キャラメルの季節

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 作並高校の美術部は基本的には自由参加で、月曜日だけ定例ミーティングがあった。茉莉は基本的には月水金で参加をしていた。今日は早く帰ってもいいことはないし、もしかしたら学校で時間を持て余している間に雨も小降りになるかもしれない。そう思って、放課後、茉莉は美術室に向かった。  美術室は山の斜面沿いの一番低いところに位置している。屋根のある廊下を通っていくと、茉莉の教室からはかなりの距離があった。途中の階段を降りた場所で、野球部の生徒が3人ほど、素振りをしているのが見えた。美術室の周りは屋根付きの広場のようなスペースがあって、雨を凌ぐことができる。前に桂先輩を見たのも、この場所からだった。そして、その日も雨が降っていたことを思い出す。  遠くからだと判別がつかなかったが、よく見てみると硬式野球部だとわかる。まず第一に、普通の高校生とは体格が全然違う。まるでラグビー選手のような体つきで、棒切れのようなバットをビュンビュン振り回している。おそらく、雨のないところでできるトレーニングに勤しんでいるのだろう。ふと目をやった先に、桂先輩がいた。相変わらず、バットは綺麗な軌跡を描いていた。職員室で先生は何やら文句をつけていたようだったが、茉莉には桂先輩のスイングは完璧なのではないかと思えた。雨の音を切り裂くような、そんな素振りだった。そう、あの日もこんな感じで、素振りをしていたのだった。  目線が合ったかな、と思うことが2度あって、それから彼はずっと集中して様子でバットを振るっていた。1日に五千本の素振りというのは、あながち冗談ではないかもしれない。手はラフスケッチに取り掛かりながらも、茉莉の頭の中でそう思っていた。自分はそれほどまでに熱中するものがこの先の人生で見つかるとは到底思えない。でも、だからと言ってクロッキーやお菓子作りを限界までやり抜こうとは、茉莉には到底思えなかった。  不意に、今度はテスト用紙の余白のような場所ではなく、カンバスに先輩の絵を描いてもいいかもしれない、と茉莉は思った。おもむろにカバンからクロッキー帳を取り出す。クロッキー帳には、桜やクッキー、道で会った野良猫など、目に留まったいろんなものを描き貯めていた。広場へ降りる階段の手すりにもたれかかる。少し丸い鉛筆で、適当にアタリをつける。線を重ねて、輪郭を抽出していく。昔の木彫り職人の言葉によれば、木の中に宿っているものの形を掘り出すことが、彼らの仕事だという。先輩をスケッチすることは、それに似ていると茉莉は思った。正解はそこにあって、自分の仕事は、その本来の形のままに、筆を滑らせるだけだ。何十、何百回も、同じ軌跡が繰り返される。雨音と、ふうん、というバットが風を切る音と、シャッシャッと鉛筆が紙の上を走る音が、世界のすべてになる。  「橋本茉莉」 と声をかけられるまで、茉莉は目の前に桂先輩がいることに気が付かなかった。いきなり声をかけられたものだから、すっかり仰天してしまって、鉛筆をピタッと止めてしまった。先程まで素振りをしていたはずの場所を見ると、もう誰もいなかった。恐る恐るスケッチブックから目を離すと、先輩が目の前にいた。 「ごめんなさい、別に盗み見をするつもりはなかったんです。でも、あの」 桂先輩は少しキョトンとした後、大きな声で笑った。 「あはは。いや、怒ってるんじゃなくて。確かに、隠し撮りとかはダメだけどさ。絵なら全然構わないよ」 先輩は続けて言った。 「それに、一度お世話になってるからね」 段差の下側に先輩がいるので、茉莉の方が目線が高くなり、見下ろす格好になっている。一瞬の間があって、茉莉は気がついたことを口にした。 「覚えてるんですか、私の名前」 緊張で、語順が変だなと茉莉は思った。それを隠すかのように、言葉を続ける。 「そういえば、教室の時も。ほとんど名前聞いたことないのに」 「覚えやすいからな。橋本茉莉って」 桂先輩はニヤッと笑った。 「練習はいいんですか。もうみんな行っちゃったみたいですけど」 「いいんだ。遅れても、何も言われないよ」 「そうですか」 「こんなところで、何してるの?」 そう聞かれて、茉莉は反射的にクロッキー帳を手で覆い隠した。 「あ、美術室に行こうと思って、それで、絵を描いてました」 茉莉は、また自分が変なことを言っているような気がした。顔が熱くなる。でも、先輩は 「そっか」 と言って納得したようだった。 「先輩は、野球の練習ですか?」 「そう。甲子園に向けて、できることは全部してる」 茉莉から目を離し、遠くを見つめるようにしてそう言った。 「おーい」 どうやら野球部の部員が探しに来てたらしく、先輩は 「じゃあ」
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