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02 透明
階段通り五番地。叔母の住んでいる家は、悪魔と遭遇した場所のすぐ近くにあった。ゆるやかで大きな階段、その高い場所に入り口を構える、外観からはこぢんまりとした雰囲気がする二階建て。そういえば以前の叔母の手紙に、町から一軒家を借りているという話があったような気がする。研究者向けのそういう仕組みがあるのだと、書かれていたような覚えが。
オディールは静かに扉の前に立つ。傘を叩く雨音のリズムは、どことなく不気味な気がする。どう考えても、先程の出来事のせいだろう。そしてそれとは別の心配事が頭をよぎる。叔母は今家にいるのだろうか。買い物に行っている可能性もあるし、別件で遠出をしている可能性もある。母が事前に連絡を入れているとはいえ、具体的にいつ頃つくかまでは言ってないはずだ。正直、断言できることでもないだろうし。
居てほしい。居て。頼むから居て。そんな思いを込めて、オディールは扉をノックする。間を置かずに家の中から声がする。「どうぞ」と。聞き慣れた、だがどこか懐かしい声がする。どうやら叔母は今家に居るようだ。
傘をたたむ。そうして扉をゆっくりと開く。外観の印象とさほど変わらない玄関がオディールを出迎えた。とはいえ、すぐに違和感を覚える。なぜ玄関先にまで本棚があって、しかもみっちりと本で埋まっているのだろう。部屋の中に本棚を置ける場所はないのだろうか。そんなことを思っていると、「とりあえずそこで待ってて」という声が聞こえてきた。素直にそれに従っておくことにし、オディールは無造作に置かれている傘立てに自分の傘を立てた。
「ああ、ようやく来たね。待ってたよ」
「こんにちは、叔母さ……」
「カンナさん。そう呼びな、って前にも言ったでしょ」
「ごめんなさーい」
「反省してないねその顔は」
現れたのはオディールの記憶通りの叔母――カンナだ。やり取りは軽いものであったが、オディールの不安感を薄めるには十分だった。これなら落ち着いて自分の身に起きたことを話せるかもしれない。それでもまだ不安はあるが。
まあとりあえず中に入って。そう言ったカンナの案内に従い、オディールは家の奥へと入っていく。歩きながら廊下の左右を見てみると、そこにも本棚が置いてあった。職業柄本をよく読むのだろうが、それにしても多すぎやしないか。自分が知らないだけで、カンナは本を収集するマニアなのか? そんな疑問もわいてくるが、今はそれどころではないような気がする。案内された先のリビング、高足のテーブルにそって置かれている椅子。カンナはオディールにそこに座るように指示した。素直に座りながら、自分に声をかけてくる叔母の言葉に答えていく。
「姉さんから手紙は来てたけど、何だっけ? 何を知りたいの、あんたは」
「魔術考古学関係。カンナさん詳しいでしょ」
「詳しいどころかそれが専門だからね」
あんた、あたしに称号あること知ってるでしょ。オディールに向き合うように、カンナがテーブルについた。
魔女。魔術に関する知識を極めた人間に送られる称号だ。魔術に関する研究が盛んであるこの国で、過去にその発展に貢献した女性を称えるために作られた称号が転じたものだという。カンナがその称号を得たと聞いたとき、オディールの背を衝撃が走った。身内から魔女なんてものがでてくるんだ、と。
オディールは考える。自分は先程悪魔の理に巻き込まれた。カンナの専攻は魔術考古学(過去の魔術的遺産を解明する学問らしい)とはいえ、魔女の称号を持っている。それ以前に、あの出来事の直後にこう思ったではないか。叔母さんに相談しよう、と。
「カンナさん」
「何?」
オディールは少し咳払いをして、口を開いた。
「悪魔に認識された。理に巻き込まれた。心臓を三つ破壊しろ、って言われた」
「は?」
「お願い、手伝って……」
「あんた……」
そこまで言って、オディールはうなだれた。カンナが自分を刺すような目で見ている気がする。痛い。魔女の姪という立場のくせして何悪魔とそういうことになっているのか、と言われたら反論する気力もない。
「顔上げな。可愛い姪のことだしね、手伝うよ。ただ……いくつか質問には答えてもらうよ」
だが、叔母の声は柔らかいものだった。オディールの勝手な思い込みに比べて、ではあるが。
「まず一つ。破壊までの期限はいつまで?」
「三十日後、だって」
「二つ目、あんた悪魔の心臓がどういうものか知ってる?」
「知ってるわけないじゃん……」
「だろうね」
カンナの青い瞳がまっすぐ自分を射抜く。視線をそらす方が失礼だ、とオディールはまっすぐに叔母の瞳を見つめ返した。
「悪魔の心臓はね、透明なんだよ。無色透明。普通にしていれば視認することはできない」
その答えに、オディールは目を見開いた。つまりはそういうことか。悪魔は知っててあの条件を出したのだ。ただの人間の少女に、『悪魔の心臓の破壊』などできるわけがないと確信しているからこそ!
つまるところ、状況は絶望的ということだろう。オディールはまたうなだれた。三十日、滅びを待つために過ごさなくてはならないのだろうか? そんなの嫌だ。自分は叔母の家で魔術考古学をちょっと学びにやってきただけなのに。長期休暇も楽しむ気できたはずなのに。
では、どうすればいい? 答えはすぐ近くから返ってきた。
「まあ、絶望するのはまだ早い」
「じゃあ何。カンナさんは対抗策知ってるの」
「悪魔の心臓を視認するための策ならね」
「視認……!? 見ることができるの!?」
「できるよ。ただし、この手段を取ったらちょっとばかし生活がキツくなる。本来見えないものが見えるようになるからね」
どうする? カンナの一言が投げかけられる。返す答えは一つだ。
「いいよ! それでも! 流石に三十日を死ぬために過ごすなんて嫌だからね!」
「はいはい」
そう言ったカンナが、後ろの棚にあったボトルを一本取り出す。目の模様が描かれているようだ。その中身をグラス半分に注ぎ、カンナはそれをオディールに差し出した。
「それを飲めば、不可視の魔術存在が見えるようになる。本来は透明に見えるものがね。ただし、さっきも言ったけど、この手段を取ったらちょっとばかし生活がキツく……ってあんた」
カンナが言おうとした言葉をさえぎるように、オディールはグラスの中身を一気に飲んだ。喉を甘ったるい液体が滑り落ちていく。グラスを机に置き、大きく息をつく。二度三度瞬きをしたオディールの世界は、その一瞬で広がった。
まず、文鳥のような鳥が複数羽飛んでいる。叔母の肩の上にも乗っている。自分の目に映る棚の中に、先程は見えていなかったはずの本が複数見える。透明という姿で存在していたものたちが見える。まだこれは序の口といったところなのだろう。だが、わかる。今自分が見ている世界は、魔女のための世界なのだと。
オディールは胸の前でぐっと手を握った。この視界があれば、悪魔の心臓を破壊することができる。透明で、普通の人間には見えないものを。
「叔母さん」
「カンナさん」
「……カンナさん、私ちょっとだけ頑張れる気がしてきた」
「もっと頑張りな。あたしも手伝うから」
「うん」
少しだけ、絶望が希望になった気がした。
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