18人が本棚に入れています
本棚に追加
/54ページ
その日の夜半、タケルはもう一度久我の屋敷を訪れた。
夕方、庄三とともに招かれ初めての対面を果たし、褒美を押し頂いての帰り際、夜中に一人で来るようにと配下の同心に耳打ちをされたのだった。
挨拶は済んでいるし、どうして夜中に一人でなのか分からず庄三に相談をしたかったが、その同心から誰にも話すなと強く止められた。
そこでやむなく一旦帰途に就いた振りをして時を待ち、こうして闇の中をひた走っている、というわけだった。
空には針のように細い月が尖り、雲の向こうに霞んで見えている。
町の木戸はとうに閉まり、どの家も火を落とし、誰もが寝静まっていた。リィリィという虫の音だけが静かに響いている。
夜陰に紛れ馳せ参じたタケルは、久我の屋敷の奧へと滑り込んだ。昼間は庭先までだったが、このときばかりは奥座敷へ忍び込み、久我のそばに膝を突く。
今宵、このような常ならざる時刻に庄三を介さず、面通ししたばかりの自分が直接呼び出されたのは、何か秘密裏に動かなくてはならない事態でも起きたのだろうと覚悟して来た。それなのに。
(嘘だろ……)
タケルは呆れ、かろうじてため息を飲み込んだ。
あろうことか、横たわったまま久我は動かない。呼び出しておきながら寝入ってしまうなどということがあるだろうか。
しかも、かなりの剣の使い手と聞いているこの男が、タケルの気配を察知せず眠りこけているということ自体正直考えにくかった。
(このまま引き上げるのもな)
起きる気配のない男の傍らで、タケルはしばし逡巡する。
戸惑いながらも余程の大事かと勇んで来たけれど、居眠りするくらいならそれほどのこともないのかもしれない。尤もそうであってもなくても、自分が去った後にふと目を覚まし、呼んだのに来なかったと誤解されることは避けたかった。昼間のにらみ合いも先にタケルの方が目を逸らしてしまったし、続けて負けるわけにはいかない。
先程から何度か腰を浮かしかけては、もう気づくのでは、とかろうじて思いとどまるのを繰り返している。やはりここは来た証を何か残して一旦出直すのが得策と、漸く踏ん切りをつけた。
(いや、待てよ)
このとき、ほんの一瞬、今や千載一遇の好機ではないか、との考えが頭をかすめた。
元々の自分の計画では、事を起こすのはまだまだ先のこと。もっと久我の信を得るようになってからの話だった。
今はまだ、タケル自身のことを、庄三の弟子と認識されたばかりだ。いわば最初の一歩を踏み出したところであり、いかにも時期尚早だった。
最初のコメントを投稿しよう!