タケル 1

3/9
17人が本棚に入れています
本棚に追加
/54ページ
 火附盗賊改は両町奉行所のように役所を構えず、その時々の長官の屋敷が役所として使用される。理由は、その職があくまでも先手組の加役扱いだからだ。  そのため、庄三とタケルは庭の手入れをする振りで、市ヶ谷にある久我家の屋敷の門をくぐった。タケルは小振りの梯子を抱えている。  潜り戸を抜けるとすぐ右手に見張り番屋があるが、庄三は顔見知りなので誰何されず、会釈して通った。後に続くタケルのことはぎょろっとした目でじろじろ見られたものの、庄三の手前、それだけで許された。いやな目つきだったが、今後のこともあるので飲み込むことにする。  母屋の玄関前を素通りし、建物の外周を奥へと回り込むと、開け放された表座敷には数名の与力同心が居て、忙しそうに筆を動かし書類仕事を行っていた。物珍しくてついそちらに目をやれば、室内の役人と目が合った。 「なんだ」  その居丈高な態度に半ばむっとしながらも頭を下げ、先を行く庄三の背を追った。  更に奥へ進めば、居室と思われる座敷の縁側に一人の男が佇んでいた。  背が高く、すらりとした出で立ちの、身なりの良い男だった。  これがあの、と思った瞬間、言いようのない感情が溢れ、がたがたと震えだした。心臓が口から出るのではないかと思うほどに動悸が治まらない。誰にも知られたくなくて、咄嗟にタケルはその足下に膝を突いて平伏した。 「そんなに畏まることはねえよ。楽にしな」  聞き取りやすい声の高さに伝法な話し方。  夢にまで出たことのある憎い相手が、目の前で生きて喋っている。  自分は地面に伏せているが、座敷の縁側には久我が立っている。姿形もまるで知らない、雲の上の人物がここにいる。どうにかこの距離まで詰めることが出来たのだ。  おかしな態度だと自分でも分かっているが顔を上げられない。 「悪かったな、呼び出して。庄三が弟子を取ったって聞いたもんだから気になっていたんだが、そうこうしてるうちにお前の働きぶりにこっちも助けられた。それで会わせてくれってお願いしていたんだよ」  庄三がそばに控えて、タケルの背に手をやった。 「恐れ入ります。殿様、こいつが弟子のタケルです。どうぞお見知りおきを」 「一度目は捕り方の網を振り切って逃走した下手人を、韋駄天の如き走りで追いかけて、見事に追いつき押さえ込んだ。二度目は前から目星をつけていた輩が全然しっぽを出しやがらねえで諦めかけていた頃に、お前がしつこく跡を付けてとうとう御家人屋敷に入ったと庄三に知らせてくれたからお縄に出来た。どっちもお手柄だ。礼を言う」  内容など何も頭に入って来なかったが、久我の声を聞いているうちに、だんだんと気持ちが落ち着いてきた。何故自分は怖じ気づいているのだろう。  タケルは自らを鼓舞するようにぎゅっと拳を握り、そろそろと顔を上げた。  それを待っていたのか、久我はその場に腰を落としてタケルの顔を覗き込む。そして二人の目が合った。  こういう顔をしていたのか、とタケルは久我をまっすぐに見据える。年の頃は四十代、心身共に壮健、異彩を放っているのは淡い茶色の瞳だ。  久我もおなじような、好奇心に満ちた視線を向けてきた。  どちらも視線を逸らさない。  又五郎を掴まえて亡き者にした男に負けたくなくて悔しくて、タケルはただ相手を睨み付けた。 「タケルと言います」  久我はタケルの強い視線を受け止め続けた。訝しむ色を浮かべたのは一瞬で、すぐに穏やかな表情に戻る。そして次の瞬間、あからさまににやりと笑った。  侮られたと感じたタケルの頬には朱が立ち上り、それを隠すように再び平身低頭した。目を逸らしたのは自分の方が先だったと、後になって敗北感に打ちひしがれた。
/54ページ

最初のコメントを投稿しよう!