キャラメルの季節

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沈黙が怖くなって、茉莉は答えた。それが茉莉の本音だった。絵を描くとか、お菓子を作るとか、ミステリー小説を読むとか。好きなことはたくさんある。けれど、自分が何かになる、ということが茉莉には想像できなかった。再び、2人の間には沈黙が訪れた。雨の音が強くなる。  ひと学年の違いとか、30cm ちょっと差の身長とか、手を伸ばせば触れられそうな距離とか、そういう目にみえる違いや距離よりももっと大きな何かが、茉莉と先輩との間にはあった。今、誰よりもそばにいるように見えるこの人とは、決定的に違う。もしかしたらこの雨も、全く違って見えるのかもしれない。茉莉は先輩と話ができて、嬉しかった。でも、後になって寂しさの方が募った。  それでも朝、雨が降っていたら、茉莉の心は弾んだ。この数日間、雨はまるで止みかたを忘れてしまったかのように降り続いていた。だがこの1週間、毎日美術室に通い詰めたものの、桂先輩の姿を見かけることはなかった。でも、見つけられたとしても、おそらくは、声をかけることはできなかっただろう。この前の問いの答えを、茉莉は見つけることができずにいた。自分は何になるのだろう。桂先輩と会えないことのほかに、茉莉を悩ませるものがあった。それは、クラスメイトのことだった。  どこかで誰かが、祭りと桂先輩が話しているのを見て、いろんな噂が立っているようだった。おそらく、少し前からそういう話があったのかもしれないが、噂話に疎い茉莉がそれに気がついたのは、なんとなくの雰囲気からだった。茉莉が最もショックを受けたのが、理沙との間にも溝ができてしまったことだった。理由はちょっと複雑だけど、一番はお菓子の話を桂先輩としたことだと、理沙は思っている。  茉莉は理沙に、桂先輩が美術館前で素振りをしていることを話した。何を話しているか聞かれたとき、お菓子の話題になった、とも。その言葉を口にした瞬間、茉莉は理沙の表情をみて、しまったと思った。別に、茉莉がお菓子作りをしているとは、茉莉と理沙の間だけの秘密にすると約束したわけではなかった。けれど、実際に知っているのは理沙だけだったし、何よりその話題をした後の理沙の表情が忘れられない。え、という表情で、ほんの少し、瞳が大きくなった。それから、あまりうまく行っていない、気がする。全く口をきかないわけではない。高校生の友人関係とは、ゼロかイチかの単純な話ではないのだ。けれど、少し古くなった水道の蛇口のような、確かに嫌な引っ掛かりを感じる。 「志望校でも決めたのかよ」 代わりに、軟式野球部の小宮山が話かけてくることが増えた。 「なんで」 イライラしながら、茉莉は答える。全部、雨のせいだ。 「だって、この前から必死に勉強してるじゃん。もしかして、中間テストの点数が悪かったとか?」 「あんたとは関係ないでしょ」 「ひっでぇ」 小宮山は笑う。茉莉も流石に酷い返答だと思った。でも、どうしようもない。作並高校は進学校で、大学の進学成績もそこそこに良い。しかも、一応大学の附属高校だから、そのままストレートに進学することができる。だからこそ、高校で積極的に問題を起こそうという輩はいなかった。だからこそ、やり口も巧妙になる。それは単に噂話をするだけだったり、少し距離を置いたり。もともと友達が少ない茉莉の周りから、さらに人が遠ざかっていった。  茉莉はここぞとばかりに勉強を始めた。ほかにすることがなかったから、というのもあったけれど、何かになるためには勉強をするしかない、と思ったことも大きかった。作並高校では入学当初から受験を意識するのは割と普通で、2年生の6月に受験をスタートするのは、むしろ遅いともいえた。授業の進度もそれなりで、今の化学の範囲はおそらく、他の学校では2年生の後半の範囲のはずだ。感染症の影響で授業が多少遅れてはいるものの、かなり進んでいた。 「いいか、今やっている酸化・還元反応は大学入試では必須の事項だからな」 茉莉のクラス担任で化学が専門の森内先生の、大きな声が教室に響く。集中している生徒は半分で、後の半分は眠気と戦っているようだった。化学の授業は、お菓子作りとつながっていて面白い、と茉莉は思う。お菓子は化学反応のオンパレードで、数学や物理なんかよりもよっぽど役に立っている。 「先生」 授業終わりに、茉莉は森内先生のところに質問に行った。先生は、嬉しそうな表情を浮かべた。 「おー、橋本か。ようやくやる気になったみたいで、先生は嬉しいぞ」 教室で1人になるのが嫌で質問をしたのだけれど、先生が嬉しそうなので否定はしないでおく。 「酸化と、焦げの違いはなんなんですか?」 「お、いい質問だな。今日の授業の内容だけど、酸化っていうのは、要するに物質と酸素が結びつくことだな」
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