01 傘

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01 傘

 アカデミーの長期休暇にあわせて、オディールは叔母の家に行くことにした。勉強になるからと母親から強く勧められたということもある。いわゆる研究職に近いことをしている叔母は、今オディールがアカデミーで主に学んでいる事柄について詳しい。そんな叔母の家にしばらく居候すれば、それらについての知識を得ることができるだろう。あわよくば様々なことを教えてくれるかもしれない。そういう話になった時点で、叔母に連絡を入れたと母は言っていた。だから、いきなりの訪問でも大丈夫だろう。それに、叔母は姪が急に訪問してきても、理由を聞かずに帰れなどとは言わないはずだ。叔母は、なんやかやいいやつという分類なのだから。少なくとも、オディールはそう認識している。  とはいえ十五歳の一人旅、母はともかく父からはとても心配されたが、母と二人で「大丈夫」を合唱することでやりこめた。おかげで、オディールは今、無事に蒸気機関車に乗ることができている。行き先は叔母の住む町。がたんごとんと揺られながら、オディールは窓の外を見る。今走っているところは、田園地帯であるようだ。麦だろうか、青々と茂っている植物が並んでは後ろへと走り去っていく。オディールは次に窓そのものに視線を向ける。窓はからりと乾いた様子だ。まだ雨は降っていないらしい。  叔母が住んでいる町、そこは年がら年中雨が降っているのだという。外を行く人々は皆傘をさして生活している様子から、その町は『傘の町』と呼ばれている。人々が色鮮やかな傘をさして通りを行く様子は、町の名物でもあるそうだ。以前叔母からの手紙でそう聞いた。  元々は別の町に住んでいた叔母がなぜあの町に引っ越したのか、その理由は知らない。着いたら聞いてみようかな。オディールはそう呟いて、畳まれている自分の傘を見た。薄い青色で小ぶりな傘、普段から使っている愛用品だ。傘の町でこの傘はどんな花を咲かせるのだろうか? と思う一方で、オディールはとある一点を危惧していた。この傘は小さい。もしかしたら叔母の家へと向かう道中で、荷物を入れているトランクが濡れてしまうのではないだろうか。  その心配を解決するための策が一切思いつかないまま、機関車は駅に停車した。ベルの音色に急かされるように、オディールは荷物を持って列車を降りる。そのまま駅舎を通って町の中に足を踏み出せば、大粒の雨がオディールを出迎えた。慌てて一度駅舎に戻り、傘を広げる。右手に傘、左手に軽くはないトランクを手に。オディールは再び町の中に足を踏み出す。予想していた通りトランクは一部雨に濡れてしまったが、中身に影響があるほどではないようだ。そのことに安堵しながら、オディールは町を歩く。事前に聞いていた叔母の家の住所は、階段坂通り五番地とのことらしい。土地勘のないオディールは素直にこう思った。どこなの、と。  オディールはとりあえず道を聞けるような場所へ行くことにした。傘と荷物を持って、町役場を探す。こういう時は公共機関で話を聞くのが一番手っ取り早い。役場を探す最中も様々な人とすれ違っているが、その人々に道を聞こうとは思えなかった。地元の人かどうかわからない相手に、道を聞くのは気がひける。要はそういうことだ。  しばらく歩いていると、大きな建物が見えた。外壁に掛けられている看板にはこの町の町役場であるとの文字。傘を畳んで、傘立てのすみにそれを入れる。そのままオディールは建物の中に入る。来客へ向けた職員の挨拶が聞こえてきた。手っ取り早く入り口に一番近い窓口で聞いてみよう。オディールはトランクを右手に持ち直してカウンターに足を向けた。 「すみません、道を聞きたいんですが」 「かまいませんよ。この町は初めてですか?」 「はい。ちょっと叔母に会いに来たんです。階段通り五番地なんですけど」 「ああ、あそこですね」  そう言って職員は目印となる建物を教えてくれた。そして、町の地図も渡してくれた。オディールはその情報と地図を手に、今町を歩いている。職員によれば、階段通りは人通りが若干少ないのだそうだ。そういう立地であるために、静けさを好む研究職や作家などが多く住んでいるのだそう。叔母がそこに住んでいることも納得できる。  ゆるやかで大きな階段、それにそって建てられているいくつもの家。なるほど、このようにしてできている通りだから『階段通り』なのか。直球でわかり易い名前だなあ。オディールはそう思いながら、通りの水たまりを避けて歩く。  それにしてもこのあたりは人通りが少ないとは聞いていたが、来訪者一人が歩いているだけというのはこの町でも普通のことなのだろうか? 生活に雨がつきものの町だから、人の往来は多少あるはずなのだが。おかしいな、そうこぼしてオディールは階段を登ろうとして前を向いた。そして、そこに居るものに気づいた。  白いゆったりとしたローブを身にまとっている何者か。この町ですれ違ったすべての人達とは違って、この雨の中傘をささずに佇んでいる。じっくり観察していると、袖口からはみ出ている黒い木の根のようなものが三本見えた。そのうちの一本をゆらゆらと動かしながら、それは何かを口にする。濁った川の流れのような、暗い森の木々のざわめきのような、そんな音で。  あれは何かをしようとしている。  あれの正体を自分は知っている。  あれの名は、悪魔と言う。    オディールにわかったのはそれだけだった。それも、アカデミーで学んだ範囲でわかることだけ。悪魔は呪いをかける時、発音出来ない言葉で呪詛をまく。悪魔は訪れた町の理に従わない。そして、悪魔に認識された人間は、悪魔の言う「賭け」に従わなければならない。  悪魔はこちらに気づいているのだろうか? もし気づいていないのなら、うまい具合に迂回して叔母の家まで行けないだろうか? そんなことを考えながら、オディールは一歩後ずさる。そうして、その足で、水たまりを踏んだ。  ぱしゃり、と音がする。しまった、とオディールが口に出すより前に、悪魔は目の前に現れた。オディールを見下すようにして、悪魔は言葉を紡ぐ。 「ああ、可哀想なお嬢さんだ。私の呪詛を見てしまったのでしょう。ああ可哀想、可哀想。この町も貴女もあと三十日で沈んでしまう。滅びてしまう。ああ、可哀想」 「し、沈むって何」  三十日。沈む。不穏な言葉に反応してオディールは言葉を発した。悪魔の口からカラスの鳴き声のような音が漏れる。笑っているのだろうか。 「文字通りですよ、お嬢さん。三十日後に、この町は雨に沈んで滅びる! これが呪詛、呪詛でございます」  とはいえ、と悪魔は言葉を続けた。根のような両腕を広げて、仰々しく。笑い声のようなものを交えて。 「貴女は幸か不幸か私が呪詛をまく姿を見た。なれば、理に従わなければならないでしょう。沈むまでの期限に、私の心臓を三つ、破壊してごらんなさい。それができたら、貴女の勝利とみなして……そうですね、この町への呪詛を撤回しましょう」  ケタケタと悪魔が笑った。それと同時に、突風が吹く。あまりにも突然のことに、オディールは思わず傘を持つ手を離す。ふわりと浮いた傘が、音を立てて地面に落ちた。  オディールは顔をかばう腕の隙間から、悪魔がその場を立ち去る姿を見た。雨に溶けるように、その姿を消していく。楽しそうに、濁ったノイズで笑いながら――。  しばらくして悪魔の笑い声も遠くなった頃、オディールは落ちた傘を拾いあげる。 「心臓を破壊しろ、か……」  傘をさしながら、悪魔の言っていた『勝利条件』を復唱する。 「いや、そもそも私に何を背負わせようと……」  とはいえ、理に逆らうことはできない。そう宿命づけられてしまった以上は、悪魔の心臓を破壊しなくてはならないのだ。  どんよりとした気持ちのまま、オディールは傘の内側を見上げる。骨が折れている様子はないようだ。不幸中の幸いだろうかと一瞬思うが、それを余裕で超過する不幸を背負わされてしまったような。そんな気がしている。   「とりあえず叔母さんに相談しようか……」  厄介なことになってしまった以上、自分だけで抱えるには荷が重い。重すぎる。  はあ。オディールは大きくため息をついた。
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