キャラメルの季節

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茉莉の父は、一応、プロゴルファーをやっている。一応、というのは、茉莉にとってプロの基準がよくわかっていないからだった。もちろん、ゴルフだけで食っている人は、プロに違いない。ゴルフのコーチやレッスンで稼いでいる人は、プロじゃない。父は、アルバイトやレッスンをしながら、たまにプロの試合にも出ている。賞金も、正確に幾らかというのは聞いたことがないけれど、少しは貰っているはずだ。ゴルフの大会前は、だから、父はピリピリしている。詳しくは知らないけど、優勝賞金は1年間の生活費を賄えるほどの額らしい。優勝は程遠いにしても、勝ち残れば残るほど、おそらく賞金というのは増えていく。一年に数回というそのタイミングで気が張らないはずがない。そして、大会後は、主に母の機嫌が悪い。もちろん、父の成績が良ければそんなことはない。でも、大抵は不機嫌になっていた。つまり、父はそこまで勝てていないのだ。しかも、例の感染症の影響もあって、今年はゴルフの大会自体がいくつか中止になっている。そういった事情があって、橋本家では、大抵は、父か母のどちらか一方が不機嫌で、その周期が波のように、入れ代わり立ち代わり訪れるのだった。たまにどちらもが不機嫌になった日は、家の温度がいっぺんに下がる。そんな時にお菓子を作っても、うまくいくはずがない。お菓子は正直で、そういった雰囲気を敏感に感じ取って、膨らんだりしぼんだりする。繊細で、フラジャイルなのだ。でも、今日は大丈夫かかもしれない。  気持ちを落ち着けて、階段を降りると、父とすれ違う。鼻歌混じりだったから、やはり機嫌がいいのだろう。でも、やっぱり注意が必要で、機嫌がいいときに 「今回の大会は勝ち進んだの?」 なんて正直に聞こうものなら、どう転ぶかわからない。もしかしたら 「そうなんだよ」 となるかもしれないけれど、下手をしたら 「いや、別に」 と不機嫌な方向に向けて舵が切られるかもしれない。そして最悪の場合、母の 「いつまでもそんな玉転がししてないで…」 という嵐が巻き起こるのだ。だから、機嫌がいいならそれでいい。茉莉にとって重要なのは、父の上機嫌の原因を知ることではなく、家全体の雰囲気がいいことだった。これなら、究極の塩キャラメルができるかもしれない。キャラメル作りは簡単な材料でできるので、茉莉のお菓子作りのペースはどんどんと上がっていた。  鍋は、厚みのあるものがキャラメル作りには向いている。薄いものだと、熱がダイレクトに伝わってしまうので、火がはいる部分とそうでない部分ができてしまう。焦げは、火が入ったところから、細菌感染のように、伝播する。厚手の鍋だと、熱が均一に、ゆっくり入るので、焦げにくい。ただ、一度熱を持ってしまうと冷めにくいので、一回焦げるポイントに達して仕舞えば、全部ダメになってしまう。だから、結局は綱渡りには違いなかった。砂糖、牛乳、バターの量は、作りすぎて、もう覚えてしまった。測って混ぜて、熱する。これだけの工程なのに、素材からスイーツへと全く別物に変化する様子に、茉莉は毎度感心してしまう。  茉莉と鍋との間には、父や母には入ってこれない世界ができている。だから、お菓子作りは好きだった。その世界に、急に桂先輩が顔を覗かせる。もしかしたら、肌の色が同じくらいのブラウンだったかもしれない。そんなことを思い出して、一瞬だけ、心が離れた。元に戻り、慌てて日から離すと、キャラメルはまだ焦げてはいなかった。  お父さんもお母さんも、昔はこんなに険悪な雰囲気ではなかった、と茉莉は記憶していた。3人でお祭りに行ったり、キャンプに行ったりしたこともあった。けれど今は、しょっちゅう喧嘩ばかりだ。だから茉莉は早くこの家を出たかった。大学生になったら一人暮らしをしたいと茉莉は考えていた。そしたら、お菓子道具をいっぱい買って、毎日お菓子を作って、絵を描いて。そうした妄想に浸ることは、とても心が安らいだ。  6月になり、雨の日が増えた。東京の梅雨はいいことといえば紫陽花が綺麗に咲くくらいで、色々と割りに合わない、と茉莉は考えていた。昔、おばあちゃんが 「良い天気、悪い天気なんていうものはない」 と言っていた。それはわかっているけれど、だからといってはい、そうですかと割り切ることはできなかった。雨の日は、相変わらず憂鬱で、学校に向かう足取りも重くなる。山の上にあるから、尚更だ。一旦学校に着いてしまえば、教室からの眺めは良かった。遠くの山には靄が掛かって、まるで水墨画のように濃淡を作っている。一番遠くの方は全く見えなくなってしまっていて、世界がどこまでも遠くに広がっていくように思えた。そうだ、次の絵は水墨画にチャレンジしてみよう。茉莉は授業中に、そんなことを思った。
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