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「これ、貰ってもいいかなって、増田先生が聞いてこいって。一応、人のだから」
「はい、どうぞ」
一瞬目があって、茉莉は思わず下を向いた。3年生の学年カラーの青色の上履きが目に入る。上履きのサイズは、茉莉のそれよりも二回りも大きかった。
「絵、上手いんだな」
「あ、美術部なので。一応」
「一応ってなんだよ」
そう言って、桂先輩は笑った。茉莉は、教室中が自分を見ているような気がした。目の前にいるこの人は、そんなことは全く気にならないのだろう。茉莉の説明を聞きたいわけではなかったのか、
「じゃあ」
と言って、先輩は風のように去っていってしまった。残された私は、少ししてから教室に戻る。クラスのみんなはこちらを見ないようにしていたけれど、チラチラと視線を感じた。
「ホントに桂先輩だ」
机に戻ると、理沙が驚いたような顔で言った。
「だから、そう言ったじゃん」
「うん。それで、なんだって?」
「昨日の絵、貰ってもいいかって」
「そんだけか」
理沙はつまんない、という表情を浮かべた。それ以上のことがあっても、困る。何やら聞きたそうなことがありそうな表情だったけれど、茉莉はこれ以上の追い打ちをかけられたくなかった。そうでなくても、まだ教室の注目を集めているようで気が引ける。
「なぁ、あの人、桂さんだろ?」
隣の席から、野球部の小宮山武雄が話しかけてくる。小宮山は男子にしては背が低かったが、それでも茉莉よりも高かった。目線を上げるのが癪で、制服の第一ボタンあたりに返答する。
「一緒の野球部なんでしょ」
茉莉は少しイライラして、ぶっきらぼうに答えた。
「いや、あの人は硬式で、俺は軟式」
「何が違うの?」
小宮山はなんで知らないのかという表情で答えた。
「作並高校の野球部といえば、全国でも有名だろ。甲子園も行ってるし。あっちが硬式。野球場使ってるのも、当然向こう。そんで、グランドの方で練習してるのが軟式だよ。特進の人はもとより、普通科の人でも硬式野球部の人はいないんじゃないかなぁ。ほとんどがスポーツ推薦だから」
そんな棲み分けがあったとは、知らなかった。ということは、もちろん桂先輩もそうなのだろう。
「だから、硬式の人ってほとんど普通科の校舎で見ないんだよ。珍しいなって」
「そんな天然記念物みたいに言わなくても」
「でも、桂先輩は授業中も素振りしてるって噂だし」
何が「でも」なのかわからないが、理沙と小宮山の話から、とにかく規格外ということだけは伝わった。そういえば昨日も、授業が始まる直前まで、あのおじさん先生の説教を受けていた気がする。
「やっぱプロになるやつは違うわ」
「あ、桂先輩、プロになるんだ?」
横から、理沙が話に加わる。
「だって、そうだろ。3年生でこんだけ騒がれてたら、高校卒業すぐには無理でも、大学出たらプロだよ、きっと」
「きゃー、サイン貰っておかなきゃ」
茉莉はその会話を、どこか上の空で聞いていた。午後の授業が始まってからも、全く集中できずにいた。今、この時も、桂先輩は素振りをしているのだろうか。それは、ある種の呪いのようだとも思った。
教室の開け放たれた窓の外から、ホワッ、ホワッと鳥の鳴き声が聞こえる。周りを山で囲まれているからか、教室にはしょっちゅう虫や動物の鳴き声が届く。窓の外に、鳥が飛んでいくのが見えた。翼が生えて、あの鳥と一緒に遠くに飛んでいきたい、と夢を見るほど、茉莉は子どもではないつもりだった。けれど、大人でもないことは、茉莉自身がよくわかっていた。だからこうやって、授業を受けている。けれど、三角関数や、フランス革命や、ミトコンドリアが自分を大人にしてくれるとは思わなかった。それよりも、今この時、きっと素振りをしてる桂先輩の方が、よっぽど速く、大人になっていくのだろう。目的地ではなく、その速度に、茉莉は焦がれていた。
黒々とした空はギリギリまで持ち堪えてくれていたが、もう少しで自宅というところに来て、土砂降りになった。急いで玄関のドアを開けると、大きな靴が目に入った。その瞬間、茉莉はこの前、職員室で見たあの靴と大きさを比較する。多分、同じくらいだ。スカートもシャツも濡れていたけれど、絞るほどではない。それにしても、今回も早く帰ってきたな。茉莉は恐る恐る、リビングのドアを開ける。
「ただいま」
そこには、にこやかに会話をする父と母の姿があった。ひとまず、修羅場ではない。
「おかえり」
両親が揃って答えた。だが、どこに埋まっているのかわからないのが、地雷だ。踏み抜いたら最後、1週間はお互い機嫌が悪くなるかもしれない。だから、言葉は慎重に選ばなくては。
「雨、ギリギリだった〜。着替えてくる」
そう言って、一時撤退する。多分、今日は大丈夫な日だ。
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