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 遊川家の広々とした独立キッチンは母でも娘でもなく、長男・律の城だった。  システムキッチンに立つと窓からリビングダイニングを見渡せるようになっているおかげで、ここに籠っていても疎外感はない。春の昼下がりは麗らかな陽光が贅沢に差しこんでいて、今は無人のダイニングテーブルも寂しさを感じさせなかった。  オーブンから出していた型をケーキクーラーの上で引っ繰り返す。するとドライフルーツをたっぷり練りこんだ長方形のパウンドケーキが現れた。焼き色もドライフルーツの散り具合も理想通りで、律は満足げに口角を上げる。 「上出来ですね。……いい匂い」  バターの香りが芳しい。律はこの甘い匂いと、それを一番感じられる出来立ての瞬間が大好きだ。手間暇のかかるお菓子ほど完成の香りは達成感と喜びが大きくて、手作りにこだわるのはそのワクワクを求めている部分が多い。もちろん、家族や友人、職場の面々が食べて喜んでくれることも、律が進んでキッチンに立つ大きな理由だ。  切り分けたパウンドケーキをレースペーパーを敷いた皿に並べ、今度は紅茶の用意を始める。バターとドライフルーツをたっぷり使ったケーキにはダージリンがいいだろうか。好みに応じておかわりにはミルクティーを淹れてもいい。  あれやこれやと考えつつ、職場でなんとなく覚えた流行りの曲を口ずさむ。律は今年二十六になる成人男性だが、料理や読書などの物静かな趣味を「イメージ通りだ」と言われることが多い。それはおっとりした喋り方や動作が母性を感じさせる以上に、見た目が関係しているようだった。  ウサギ獣人である律の頭上には、白くてふわふわした一対の耳が立っている。色白なうえに髪がミルクティー色なせいか、全体的に白っぽくて儚い、とは妹談だ。目鼻立ちはくっきりしているし、赤みの強い紅茶色の瞳は強烈な差し色になりそうなものだが、表情の作り方がニコニコと甘いため印象はひどく柔らかい。ぼんやりと街中を散歩していると頻繁に道を訊ねられるのも、話しかけやすい雰囲気が前面に滲み出ているからだろう。  争いごとを好まない穏やかな気質と物言いは父譲りだ。気の強い母と妹いわく「うちの男どもは癒し系」らしい。律には自分が癒し系かどうかわからなかったが、一般的な成人男性よりずっと頼りなく垢抜けないのは自覚している。  何せこの歳で初恋もまだ、想いを寄せられたことすらないのだ。色恋より仕事と料理のほうが楽しいのだから、まったりおひとり様が性に合ってるのかもしれないけれど。  ふと、人より少し聴覚のいい耳に聞き馴染んだ声が届く。トレーにティーセットを載せ終わったところで、玄関の開く音がした。 「ただいまー、にぃ~」 「はーい、お帰りなさい」  妹の声に返事をし、エプロンを外して玄関へ向かう。廊下を曲がってひょっこりと顔を出すと、客用のスリッパを出してやっている綾芽がいそいそとただいまのハグをしにやってきた。 「遅くなってごめんね、にぃ。なんか超いい匂いする。おやつ?」 「はい、さっき焼き上がったところですよ。綾芽、それより彼を……」 「あ~……忘れてた」  獣人でない彼女は黒く艶々とした長い髪と、溌剌とした黄色の瞳が美しい女性だ。顔のパーツは律とよく似ているのに、兄と違って綾芽はとびきり綺麗で強い自慢の妹だった。  律をぎゅうぎゅうと抱きしめ、ウサギ耳に頬ずりした綾芽は名残惜しそうに腕を下ろす。 「にぃ、紹介すんね。あれ、あたしの友だち」  彼女が首を巡らせた先には、出されたスリッパを履いておとなしく立っている青年がいて目が合う。黒髪の毛先を少し遊ばせた彼は、同色の三角の猫耳をピンと立て、宝石みたいなグリーンの猫目を輝かせた。ゆったりしたシルエットの春色セーターとスキニーパンツを着こなしていて、さりげないアクセサリーの使い方がまるでアパレルショップ店員のようだ。  ニコッと大きな口元を綻ばせて笑うと八重歯が覗く。遊川家で一番長身な綾芽よりも背の高い青年は、礼儀正しく頭を下げた。 「どーも律さん。はじめまして、蓮っす!」  ――彼は、綾芽が生まれて初めて自宅へ連れてきた友人だった。  ***  遠い遠い昔、人間と獣人は対立し争っていたらしい。歴史の教科書には永きに渡る不仲や繰り返す戦争の悲惨な結末、そして和平を結び、少しずつ足並みを揃えて現代に続く共生までの道のりが事細かに綴られている。  だが今を生きる人間や獣人たちにとって、いがみ合っていた史実は想像のつかない物語だ。人も、獣人も、男も、女も関係ない。友愛を育むことも、恋愛や結婚に関しても種族や性別は重視されなくなって久しいし、獣の性質が現代より濃かったらしい遥か昔ならいざ知らず、もはや人と獣人に身体的能力差はさほどない。多少、耳や目、鼻などの五感が獣人のほうが敏感ではあるが、それによって優劣が生まれるほどではなかった。  ただ一点、獣人には「恋を知ると発情期を迎える」という特徴がある。性的興奮を覚え、身体が大人になっていくのだ。しかし専用の発情抑制剤を飲めば若干の風邪症状程度まで治まるため、発情期を持つ獣人だからと迫害されることはない。ウサギ獣人の母と人間の父、それから人間の妹を持つ律は、どちらの種族も等しく好きで、諍いのない世界に満足していた。  蒸し器を洗っていると、青年がキッチンに顔を出す。 「律さん、俺なんか手伝うっす」 「あ、蓮くん」  彼は井上蓮――先日、綾芽が初めて連れて来た猫獣人の友人だ。彼が遊川家へ遊びに来るのは今日で二度目だが、愛想よく気さくな性格は親しみやすく、おやつを作って出す係のつもりでいた律もちゃっかり仲良くなっていた。身長は百八十九センチもあるらしく、隣に立つと二十二センチの差に感心してしまう。けれど威圧感がないのは、ニッコリ笑顔の雰囲気がフレンドリーだからだ。 「気にしなくていいんですよ。蓮くんも綾芽とのんびりされててください」 「や、俺が好きでやりたがってるだけなんで。迷惑……っすか?」 「いいえ、とんでもないです。では……洗った食器を拭いてもらえますか?」 「お安いご用っす」  蓮が嬉々として袖をまくると、血管の浮いた逞しい腕が現れる。めいっぱい力を入れてもほっそりした律の頼りない腕とは大違いだ。  彼はタオルを取ると、律が泡を流した食器を不器用そうに、だが丁寧に拭き始めた。 「今日もお菓子うまかったっす。前のケーキもでしたけど、家でプリンが作れるって俺知らなくて」 「とっても簡単なんですよ。プリン、お嫌いでなくてよかったです」 「なんでも好きっす!」  前回も思ったが、清々しいほどにこやかな青年だ。綾芽が二回も家に上げるだけのことはある。それだけ気に入っているのだろう。つまり――彼は綾芽の彼氏候補なのだ。  兄として粗相はするまいと、律は背が伸びる思いだった。 「また遊びに来てくださいね。綾芽も喜びますし……僕でよければ、おやつくらいいつでも作りますから」 「マジっすか? 俺、迷惑かけてません?」 「全然かけられていませんよ」  パッと男の顔が華やいだ。綾芽と同じ高校出身だというから二歳年下の二十四歳だが、少年のような素直さに好感度が上がっていく。  彼は皿をタオルで包み、そわそわしながら半歩、律へと近づいた。 「あのっ……あー、ちょっと質問……とか、してもいっすか……?」 「僕にですか? はい、どうぞ」  ごくり。蓮のくっきりした形の喉仏が上下する。それから意を決したように猫目が強気をまとい、身を屈めて律の耳の近くで囁いた。 「好きな食べ物、教えてほしいっす」 「……? ああ」  なるほど。ピンときた律は内心、微笑ましさにニッコリ笑う。  昔から律は、美人で高嶺の花な綾芽への橋渡しを頼まれることが多かった。プレゼントやラブレターを預かったり、彼女のことを根掘り葉掘りリサーチされそうになったり。  それらは綾芽自身の希望で丁重にお断りしていたが、蓮は話が別だ。彼女がこの家に連れて来ているのだから、律が恋のキューピッドになるのはなんら問題はない。  蓮もそれをわかっているのだろう。綾芽の好みを聞き出そうだなんて、一生懸命でとても可愛らしい。 「好きな食べ物はチゲ鍋です」 「えっ、意外……」 「そうですか? 他にもあるならどうぞ」 「いいんすか!?」  律は綾芽と仲がいいし、彼女が困るような回答はしないにしても、蓮がデートに誘ったりプレゼントを選ぶために必要な内緒話くらいはできる。胸を張ってうなずくと、彼は嬉しそうに眦を垂れ下げた。 「じゃあ、趣味とか」 「乗り物が好きですね」 「へ~! 朝飯はパン派すか? 飯派?」 「強いて言えばご飯でしょうか……そのほうが元気が出ている気がします」 「なかなか勇ましいっすね……あの、……好きなタイプは……?」  ん、と詰まって首を捻る。綾芽とはあまり恋の話をしたことがないのだ。しかし幼少期、誰もが通る童話の絵本を片手に宣言していた姿を思い出した。 「少々のことじゃへこたれない強い人です」  マセた綾芽は「あたしよりカッコいい人がいいわ!」と言っていたが、それは言わない。蓮のビジュアルは文句なしに格好いいものの、綾芽の思う格好いいの基準がわからないからだ。あとは彼自身の努力を応援したい。  すると蓮は見てほしがるように拳をぐっと握りしめた。太い腕の筋肉が隆起し、雄々しい形が露わになる。 「俺、結構強いって言われるっすよ!」 「わあ……僕はひょろひょろなので羨ましいです。すごいなあ……」 「ありがとうございます! あっ、触りますか!? どうぞ!」  かなりサービス精神旺盛なようだ。大盤振る舞いに腕を差し出され、触らないのも失礼かと思った律は水を止めて手を拭いた。 「では少しだけ……失礼します」 「お好きなだけ!」  ちょん、と触ってみると、固い感触が指先に伝わってくる。自分が持っていないものは素直に羨ましくて、思わず撫でていた。 「すごいですね、すごく太いし、硬い……、蓮くん?」  律に腕を触らせてくれながら、蓮は反対の手で目元を覆っている。耳がぺちゃんと伏せているから、手が冷たかったのかもしれない。 「すみません、冷たかったでしょうか」 「いえ全然……触り方がすげー優しくて感動してただけっす……!」 「はあ……そうですか。それはよかったです。筋トレか何かをされてるんですか?」 「本格的なのはやってないんすけど、朝はちょっと走ったり、あとは気まぐれにダンベル上げたり――」  好きな人の兄に褒められて気分がいいのだろう。上機嫌に日課の筋トレ内容を話す蓮に相槌を返していると、元より嫌いでない後片づけもより楽しくなるというものだ。一人で黙々とキッチンに籠るのも好きだが、誰かと話しながらもいい。 「ちなみに犬と猫、どっち派っすか?」 「そうですねえ……甲乙つけがたいです」  綾芽の好きな動物がどちらかわからない律は、曖昧に濁して笑う。ここは「猫ですよ」と断言してあげたいが、そう無責任なこともできない。  しかし蓮はへこたれなかった。「俺は昔からウサギが好きっす!」と元気よく宣言したかと思うと、「猫も好きになってもらえるよう頑張ります!」と拳を握る。ぐいっと顔が近づいてきて、律は肩を竦めてのけ反った。  猫目が細くなる。油断すれば鼻先が触れそうな場所まで顔を寄せた蓮は、溌剌とした声を驚くほどセクシーに潜めさせた。 「見ててください」  ざわりと肌が粟立つ。軽い羽でさっと刷かれたようなぞわぞわが全身を駆け巡り、律は白い耳をピンッと真上に立てた。 「もち、もちろんです、はい」 「ははっ、すいません……びびらせちゃった」  蓮の笑顔が遠ざかる。かと思えば手が伸びてきて、律の横髪を耳にかけた。 「今日はこのくらいにしておくっす。俺あっちに戻ってますね」  キッチンから蓮の姿がなくなってようやく、律は肩の力を抜く。耳にかけられた髪を戻すと、くすぐったさに「わー……」と無意味な声が出た。 「すごいですね……す、すごい……若い子って、ただの知り合いに、あんな親密な態度をとるんですか……知りませんでした……」  律にリサーチなどせずとも、蓮は綾芽のハートをゲットできそうだ。家に遊びに来るくらいなのだから、お付き合いは秒読みだろう。  眩しいほど真っすぐな彼の恋が叶いますようにと、律は密かに祈る。  だが綾芽は手強いようで、その後も蓮は遊川家に顔を出しては律にアドバイスを求めた。いつの間にか両親とも打ち解け、綾芽のいない中で父とリビングで話しこんでいたこともある。身体は大きいが懐っこく素直な青年は、驚くほど自然に遊川家に馴染んでいった。
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