが、申し訳なさで胸が痛い。片づけを済ませたあと、二階へ上がろうとした律に気を遣って引き留めてくれた蓮を、なんだかんだで独占してしまったからだ。テーブルに向かい合って座り、彼は律が読んでいるテレビ雑誌を覗きこんで話に付き合ってくれていた。  気の利かない自分が嫌になる。のほほんとお気に入りの料理番組の話などに興じず、綾芽との間を取り持つべきだった。  足取り軽い蓮についてリビングをあとにした律は、彼を送るため一緒に玄関で靴を履く。  すると振り返った蓮が、大きな手のひらを律の目の前で軽く振った。 「ここでいいっす。もう遅いし、危ないし」 「危ないならなおのこと見送らせてください。すみません、今日はいろいろとポカをやらかしてしまい……」 「? なんで謝るんすか。俺はめちゃくちゃいい日過ごさせてもらったんでご機嫌なんすけど」  丁寧に押し戻され、廊下へ上がる。一段低い三和土にいるのに、蓮の目線のほうが高かった。彼は腰を屈め、なぜか律の額に唇を押しつける。  驚いてパッと両手でキスされた場所を押さえる。じわりと頬が熱くて、律は口を金魚のようにパクパク動かした。 「な、ぅ、えっと、あの」 「ははっ、真っ赤。デート、楽しみにしてますね」 「えっ!? あ、はい!」  じゃ、と片手を上げ、蓮は颯爽と玄関を出ていく。その背中が見えなくなって、扉がガチャンとしまってから、律は大きく深呼吸をした。 「はー……すごいな……」  予行演習にぬかりがない。なんとも思っていない律相手ですらあんなに甘く接してくれるのだから、これが綾芽相手だといったいどうなるのか、感心を越えて恐ろしかった。 「……蓮くんに好かれて、綾芽は幸せですね」  自分が誰かに好かれたり、誰かを特別好きになることを想像できない律は、それでも妹を羨ましく思った。蓮にひたむきに恋される彼女の未来は明るい。あんなふうに大事にされたら、すごく嬉しいに違いなかった。  もし。もし自分だったら、とてもとても嬉しくて、渡された分以上の愛情を注ぎ返してあげたくなるだろう。手離しで大好きを伝えられるのはたった一人しか持てない権利だ。それが律のものだったら、存分に振りかざす。  キスをされた額に触れてみた。もうそこに蓮の唇はないが、感触は残っている。柔らかかった。ふにっと押しつけられて、それから少し吐息が当たったのだ。かすめるように額を撫でた息を思い返すと、発熱したときみたいに頬が熱くなってしまう。 「にぃ?」 「ッ!?」  ぼんやりと突っ立っている律の背後から、綾芽が声をかけてきた。戻ってこない兄を心配して見に来てくれたのだろう。長い黒髪を揺らし、ひょいと顔を覗きこんでくる。 「どしたの、真っ赤だよ。蓮にいじめられた?」 「違いますよ。なんでもないです」 「ならいいんだけど……ねえ、にぃ、訊いていい?」  可愛い妹の質問に一も二もなくうなずく。すると彼女は気の強そうな顔立ちを人懐っこく綻ばせ、こしょこしょと律の白い耳へ囁きかけた。 「にぃって好きな人いる?」 「イッ、いません、いませんよ」 「そうなの? ホント?」 「本当です。そんな……僕には無縁のことですから」 「そんなことないよ。にぃより可愛い人見たことないもん。にぃのご飯が一番美味しいし、にぃの笑顔が一番癒されるし……どれだけあたしが馬鹿どもをガードしてきたか……」 「ガード?」 「あは、ううん。なんでもなぁい。自覚ないとこも好きだよ」  ニコッと釣り気味のまなこを細めた綾芽が「お風呂入ってこよ」ときびすを返す。引き留める間もなく行ってしまい、律は玄関にぽつんと残された。  なんとなく耳をペタンと下げ、両手で頬に押さえつける。ほのかに温かい耳の内側が頬を覆うと、妙に落ち着くのだ。細く長い溜め息を吐き、ふるりと首を横に振った。  好きな人はいるのか、と問われて思い浮かんでしまった人は、きっと、さっきまで一緒にいたせいで反射的に脳裏をよぎっただけだ。  それだけに決まっている。 「そんな失礼なこと、考えちゃ駄目ですね」  うん、と自分にうなずき返す。  律は恋とは無縁だし、恋されるような魅力などない。そんなことは自分が一番よくわかっているのだから。
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