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5.
実家から数駅しか離れてはいないものの、職場近くのマンションを借りた律は翌月には家を出た。
初めての一人暮らしではあるが、家事が得意なおかげか、さほど不便はない。強いて言えば一人が寂しいことと、料理を作りすぎてしまうことが問題だろうか。前者はいずれ慣れるだろうし、後者は今のところ隣人の体育会系サラリーマンが泣いて喜んで食べてくれている。
実家のキッチンよりずっと狭いが、ここだけはとこだわったカウンターキッチンに立つ律は、焼き上がって冷ましたココア味のロール生地へ丁寧にチョコレートクリームを敷き詰めていった。クリスマスが二週間後に迫り、綾芽から今年も律特製のブッシュドノエルをせがまれているのだ。当日は仕事のため、イブの夜に作っておくことにし、仕事が休みの平日に練習している。
どんな飾りつけにしようかと考えながら、スライスした苺を並べていった。これは今夜も隣のサラリーマンに託すことになるだろう。窓の外に見える夕陽が沈んで一時間ほどすれば帰宅しているから、そのころに持って行けばいい。
「ん……いいですね。結構うまくできた気がします」
フォークで木の模様を描き、切り株を乗せてデコレーションする。今回は使っていないが、本番ではマシュマロフォンダンで自作したサンタや飾りも乗せるつもりだ。喜んでくれる妹の笑顔を思い出すだけで手間も気にならなくなる。
――ふと、胸が痛くなった。クリスマスに綾芽は蓮と過ごすのだろうかと、そんなことを考えてしまったからだ。
蓮とは結局、発情したあのときから会っていない。家を出た辺りから連絡も来なくなっている。律からはもちろん連絡すべきではないから、ずうっとそのままだ。
だが借りたカーディガンの扱いに困っている。一度、綾芽に託そうとしたのだが、頑として嫌がられてしまったのだ。まだ喧嘩をしているのかもしれない。直接連絡を取って服を返す以外に方法はなかった。
出来上がったケーキを写真だけ撮り、大き目のタッパーにそっと入れて冷蔵庫へ直す。手早くキッチンを片づけた律は、心のさみしさに比例するような肌寒さを覚えて暖房の温度を一度上げた。それから、いけないと思いつつ、ベッドの枕元に置いている蓮のカーディガンを羽織ってソファに落ち着く。
未練がましく何をしているのかと、心底呆れているのだ。だがやめられない。蓮の匂いはもうしないが、これを羽織っていると、蓮の姿を思い出して嬉しくなる。だぶった袖を手繰り寄せて鼻先を押しつけると、夜の公園で着せつけてくれた優しい手つきが蘇った。
「……困りましたね」
はあ、と大きな溜め息をひとつ。
蓮と会わなくなって一ヵ月半ほどだ。この間、律の恋はちっとも下火になってくれなかった。むしろ改めて強く蓮に焦がれるばかりで、律を信用して関わってくれていた蓮にも、何も知らないまま慕ってくれる妹にも顔向けできない。
このままでは一生、二人への罪悪感を昇華できないままになってしまう。とても大切な人たちだ。逃げ続けるのは嫌だった。
律はわざと腹に力を入れ、「よしっ」と顔を上げた。気持ちに正直な耳はぺちゃんと垂れ下がっているが、それは知らないフリだ。感情は行動で誤魔化せる。律は蓮より綾芽より年上で、一番しっかりしていなければいけない立場だ。
カーディガンを着るのは今日で最後にする。今夜、脱いだら洗濯するのだ。借りた翌日、洗濯機に入れられなかった理由を今はわかっている。蓮の匂いがなくなることを本能的に忌避したのだ。わかっているから、もう大丈夫。今度こそ蓮に返せる。
携帯を開き、一ヵ月半前の受信メッセージを最後にやり取りが途絶えているトークルームを開いた。
『お久しぶりです。近々お時間いただけませんか? 上着をお返しさせてください』
送信ボタンのタップは一息に行う。ある程度の勢いがないと、蓮に嫌がられたらどうしようかと不安になって進めないからだ。
「送れた……」
胸を撫で下ろし、安堵の息を吐く。視線の先ではすぐに既読マークがつき、吐き出した息を思いきり吸った律はむせた。そのうえ、携帯電話はアプリの通話モードに切り替わり着信音を鳴らし始める。
「あ、っわ、え? えっと、あ、もしもし!」
『律さん!?』
「えっ、はい!」
しまった、反射的に応答してしまった。
何も身構えていない頭の中は真っ白だ。しかし耳に当てた端末からは、この一ヵ月半思い出してはなぞっていた蓮の声がする。急速に体温が上がり、心臓が慌てたスピードで血液をどかどか全身へ巡らせ始めた。
耳元で蓮が笑っている。はあ、と吐く息の柔らかさは安堵の色だった。
『お久しぶりっす。律さんからメッセもらえると思ってなくて……すみません』
「い、いえ……僕こそ急に連絡をしてすみません。あの、……ええと」
いったい何から話せばよいのだろうか。
メッセージを送ったら返信があるものだとばかり思っていたから、突然の電話に思考がついていっていない。ただ上着を返すために予定を空けてもらえないか問えばいいのだが、そんなことはすっぽ抜けていた。
しどろもどろな律を見かねたのか、先に言葉を重ねたのは蓮だ。
『元気してました? 声聞けて嬉しいっす』
「……僕はとても元気です。蓮くんは……」
『俺は全然駄目っす。もうマジで駄目。律さんいないとポンコツなんすよ』
「――……」
どういう意味で受け取るべき発言なのかわからなかった。だが律の望むものと違う意味合いであることは確かだ。ぐっと唇を噛むと痛かった。少し涙が滲む。
「蓮くんに謝りたいことがあるんです」
『ん?』
「僕は……ぼくは」
生まれて初めての告白は、失恋へ続く近道だ。やっと知れた恋の感情を大事に育ててやれないのは悲しい。だけれど、蓮を好きでいた時間を無駄なものだとは思わなかった。
たくさん謝って、きちんと綺麗に離れる。そうしたら、この恋が自然に思い出へと姿を変えるまで寄り添っていたい。
「あなたに……蓮くんに、恋をしてしまいました」
『……律さ、』
「すみません。本当にごめんなさい」
蓮が何かを言う前に謝罪を投げた。それしかできない。綾芽の兄というだけの立場で、蓮のアシストをしてあげるべき立場で、うっかりのぼせ上がって恥ずかしいったらない。
垂れ下がった耳を片手で頬に押しつけ、湧いてくる罪悪感のままに口を動かした。
「気持ち悪いって思われても仕方ないです。先日は……ぁ、あんなことを、させました。合わせる顔がなくて……」
『律さん』
「あの、でも、上着だけはお返ししたいんです。借りっぱなしはよくないですから。不愉快でしたら郵送します。なので……」
『律さん、開けて』
「――え?」
疑問の声に被さったのはインターフォンの音だ。ピンポーン、と間延びした音が、室内と電話の向こうから少しだけズレて聞こえる。
リビングから開け放した扉の向こう側を見ると、短い廊下の突き当たりにある玄関扉がこんこんとノック音を知らせた。
『ここ開けて、律さん』
返事ができないままソファを立ち、ふらふらと玄関へ向かう。全身が鼓動のたびに震えるかのようだった。
もしかして。もしかして。
期待が一歩ごとに高まり、携帯を耳に当てたまま震える指先で鍵を開ける。そうして玄関を押し開けると、期待通り、そこには蓮が立っていた。
「蓮く、ンッ!?」
「律さん!」
名前を紡ぐ暇もなかった。蓮は律を見た途端に扉を大きく開き、律を玄関内へ押し戻してぎゅうぎゅうと抱きしめる。扉がガチャンと締まった。すっぽりと胸に埋まると息苦しいが、想い人の登場と突然の抱擁で呆気にとられて思考停止してしまう。
彼は律の耳元で深い溜め息を吐き、今度は大きく吸った。
「ぅう……ッ無理、可愛いっす!」
「……!?」
押し殺した唸り声にビクッと肩が跳ねると、逃がさないとばかりにハグがきつくなった。
「律さんなんで俺の服着てんの? やば、無理可愛い、可愛すぎて無理、やばいし、もう、何? 何が起きてんの? うわぁ、はあ、可愛い、匂いまで可愛い」
自分よりも酔っている人がいると冷静になるのと同じだろうか。蓮が支離滅裂な言葉を喚いているせいで、止まっていた律の思考がことことと動き始める。蓮だ。抱きしめられている。可愛い、可愛いと言葉で愛でられている。――やっぱり何が起きているかわからない。
「律さんっ、顔見せて」
「んわ……っ」
ハグがほどけ、今度は両手で頬を包まれていた。くいっと上向かされ、肩を丸めて覗きこんでくる蓮と至近距離で目が合う。鼻先は触れ合っていた。頬ずりされた公園での夜を思い出して、そこがカッカッと火照る。
「れ、蓮く、ん、近、近いです」
「離れんの駄目っす。すげえ会いたかった」
泣きそうな声で言い、男は鼻先をすり寄せて甘えてきた。思わず「僕も」と言いかけた律は、奥歯を食い締める。
甘える蓮は可愛いが、今は困るのだ。もっと好きになってしまう。恋がここにあると教えたのに抱きしめてこんなに嬉しいことを言われたら、律はいつまでも今日の甘苦しい感情を持て余すしかない。それはつらすぎた。
「なんで……そんなこと言うんですか」
「なんでって、本音だからっす」
「駄目です……さっき、言いました。僕は蓮くんが好きなんです。なのにこんな、諦められなくなります」
「駄目じゃねえっすよ! さっきも……なんで謝ったんすか? 諦めなくていいし、諦めるなんて言わないでほしいっす!」
「や、だって、だって蓮くんは、綾芽のことが好きなのに……!」
「はあ!?」
キーン……と一瞬聴覚が悲鳴を上げる。ウサギ獣人の人よりちょっと鋭敏な耳をぺちゃりと頭に伏せた律は、がっしりと抱きこまれて自分がふらついたことを知った。
蓮は焦った様子で首を横に振る。それは何か恐ろしい濡れ衣でもかぶせられて、必死に否定する罪人かのようだった。
「ありえねえっす! なんで? なんでそんな勘違いしてるんすか……!?」
「え、……え? 勘違い……? 蓮くんは綾芽のことを……」
「綾芽はダチっす! そんでもって、敵っつーか、姑!」
「敵? 姑……?」
綾芽はまだ二十四歳で結婚もしていない。いったい誰の母親なのだろうかと首を捻ったときだった。
「だって俺、高校時代から律さん一筋だし!」
ほぼ半泣きで言い放った蓮の告白で、律はついに目をまわしたのだった。
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