キャラメルの季節

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と言って去っていってしまった。茉莉は美術室に入る気にはならず、その場でスケッチを再開した。でも、先輩がいなくなってしまった途端に線の不完全さが滲み出てしまった気がして、辞めた。雨は少し小ぶりになってはきたもののいまだに降り続いている。茉莉はやるせなさにため息をついた。  それから雨の日は、茉莉は決まって部活に顔を出すようになった。茉莉が美術室に行くうちの、半分くらいの確率で桂先輩は素振りをしに来ているようで、軽い挨拶や会話をするようになっていった。先輩はどうやら、オフの日に軽く汗を流しに素振りをしにきているようだった。 「オフって、休日ですよね。休日ならしっかり休んだ方がいいんじゃないですか?」 茉莉がそう聞くと、 「いや、アクティブレストって言って、軽く体を動かした方が逆に体にとっていいんだよ。だから、いつもは軽くランニングとかしてるんだけど」 と先輩は笑って答えた。休む時まで真剣に休んでいるのだと、茉莉は感心してしまった。茉莉の絵はというと、全く進展がなかった。クロッキー帳にはバッティングフォームがパラパラ漫画のように並んでいたり、単純化されたり、立体に置き換わったりした先輩が数枚にわたって描かれていたが、ピンと来るものは全く描けなかった。先輩には、何度も 「なぁ、見せてよ」 と言われたけど、茉莉は恥ずかしかったので、毎回 「完成したら見せます」 と言っていた。  その日は小雨で、先輩がいつもの場所に来るかどうかは微妙だなと茉莉は思っていた。放課後、美術室に向かう途中、フォン、という風切り音が聞こえた時には、自然とテンションが上がってしまう。 「早いんですね」 「スポーツ科は4限で終わりだから。特進クラスは6限までだっけ?」 「そうです。火曜日は7限まであるんですよ」 「うげー、マジか。俺、勉強は苦手」 茉莉の目には、今日の先輩はわざとらしく元気に振る舞っているように映った。いつもは挨拶をして、すぐに素振りを再開するのに、今は柔軟を始めた。 「最近、調子はどう?」 茉莉はそう聞かれて、どう返せばいいのかわからなかった。 「雨の日が、多いですね」 「雨の日は嫌い?」 「好きでも嫌いでもないです」 正直、先輩に会えることが増えてから、少しだけ雨の日が嫌ではなくなった。少なくとも、朝、雨が窓を叩いても、ため息をつくことはない。それどころか、ちょっとだけ嬉しいような気持ちになる。 「先輩は、どうですか?」 「いつもの練習ができなくなるのが嫌かな。雨の日だと筋トレとかがメインになっちゃうし」 2人で、雲の垂れ込める空を眺めた。しばし訪れた沈黙を破ったのは、桂先輩だった。 「最近さ、打率が下がってきてて。先生が心配してくれんの。だから、この前みたいにバッティングフォームのここが変だ、とか色々指導してくれてるのよ」 「そうなんですね」 「スランプってほどでもないんだけど。去年よりは急に打てなくなっちゃったんだ。打率が下がるのって、野球選手にとって、キツいのね」 野球のことはほとんどわからない茉莉だったが、なんとなく、わかる、と思った。茉莉も、いいものを描いている自信のある時は、自ずと体の調子が良い。先輩は雨に向かって語るように、続けた。 「でも今は、これでいいんだと思う。身長も体重も増えたし、今のままじゃプロではやっていけないのはわかってる。だから、もう1段階、成長していかなきゃならないんだと思う。バットに当てるだけじゃダメなんだ。全弾、フルスングでバットに当てられるようにならなきゃ。今は、その、サナギ、みたいな。だから今は、必死にバットを振る時期なんだ」 そう言い切って、先輩はこちらを見た。 「ごめんな、急にこんな話。誰かに聞いて欲しかったのかも」 「先輩は、プロになるんですか?」 茉莉は聞かずにはいられなかった。 「うん、なるよ」 その声は力強い。 「今度の甲子園大会、いろんなところからスカウトの人がきてくれるハズだから。そういう人の目に留まって、ドラフトに指名されたい。もちろん、厳しいのはわかってるけれど」 先輩は、いつになく真剣な顔をしていた。 「プロになって活躍することが、いろんな人への恩返しになると思ってる。自分がこんなに好きなことができているのは、親とか、コーチとかのおかげで、自分はたぶん、野球以外、何もできない。だから、なる」 自分との約束のように、先輩は最後の言葉を口にした。プロになると。 「橋本茉莉は、何になるんだ?」 「私ですか?」 その問いに、茉莉は答えることができなかった。自分は何かになれるのだろうか。いや、それ以前に、なりたいものなんてあるのだろうか。桂先輩は、茉莉を真っ直ぐに見つめている。 「わかりません」
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