キャラメルの季節

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 「焦げちゃった」 うわっという煙が嫌で、茉莉は目を瞑る。花火のあとような匂いがして、眉をひそめる。鍋の中を覗き込まなくても、失敗したことは明らかだった。 「またやっちゃった」 鍋からスプーンでひとすくいしたそれを、ふうと冷ます。舐めるとそれは、苦いという味では表現しきれないほどの何かに変わっていた。牛乳と、バター、砂糖、それにちょっとの塩。美味しいものだけを集めて混ぜて、火にかけただけなのに、どうしてこんなものができるのだろう。焦がした鍋を水につけながら、橋本茉莉は考えていた。 「ただいま〜」 母の声はキッチンまで届く。スーパーのパートから帰った母は、リビングに入るなり顔を顰めた。切長の目が、顔を顰めたことによってさらに細長くなる。母に似ていると言われることの多い茉莉は、先程自分もこんな顔をしていたのかと思った。 「今日は、焦がした?」 番犬のように鼻をクンクンさせる母を見ながら、私はうなずいた。 「当たり」 「この前はいい感じだったじゃない」 「この前はまだ火入れが甘いと思ったの」 「母さんはあれくらいの方が好きだったけどな」 別にお母さんのために作ってるんじゃない、と軽口を入れてやろうと思ったけど、やめておいた。 「ちょっとメモしてくる」 茉莉は、そう言ってリビングを後にする。 「試験勉強の方もしっかりね」 お母さんから追い討ちの言葉がかけられる。その言葉で、階段を登る足取りが一段と重くなった気がした。  中学生までは「火を使うのは危ないから」という理由で禁止されていたお菓子作りを始めてから、ようやく1年とちょっとが過ぎた。高校生になってから、ほとんど毎週のようにお菓子を作り続けたこともあって、お菓子作りの腕はそれなりになったと茉莉は自負している。最初こそ、パウンドケーキやクッキーといった比較的簡単なものを作っていたのだが、去年のバレンタインにはカヌレという難しめのお菓子にもチャレンジした。そんな茉莉の最近のブームが、キャラメルだった。材料はシンプルだが、火の扱いが格段に難しい。加熱をしすぎると途端に苦くなる。かといって、加熱できていないと、甘ったるいヌガーのようになる。その綱渡りのような、ギリギリのバランスを取ることが、キャラメル作りの醍醐味といえた。コーヒーなどを加えて苦さを出す方法も見つけたけれど、茉莉からすればあれは邪道だった。火を操って、綱を渡ってこそのキャラメルなのだ。茉莉はレシピノートに、今日の反省点を書き込んだ。中火で大体320秒。来週はこれよりもう少しだけ短くしてみよう、と心に決める。いや、テスト期間が始まるから、来週は作れないかも。  テスト、という単語が再び胸の中に浮かんで、茉莉は窓の外を見ずにはいられなくなった。ゴールデンウィークはあれだけ自由にお菓子作りができたのに。昨日と同じような夕焼けが空を覆っている。もうすぐ梅雨になる。気圧が下がると頭痛がひどくなる茉莉にとって、梅雨は文字通り頭痛のタネだった。教科書もノートも開く気になれず、そのまましばらく窓の外をジッと眺めていた。 「ご飯よ」 と母の大きな声が響く。試験勉強はご飯の後にやろう、と心に決めて、茉莉はリビングに降りた。  いつも通りの平和なランチタイムをぶち壊したのは、校内放送だった。お母さんが作ってくれたお弁当は、まだ半分も食べ終わっていなかったのに。 「2年3組の橋本茉莉、2年3組の橋本茉莉、至急、職員室の木下まで来てください」 一瞬にして、クラスメイトの視線が茉莉に集まる。制服を着て同じような格好をしたクラスメイトみんながこちらを見ているのは、いい気分ではない。普段から人目を引くことがあまりない茉莉は、視線のやり場がなくて、目の前の米田理沙を見た。理沙はまんまるな目を、さらにまんまるにしていた。おかっぱの髪を揺らしながら、理沙が尋ねる。 「茉莉、もしかしてテストで何かやらかした?」 「まさか」 茉莉は呼び出しを受ける理由を必死に考えてみたけれど、何も思い浮かばなかった。木下というのは美術の先生で、美術部員の茉莉にとっては顧問であった。 「とりあえず、行った方がよくない?」 と理沙に言われて、茉莉は自分が呼び出されていたのだと思い返した。クラスのみんなは、いつも通りめいめいのお喋りに興じていた。茉莉は理沙に 「ごめん、じゃあ」 と言い残して、教室を後にする。教室の扉を潜ってから、マスクを忘れたことに気がついて引き返す。大陸を起源とする感染症は、日本でも猛威をふるい初めてからすでに数ヶ月が経過していた。今では、不要不急の外出などは控えるようにと生徒全員に通達が出ていた。マスクの着用は、どんな校則よりも拘束力を持っていた。
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