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先生は普段はかなりおちゃらけてはいるが、授業になると言葉に熱が入る。見るからに、化学が好きなのだということがわかる。
「酸化にも、いろいろあって、日常生活でよくみるのは、燃焼だな。いわゆる、燃えるってやつだ。あとは、金属が錆びるのなんかも、実はゆっくりとした酸化なんだ。実際には意識されていないけど、10円玉なんかも、常に酸化し続けている」
先生は、チョークで酸化、と黒板に書いた。
「もっと詳しく説明すると、ある物質が水素を失う反応と定義されるんだけれど、まぁ、今のところは酸素と結びつく、という理解でいい。それに対して、焦げというのは炭化だな」
黒板の酸化という文字の隣に、今度は炭化、と書いた。
「炭化というのは、高温で物質を加熱することで水分などが失われて、化合物などが化学変化をすることで起きる。料理の焦げとか、薪を炭にしたりするときに見られる現象だな」
「たとえば、料理はなぜ酸化しないで、炭化、つまり焦げるんですか?」
「その場合は、酸素が足りないことが一番の原因だな。たとえば、フライパンで焦げるのはどこかといえば?」
茉莉は少し考えて答えた。
「フライパンの底?」
「そう。酸素がなく、もっとも高温になるのが鍋底。だから、熱によって焦げるんだな。このように、熱によってタンパク質が変化することを、変性ともいう」
先生の話が長くなりそうになったところで、予鈴が鳴った。
「おっと、もうこんな時間か。もしまだ質問があれば、職員室に来てくれ〜」
そう言って先生は教室を後にする。
教室は、相変わらず微妙な雰囲気が漂っていた。嫌に空気が薄く感じる。そう考えて、茉莉は自分が焦げているのではないかと考えてみた。みんなは、息を吸っているのだから、酸化か。先ほどの先生の話を受けて、茉莉はそう考えてみた。多分、クラスのみんなはゆっくりと酸化しているのだ。だから、息をするごとに錆びている。次に、桂先輩を思い浮かべた。あの人は、きっと燃えているんだな、と納得した。ものすごいエネルギーを持っていて、周りの酸素をどんどんと取り込んで、燃え上がっている。眩しい光と熱量を発しながら。では自分はと考えて、もしかしたらやっぱり焦げているのかもしれないと思った。酸素がなくて、でも何かもどかしさがあって、息ができない。なんだか最近は気分も黒くて重い。焦げているイメージをして手の甲を見つめてみたら、自分の手は日焼けしておらず真っ白だった。
こんな気分の日だというのに、家に帰るとお父さんとお母さんがいつもの喧嘩をしていた。こんなことなら、美術室に行っておけばよかったと茉莉は公開した。今度の喧嘩は、ゴルフの大会に前泊をするとかしないとか、そんなようなものらしかった。喧嘩をしている時のお父さんは、いつもよりずっと小さく見える。お母さんには頭があがらないのだろう。一応のただいまを言い、逃げるように自分の部屋に籠る。そうしてそのまま、のめり込むように勉強をした。勉強をして何かが変わるとは思えなかったけれど、勉強以外にした方が良さそうなことなんて、今の茉莉には思いつきもしなかった。
その日はとても暑い日だった。あんなに晴れていた午前中とはうってかわって午後から雨が降り、茉莉は先輩の姿を探した。夏になったら、雨が降らなくなったら、先輩には会えなくなるかもしれないということに今更ながらに気がついたからだ。体育会系の部活は夏が近づくにつれ、活気付いていく。野球部も例外ではなく、甲子園という大舞台に向けて、着実に高まりを見せていた。作並高校に至っては、甲子園出場というのは夢物語でもなんでもなく、3年に一度くらいで成し遂げられており、現実的な目標になり得るのだった。
茉莉は、久しぶりに桂先輩を見つけた。前に会った時からそんなに時間は経ってないはずなのに、先輩の体は一回り大きくなっているような気がした。桂先輩は成長をしているけれど、自分は対して変わっていないのではないか、という気持ちになってしまう。
「あれ、久しぶり。元気?」
「はい。先輩も元気そうで」
茉莉と桂先輩は、互いによく挨拶をする仲になっていたが、実際には先輩が素振りをするところを、茉莉がただ見ているだけだった。だから、噂になっているようなことは何もない。けれど、それを必死に主張しようとしても無駄に終わるだけだということは容易に想像がついた。もちろん、茉莉としては桂先輩ともっとおしゃべりをしたかった。声を聞きたかったし、お菓子作りのこととか、最近クラスでうまく行っていないこととか、色々な話を聞いて欲しかった。けれど、無駄に口を聞いてしまえば、練習の邪魔になる。茉莉は、それだけはできなかった。それに、茉莉も絵を描いていることになっているので、黙って2人で黙々と作業をするだけだった。
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