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07 酒涙雨
この日のカンナは多忙であるようだ。オディールが朝起きたときに食事も用意されていないくらいには。仕方ないので自分の手でパンと卵を焼いたが、カンナが焼くよりうまく焼けたような気がして頭を抱えた。もしかしなくても、今後は自分が朝食を作ったほうがいいのでは。
そういうわけで、オディールは今日カンナと顔を合わせていない。リビングの机の上に置いてあった借りてきた本は、もう返却していいということだろう。とりあえず今日はこれを返却しに行こう。そうして、新しく別の資料を借りてこよう。そう思いながらオディールが本を手に取ると、後ろから声がかけられた。
「あれ、オディールちゃん一人?」
「そうだよ。カンナさんどこか行ったみたいなんだけど、エンくん知らない?」
「僕今起きたところだからわからないかな~」
分身の姿のエンが扉の近くで立っていた。とりあえず一番近くの椅子を示して手招く。エンは素直に示された椅子に腰をおろした。
「オディールちゃんは今日も調べ物?」
「そうだよ。破壊に直結するヒントまだないじゃん」
「そういえばそうだった」
「だからもうちょっとしたら家出るつもりなんだけど」
そう言いながら時計を示すと、エンが勢いよく立ち上がる。
「はいはい! 僕も一緒に行っていい!?」
「え?」
「邪魔はしないからさあ~、あと多分オディールちゃんが調べてる本そこそこ読めるよ! 役に立つでしょ!?」
だからお願い! エンが手を合わせながら頭を下げてくる。
よくよく考えれば人形という手段がなかったころは、彼はあまり外に出ることもなかったのだろう。気晴らしなりなんなりで外にでたいという気持ちもわからなくはない。そしてカンナから家の合鍵も受け取っている。留守にすること自体は問題ないだろう。
それ以上に問題は。
「うーん…………図書館で騒がないならいいよ」
「やった~!」
こういうことである。エンはやたら感情の振れ幅が大きいと言うか、雑に言ってしまえば騒がしい。黙って目を伏せていれば美少年なのだが、態度ですべてを台無しにしているという典型例だなとオディールは彼を評価した。
それはそれとして、果たして『図書館で騒がない』という約束は守られるのだろうか。元気にはしゃぐエンの姿を眺めながら、オディールは心の底からそう思った。
◇
オディールの心配は杞憂に終わった。図書館に来たあと、エンは特に騒ぐこともなく過ごしているようだ。これなら安心して調べ物もできるだろう。そう言えばエンはオディールが調べている本の内容を「そこそこ読める」と言っていた。それが本当なら、自分が読めなかったところを読んでもらうこともできるのだろうか?
「エンくん」
小声で話しかける。顔を上げて、エンがこちらに視線を合わせた。
「なーに?」
「ちょっとこの本のこのあたり読んでもらいたいんだけど……」
「いいよ~」
読んでいた本をエンに渡す。エンはそのまま視線を落として真剣に本を読みはじめた。しばらく待ってみよう。何か調べ物に進展があるかもしれない。そう思ってオディールが暇をつぶそうと古典の棚から本を取り出したときだった。エンが小声で自分を読んでいることに気づいたのは。
「どうしたの?」
「この辺ね~、『朝焼けで浄化した杭で厄を砕くべし』だってさ」
「本当に読めるんだ……」
「信用なかったの!?」
「ごめん」
「あ、うん、僕もごめん」
エンの言っていた言葉を復唱して、オディールはそれを手帳に記す。鍵となる言葉は見つかった。あとはその意味をカンナに相談しつつ紐解いていけばいい。そうすれば、あとは破壊する心臓を探し出すだけでいいはずだ。楽観的に考えるなら。
「今日はもう帰ろうか」
「もう帰るの? ……というか、まあヒント見つかってるもんね」
エンの顔を見つめ、オディールはうなずいた。
◇
とはいえ、やることを終えてまっすぐ家に帰るというのもなんだか味気ない。その点でオディールとエンは意見が一致していたらしい。町を散歩して帰ろうということになり、二人は今商店街付近の噴水広場にいる。休憩所として設置されているらしい大きな傘の下に椅子。そこに腰を下ろして色鮮やかな傘が通り過ぎていく様を眺めている。
「そういえばエンくん用の傘もあってもいいよね」
「そう? 僕なら別にマスターの勝手に借りて使うでも問題ないけど」
「でもカンナさんの傘、エンくんのその姿で使うには大きすぎると思うよ。というか大きすぎるよ」
「言われてみれば……?」
だから見るだけ見て帰ろう。そう言ってオディールは商店街の中に足を踏み入れる。少し遅れて歩いてくるエンの様子は、やはり傘のほうが大きく、『傘に持たれている』という印象だ。
そうして足を踏み入れた商店街。様々な店が道の両側に並んでいる。傘を売っている店はどこだろう、左右をきょろきょろと見回しながらオディールは道を歩く。しばらく歩いていると、大きな窓の店を見つけた。すぐ近くには看板もある。酒店だそうだ。中で購入した酒を飲むこともできるらしい。へえ、とオディールは感嘆の息を漏らした。
「オディールちゃん、この国ではお酒は二十歳からだよ」
「わかってるって、ただちょっとおしゃれな感じだなって思って……って、あれ……?」
窓から覗くことができる店の様子。奥の席に誰かが座っている。よくよく見てみれば、見覚えがあるような。いや、見覚えがあるという問題ではない。見覚えしかない人間がそこにいる。
「カンナさんだ」
「え? あ、ほんとだマスターだ」
カンナが酒瓶がいくつも並ぶテーブルに突っ伏す様子が見えた。その目には涙が浮かんでいるようにも見える。そう言えば母が行っていたような覚えがある。カンナは泣き上戸であるということを。
それにしても真っ昼間から酒を飲んでいてもいいものなのだろうか。オディールはそう思ったが、こどもである自分には分からない大人の事情というものがあるのかもしれない。カンナに関して言えば、先日もひたすら愚痴をこぼしていたりもしたし……。
「エンくん」
「うん」
「帰ろっか……あと見なかったことにしよう」
「賛成賛成、黙っておこう」
幸い向こうはこっちに気がついていないようだし、とオディールは小さく付け加えた。
そして、自分はああいう昼間から酒を飲んで泣き上戸を発揮する大人にはならないように気をつけようと思った。
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