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第九章
「お兄ちゃん、帰ろう!」
私はドアに向かって歩き出した。
「ちょっと待って」
ドアの取っ手に手を掛けた私を、早乙女カイリが呼び止めた。
「何?」
「今日は来てくれたのにごめんね。彼女の機嫌が悪くて」
どういうわけか、彼は謝り出した。社交辞令のつもりなんだろう。
「別に」
「せっかく来てくれたんだから、もうちょっとゆっくりしていってよ」
「は⁉」
私は顔をしかめた。
見ると、六花も顔をしかめている。
「ねえ、カイリさん。私、もう清花ちゃんと同じ空間にいたくないんだけど」
不機嫌に頬を膨らませる六花に、早乙女カイリは軽く笑った。
「まあまあ、そう言わないで。成瀬さんはお客様なんだから」
さっきまでは私に帰れと言っていたのに、急にまだとどまるように言い出した。
おかしいと思ったけれど、何度も勧められたため、私はもう少し残ることにした。
ソファのお兄ちゃんの隣に座る。
「ここは僕のコレクションルームなんだ。世界中の珍しいもの、不思議なもの、貴重なものを置いてあるんだ。そして、人形もね」
今まで六花のことで頭がいっぱいで気づかなかった。
この部屋にはいろいろな目を引くものであふれている。
古い革表紙の本はに、羅針盤、黄ばんだ地図、見たこともない形をした地球儀。大航海時代や海賊を思わせ、冒険の予感にわくわくする。
アンティークの家具、カーニバルの仮面からは、貴族の華々しい香りがする。
そのほかにも、蒸気船の模型、割れて中の宝石がむき出しになった石、ととりとめのないものが部屋のあちこちに散らばっている。
首飾り事件の元凶となったものとそっくりな首飾りを見たときには、固まってしまった。
人形も置いてあった。
でも、数が少ないから、お気に入りのものしか置いていないみたい。
ジュモーにブリュ、A・マルクと名立たる工房のビスクドールのほかに、球体関節人形にチャイナドール、市松人形から雛人形と世界中の人形がある。
この部屋の中に六花がずっといたと思うと、吐き気がする。
ほんと、悪趣味な部屋。
「君にコレクションの中でもとっておきのものを紹介するよ」
そう言って、早乙女カイリは部屋の中をまわり、いくつかの箱を私たちの前のテーブルに持ってきた。
彼は手袋をはめて、箱を開けた。
「まずはこれ、浦島太郎の玉手箱」
箱の中には、琳派の芸術家が作ったような道具箱が入っていた。金の蒔絵や螺鈿が施されている。
「これは、浦島太郎が実際に竜宮城から持ち帰ったと言われている箱なんだ」
早乙女カイリは楽しそうに語る。
浦島太郎なんておとぎ話。
なんだかうさんくさい。
「これ、本物なの? 浦島太郎っておとぎ話じゃん」
「もちろん本物だよ。でも、たとえもし本物じゃなかったとしても、この箱には高い芸術的価値がある」
早乙女カイリはそう言ってのけ、次の箱に移った。
私の心はまだ疑いが晴れない。
次の箱には、金細工できらびやかに装飾された丸いオルゴールが入っている。
「これは、ホフマン・オルゴールっていうんだ。このオルゴールには、幻想を現実にする力があるんだ。その幻想は、その人の願いだったり、恐れているものだったりする」
ただのオルゴールにしか見えない。
なんだかこれもうさんくさい。
「僕の言ってること、信じてないでしょ?」
そんな私に早乙女カイリが言った。
「そうに決まってるじゃない」
「いいよ。それなら、ここにあるものはすべて本物だっていう証拠を見せるから」
早乙女カイリは立ち上がって、また新しい箱を持ってきた。
ふたを開けると、中には布の上に爪くらいの大きさのキラキラしたものが散らばっていた。この世のものとは思えないくらいきれい。
「人魚の鱗。本物だよ」
これもなんだかいかがわしいなあと思っていると、お兄ちゃんが早乙女カイリに尋ねた。
「手を触れてもいいかい?」
「どうぞ」
お兄ちゃんは、しずく型のかけらをつまむ。目の前に持ってきて、いろいろな角度からそれを眺めた。
「宝石でもないし、ガラスでもないし、加工された物質でもないね。それに、この虹色のきらめき。こんな素材は今まで見たことがない」
「本物ってこと?」
私が尋ねると、お兄ちゃんは、うーんと返事を濁した。
「わからないなあ」
ところで、と早乙女カイリは話を始めた。
「人魚の鱗は、昔は仙薬として飲まれていたんだよ。どう? 試してみない?」
早乙女カイリが私に箱を近づけた。
飲んでみれば、わかるのかもしれない。
でも、こんな妖しいものを口に入れたくなかった。何が起こるかわからない。
そう考えている時点で、本物だと認めているようなものだった。
まあ、死んだ六花が蘇ったんだもの。ありえないことはこの世にない。
しかたなく首を横に振る私を見て、早乙女カイリは満足そうに笑った。
「最後が、最も危険かつ最も神秘的な品。ゴーチェの剣」
箱の中には金装飾の見事な短剣があった。柄には女の人が彫られている。
「この剣は呪われていてね、触れた人を死に至らしめるんだ。歴史にもたびたび登場している。たとえば、コンラートとかトーマス卿とか」
歴史上の自殺した人物の名前を挙げながら、早乙女カイリは短剣を鞘から抜いた。
銀の刃のラインはなめらかで、先は鋭い。刃が妖しく光る。
「これに触れた人は本当に死ぬの?」
私の問いに、早乙女カイリは力強くうなずいた。
「ああ、絶対に」
「じゃあ、今剣を持っているあんたは死んじゃうんじゃないの?」
「それは大丈夫。手袋をしていて直接触れていないから」
早乙女カイリは、手袋をはめた手をひらひらとさせた。
たしかに、この短剣からはなんだか並々ならぬ力を感じる。
人を必ず死に至らしめるというのは、本当みたいだ。
早乙女カイリは刃を鞘にしまった。
「ゴーチェの剣は本当に危ないんだ。もう箱に戻すね」
そう言って、早乙女カイリが箱の中に短剣を置こうとしたときだった。
彼は手を滑らせ、短剣が手を離れて、六花のむきだしの手の上に落ちた。
「!」
部屋の中にいる全員の顔から血の気が失せる。
当の本人の六花は、ただ目を大きく見開いていた。
けれど次の瞬間、六花の瞳から光が消え、催眠術をかけられたかのように目が虚ろになった。
六花は落ちてきた短剣をつかみ、鞘から抜く。
妖しい光を放つ刀身が現れる。
六花は両手で柄を握り、自分の心臓へ一突き、そしてぐったりとした。
呪われた短剣は本当に、人を死に至らしめた。
「六花!」
私はすぐさま六花のもとへ駆け寄る。
血は流れていないけど、六花の胸には短剣が深く刺さっていた。
「六花! 六花、六花!」
私は、冷たくなっていく人工の身体を揺する。
「六花、目を覚ましてよ!」
何度も呼びかけても、六花はぴたりとも動かない。
私は早乙女カイリをキッとにらみつけた。
これまでこんなに怒りをあらわにしたことはない。
「あんた、わざとやったでしょ! わざと六花に短剣を触れさせたでしょ!」
知っているんだから。
あんたがわざとらしく手を滑らせたところを私はちゃんと見ていた。
完璧で隙のない早乙女カイリが、誤って危険な短剣を手から滑らせる、なんてことをするわけがない。
「はは、バレた?」
その顔を見てゾッとした。
早乙女カイリは王子様みたいな人だ。彼の笑顔は、いつも明るくさわやか。
そんな彼が、見たこともないような歪んだ笑みを浮かべていた。
「気に入らないんだよね」
彼は笑いながら言う。
「この家に彼女を迎えたとき、彼女はずっと沈んでいた。泣いたりとかはしなかったけど。ずっと君のことを考えていたよ。僕はそれでもよかった。時間をかけて、いつか必ず振り向かせてみせると思ったから」
彼は立ち上がって、私や六花が座るソファの周りを回り始めた。
「君に会いたくないって言ったときにはうれしかったなあ。やっと僕に心を向ける気になったのかと思ったから。でも」
彼は立ち止まる。
「今日の君たちを見てわかったよ。彼女はこれっぽっちも僕に心を向けていなかったってことを。彼女は今でも君のことを思っていた。君たちはお互いのことを見て、お互いのことを思っているんだ」
彼はまた歩き出した。
「僕はね、今までほしいものはすべて手に入れてきたんだ。手に入らないものはなかった。けど、彼女は絶対に手に入らない。決して。まだそれほど時間をかけてないけど、わかるんだよ。それが、気に入らない」
彼は苦々しくつぶやいた。
「だから、彼女にゴーチェの剣を触れさせたんだ。そうすれば、彼女は誰のものにもならない。僕のものにも、君のものにもね」
そう言って、彼はニヤリと笑った。
こいつ、おかしい。
でも、こんなやつにかまっている場合じゃない。
私は六花の腕に触れた。
腕は冷たく、ただの磁器になっていた。
胸に刺さった短剣が痛々しい。
私はハンカチで柄を包み、身体からそっと剣を抜いた。
涙をこぼさずにはいられなかった。
六花は身体が人形だから、痛みも苦しみも感じない。
それでも、心が痛くて苦しくなかったはずがない。
それを思うと、私の心まで痛くなってきた。
こんなにあっけなく六花が死んでいいわけない。
私は六花の身体を揺り動かした。
「六花、戻ってきて! 戻ってきてよ!」
だらりと垂れた四肢は、力なく揺れるばかり。
「やっと六花から離れるって決心したのに!」
声をかけても、六花は言葉を返してくれない。
「死なないでよ! いなくならないでよ!」
私は六花を固く抱きしめた。
「六花! 戻ってきて!」
涙が六花の肩に落ち、肩を濡らした。
雨は肩にも、私の心にも降る。
ふと、頬にじんわりとあたたかさを感じた。
なぜ、あたたかいんだろう?
六花は死んだんだ。
身体があたたかいわけがない。
私の頬は六花の首に接しているから、それであたたかくなったのかも。
けれど、あたたかさは六花の肩から腕、顔、全身へと広がっていく。
さらに熱を帯びる。
そして、全身に熱が回ったとき。
六花がそっと目を開けた。
まつ毛が揺れる。瞳には生の光が灯っていた。
「六花!」
私はうれしくて再び六花に抱きついた。
みんなは、ぽかんと口を開けて私たちを見ていた。
お兄ちゃんがつぶやく。
「呪いは真実の愛で解ける」
まるでおとぎ話。
でも、これは現実。
六花が私の背に腕をまわす。
「清花ちゃん、ありがとう……」
私たちはずっと固く抱き合った。
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