4.

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 のろのろと大通りへ出ると、溜め息が出る。本来ならば今日は遅番で二十時まで仕事だったのだが、熱っぽいため早めに帰ることになったのだ。  夜は肌寒さを感じるようになったとはいえ、十月上旬はまだ日が長い。夕方の五時にさしかかったばかりの通りは学生や主婦が多く行き交っていて、夕焼けになる前の傾いた太陽が街中を明るく照らしている。不甲斐なさでまたひとつ溜め息を吐いた。  朝から家族に心配されてはいたのだ。だが発熱はしていないし、風邪の諸症状もない。蓮と話して帰宅したあと普段より早く眠ったため、寝すぎでぼんやりするのだと思っていた。だが仕事中、店長には「普段より三割マシでぽわぽわしてるなあ」と案じられ、なぜか今日に限って客からもよく声をかけられて仕事にならなかったため、勧められるまま早退を決めたのだ。  帰るべきか、どうしようか。しばらく迷って立ち尽くしていた律は、後ろから歩いてくる人が迷惑そうに律を避けているのに気づいて歩き出した。今夜は蓮と食事に行くことになっている。風邪ではないから、待ち合わせ場所近くの喫茶店で時間を潰すことにした。  地面は固いはずなのに、どうもうまく踏みしめている気がしない。そんな気持ち悪さと、ときどき襲い来る浮遊感。あとは身体がじんわりと温かいことくらいだろうか。自分の具合を確かめながら電車で駅をふたつ移動し、駅前のカフェへと入る。通行人がよく見える通りに面したカウンター席へ座り、オーダーしたカフェオレをちびちび飲んだ。  居場所を蓮にメッセージで送ると、あとは暇になる。人通りを眺めていればいくらでも時間は潰せるはずなのに、目が滑って人間観察がうまくいかなかった。ならばと持ち歩いている文庫本を開いてみるが、字が踊って掴みどころがない。どうにも集中できず、律は荷物を膝に乗せて抱きこんだ。  バッグと別に持っている紙袋の中には、昨夜借りた蓮のカーディガンと、お金を入れた封筒が入っている。借りた服はきちんと洗って返すべきなのだが、どうしても洗濯機にこのカーディガンを入れることができなかったのだ。悩んだ末、クリーニング代を添えることにした。  不快にならないといいな、と思う。すぐに「蓮くんはそんなに心の狭い人じゃないですね」と和やかな気持ちになる。「お待たせっす!」と、いつもみたいな爽やかな笑顔が見たい。  今夜はどこへ行くのだろうか。場所を決めていなかったが、彼はいつも好きな場所を律に訊く。だから律は、綾芽が好みそうな店や、彼女が気になっているのだと言っていた店を教えてあげるようにしている。味はもちろん店内の雰囲気や、スマートに支払いを終えるための動線なんかを確認するだろうから、立派な練習相手とならなければいけない。 「……いたいなあ……」  じっと座っているのが落ち着かず、胸がちくちくと痛む。これはいったいなんだろうか。  紙袋を抱えたまま胸を押さえ、ぐらりと傾いだ身体を立て直すことなくカウンターへ突っ伏した。天板が頬にぺたりと触れると、冷たくて心地がいい。はう、と恍惚の溜め息をこぼして目を閉じた。  こんなところで眠るなんて、絶対にしてはいけない。頭ではわかっているが、理性から下された命令は、どこかでプツンと断線されているように四肢へ辿り着かなかった。ざわざわと肌が粟立ち、かすかな悪寒に戦慄く。ぎゅっと紙袋を抱いた。ぐしゃりと音がする。押し潰したせいで、袋の入り口からふわりと大好きな匂いが香った。 「ん……」 「大丈夫ですか?」  肩を叩かれて目を開ける、すると、心配そうな男性が律の顔を覗きこんでいた。肉厚で垂れた赤茶色の耳があるから、ビーグル辺りの獣人だろう。  律は「大丈夫です」と返したつもりだった。だが思いのほか声が出ず、熱い吐息だけを漏らす。すると男は瞳を瞬かせ、身を屈めた。 「ここじゃアレですし……店出ませんか?」  何がアレなのか、なぜ店を出るのか、律にはわからない。蓮を待っているのだから律には移動する理由がないのだ。  首を振ると、肩に添えられた手に力がこもる。その痛みが律のグダグダな思考の熱をほんのわずかに晴らし、身体を起こそうとしたときだった。 「なあ」  身震いしそうなほどに冷たい声だ。律の肩を掴む男の手が、ビクッとわななく。 「誰の許可得てその人に触ってんの?」  ばさっと男の視線から隠すように、誰かの服をかぶせられる。とても驚いたが、律はこの匂いに覚えがあった。腕の中に抱いているカーディガンと同じ、甘くて、優しくて、とびきり律をとろけさせる、蓮の香りだ。  刺々しい誰かの声が聞こえるけれど、蓮の匂いに包まれた律はまるで酩酊しているような感覚でいっぱいだった。頭の芯がブレブレで、状況も場所も理解から程遠いところへ飛び去っていく。かぶせられた服を握り、すんすんと嗅いではその心地よさにうっとりした。 「あー……かわい。律さん、連れてくっすよ」  蓮の声が近くでしたため、よくわからないがうなずいた。意識はすぐに香りの中へ戻ってしまう。  次に肩を叩かれてハッと我に返ったとき、律は見知らぬ部屋のベッドに横たわっていた。 「ん……っ、ここ、は……?」 「あ、ちょっと戻ったっすか? ここは駅前のビジホっす。律さん、起きれます?」  ギシリとベッドが軋み、仰向けになった律の視界に蓮が現れる。大きな手のひらが前髪をかき上げて額に押し当てられた。彼の手は少し冷たくて気持ちがいい。 「はあ……きもち……」 「……。律さん、薬持ってます?」  うっすらとまぶたを開ける。薬。くすり。律はやはり風邪を引いていたのだろうか。だが風邪薬は持ち歩いていない。 「持ってない……です」 「そっか……俺の発情期抑制剤はあるけど、体格違いすぎるしな……分量わかんないか。いつもどこのメーカーの飲んでます? 近くの薬局行って買ってくるっす」 「……? や、飲んでない……」 「飲んでない?」  こくりとうなずいた。鼻先を動かしたせいで、蓮の袖口の香りが近付いて微睡む。いい匂いだ。ずっと嗅いでいたい。無意識に両手で男の腕を捕まえ、律はそれを頬に当てて満足げに息をついた。 「律さん、律さん、マジでヤバいくらい可愛いんですけど、待って? 抑制剤飲んだことないんすか?」 「え……? ああ、はい……ないです……僕は発情期、きてないですし、こないので……」 「まだきてない……? まさか、そんなことある? ってか、こないって何?」 「んぅ? ええと……? ああ、こない……恋したことがないので……されたことも、ないですし」  これからもしないし、されることもない。  蓮と綾芽を見ていて芽生えたさみしさが強く胸に迫り、心細くて腕に抱いたものへぎゅっとしがみつく。蓮が動きにくそうに片腕で身体を支えていた。どうかしたのかと訊きたいが、それよりもいい匂いのするものを離す隙を作りたくない。  頭がぼんやりとして、身体が熱い。ぶるりと震えると、律はとうとう自分が体調不良であることを認めた。 「蓮くん……僕、風邪を……ひいたみたい、です。ご飯、行けないので……元気になったら連絡します」 「律さん」 「うつすといけないので、帰って……すみません、ここまで連れて来てくれて、ありがとうございます」  どうにか言い切ると、全身から力が抜ける。身体中がざわつくたびに「ん、ん」と勝手に声が出た。情けなくて、腕に抱いたものへ鼻先を寄せて丸くなる。  蓮が部屋を出る音を聞き届けたら、このいい匂いを肺がパンパンになるまで吸って、とにかく寝てしまおう。そう決めるが、蓮はベッドを下りず律の肩をシーツへ縫いつけた。 「そりゃ、下心は、あるっすけど、でも、今は……助けたいだけなんで」 「……?」  水の中をたゆたっているかのように、蓮の声がぼわんと遠い。仰向けにされたまま身動きできない律は、いい匂いのものを引き寄せようとする。しかしそれは勝手に腕の中から抜け出していき、緩慢に追った手は蓮に握りしめられた。 「俺に任せてください」 「蓮く……? 僕の、どこ、返して……」 「腕なんかより、俺のがよくないすか?」  照れくさそうに何かを言った蓮が覆いかぶさってくる。その途端、律は大きく息を吸い、いい匂いのする身体へ強くしがみついた。 「ん、っん、はぁ、いい匂い、……する」 「でしょ。……助けてあげます。他の人にさせちゃ駄目っすからね」  頭から頬へかけてを丸く撫でた、何やら大きなものが身体を下っていく。服越しに撫でられると、あ、あ、と勝手に声がこぼれた。律は抱きついた蓮の首元に顔を埋め、ほんのりと甘い香りを堪能する。下半身に重くわだかまっていくものに気づいたのは、蓮の手がパンツのフロントを撫でてからだった。 「ひぅ……ッ」  気まぐれに浮上した理性が瞬く間に蝕まれていく。快感だった。びくっと震えた律のこめかみに、蓮の柔らかな唇が押し当てられる。はあ、と苦しげな溜め息が耳の中へ吹きこまれ、背筋が戦慄いた。 「律さん」  甘くとろけるような声で名前を呼ばれたあとは、めくるめく官能が待っていた。 性的な目的で人に触られたことのない律のおとなしい色味の性器は、男の手の中で丹念に可愛がられる。こぼれた蜜を巻きこんで何度もグチュグチュと上下に扱かれ、泣きながら身悶えた。褒めるように鈴口をくすぐられ、律はのけ反るほどの快感を初めて知る。  みっともなくて情けない嬌声をひっきりなしに上げた。自分では止められなかったし、正解がわからなくなった理性は止めたがっていない。ただかぶさってくる男の、抱き寄せてくれる男の広い肩にしがみつき、襲いくる愉悦のまま白濁を噴きだす。何度極みを見たかもわからない。 「いい子……いい子っすね。そのまま寝て、律さん」  そう言って慰められながら目を閉じる。次に目覚めると、ちょうどベッドから蓮が足を下ろしたところだった。  彼は律の目覚めに気づいていない。ギシリとベッドが鳴く。頭を抱えたのか、大きな背中が丸くなった。 「あー……もう無理。きっつ……」  蓮がベッドを下り、バスルームへ向かう。  ――無理。きつい。  向けられて当然の悪態をしっかり噛みしめた律は、それ以上起きていられずまぶたを下ろした。  カプセル薬が二列に並んだシートから、夜の分のカプセルを押し出す。ころりとテーブルに転がったそれを口に含むと、水を呷って飲みこんだ。  ――ビジネスホテルで夜を明かしたあの日から二日が経った。蓮とは会っていない。会えるわけがなかった。  律が飲んでいるのは獣人専用の発情抑制剤だ。初めての恋を覚え発情を知った獣人が、発情期間に入ると飲むもの。強い身体の火照りや抑えきれない性衝動は、自分に合った薬をきちんと飲むことで多少の倦怠感や熱っぽさまで軽減される。研究開発も進んでいるため、ほとんど症状の出ない獣人だって多いくらいだ。  今まで律が必要としなかった薬だった。蓮は正しく律の状態を言い当てていた。そして律は、この発情に至る恋が誰へのものか自覚してしまった。  はあ、と溜め息を吐き、遅れてきた初めての発情期に対応できず、発熱が続く律はベッドへ腰かける。テーブル上には、あの日渡し損ねて持ち帰ってしまったカーディガン入りの紙袋があった。それを見るだけで痛む胸に、自覚して二日の恋心はまだ慣れていない。  気づいていなかった気持ちだ。気づいてはいけなかった気持ちでもある。このまま気づかないでいられたらと後悔しても、律の本能が無知を許してはくれなかった。 「蓮くん……」  蓮が好きだ。綾芽に、大事な妹に想いを寄せる人を好きになってしまった。  最初は純粋に蓮の恋を応援したいだけだったのだ。だが二人で会ってデートを繰り返し、彼の人となりを知って、律は烏滸がましくも蓮の優しさを自分のものにしたくなっていた。いつの間にか、ただの遊川律として蓮と会っていたのだ。  無自覚のうちに恋を覚え、そしてそれは初めての発情を迎えるほどの横恋慕へと育った。最低すぎて目も当てられない。綾芽にも合わせる顔がないし、蓮に対する罪悪感は消えてなくなりたいほどだ。  あの日、律の状態を見抜き、蓮は手ずから発情した身体を慰めてくれた。怖がらないよう優しい声をかけ続け、気持ち悪がらずに射精へ導き、そして身体を綺麗に清めて服を着せ、自分は狭いソファで夜を明かしたのだ。  別れ際までずっと付き添い、心配してくれた蓮の思いやりに頭が上がらない。それに、無理だ、きつい、とげんなりしていた背中を思い出すと、どれだけストレスをかけてしまったかと申し訳なさで泣きそうだった。  ブブッ、とベッドに置いた携帯が震える。見るとメッセージを受信しており、差出人は蓮だった。今日の仕事が終わったのだろう。朝、昼と同じように、『具合どうすか?』と気遣う言葉と、涙を堪えた猫のスタンプが送られてきていた。  あの大きくて元気な男が、可愛らしいスタンプを使っていると微笑ましい。わずかに笑みを浮かべた律は、次いで震えた携帯が知らせた綾芽からのメッセージに唇を噛んだ。 『にぃ、ご飯食べれそう? 部屋持ってく?』  寝こんでいる律を一番心配し、仕事を休んで看病したがったのは妹の綾芽だ。彼女が心から兄を案じてくれているのがわかるから、律は顔を覆って自嘲する。綾芽は律が、蓮に横恋慕していることを知らない。  このままじゃ駄目だ。  律は蓮へ礼を打ちこみ、最後に『しばらく会えません』と謝罪をつなげた。それを送信し、携帯を放置して部屋を出る。  リビングでは母と綾芽が夕飯の支度をしていた。起きてきた律に気づいた妹が慌てたように近づいてくる。 「にぃ、大丈夫?」  母がキッチンから顔を出して「ご飯食べる?」と言い、父は「まだ熱がありそうですねえ」と不安そうな顔をする。かたわらへやってきた妹は、律の額に手を当てて「寝てたほうがいいよ」と勝気な形の眉を垂れ下げた。  そんな可愛い妹に微笑みかけ、律はおずおずと家族に声をかける。実は、と切り出す一言だけで、リビングの空気は少しだけ緊張を帯びた。 「一人暮らしをしようと思うんです」  生まれ育った家を離れるのは寂しいが、二十代も後半に入って、時期がくれば家を出る日も来るのだろうと思っていた。今がきっとそうだ。  恋はどうすればなくなるのかを律は知らない。できることは、ここから離れて蓮と会わないようにすることだけだった。
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