第一章

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第一章

 ただいま、と言いながら玄関に入る。  五月の初夏だというのに真夏のよう。外はまぶしい太陽に照らされていた。  そろそろ日焼け止めとアームカバーを常備しなければならない季節だと思うと、少し憂鬱になる。  衣替えはあと二週間後だから、制服のシャツはまだ長袖。袖をまくっても暑い。  私はシャツの胸もとをつかんでパタパタとあおぎ、服の中の空気を外へ逃がして、新しい空気をとり込んだ。 「ただいま」  私は再びそう言いながら、お兄ちゃんの部屋のドアを開けた。 「おかえり、清花ちゃん」  お兄ちゃんの作業机の隣に座っていた人形がこちらを振り返った。だ。  六花は一年前に死んだ。  でも、目の前に六花はいる。  私は頭の中でこれまでのことを思い出す。  さかのぼること一年。六花が死んで、私は絶望のどん底にいた。  それこそ、何も手につかないくらい。食事ものどを通らなかった。  そんな私をなぐさめるために、お兄ちゃんが六花そっくりの人形を作ってくれた。  お兄ちゃんは、若き天才人形作家の成瀬千明。  本物の人間よりも人間らしい人形を作る、と人形業界では評判になっている。  お兄ちゃんの作った六花の人形は、たしかに六花に瓜二つだった。  雪のように白い肌、色素のうすいふんわりとした髪、ばら色の頬、ぷっくりとした野いちごの唇、あどけない顔立ち。  けれども、目だけは違った。  ガラスの瞳には、生の光が灯っていない。  それでは六花そのものだなんて言えなかった。  けれどある日、不思議なことが起こった。  六花の人形に、六花の魂が宿ったんだ。  どうしてそんなことが起こったのかはわからない。  本当に不可思議なこと。  だって突然、固まっていた六花の人形が動き出したんだもの。  でも、何より大切なのは、六花が生き返ったということだ。  あのガラス玉の瞳に生の光が灯ったとき、私は胸が熱くなった。  やっと私は生を取り戻し、目に映る白黒の静止した世界に、再び色が差し脈が打ち始めた。  慈愛とほほ笑みのにじんだ、うるんだ瞳。  私の大好きな瞳。  いつもこのブラウンブラックの瞳になぐさめられた。  六花の人形は〝六花そのもの〟となった。 「ああ、清花。帰ってたのか」  その声で、私はハッと現実に戻った。  作業机に座っていたお兄ちゃんが、やっと私に気づいた。 「仕事に夢中になっていて気づかなかったよ」  お兄ちゃんは、両手にのった髪の毛の束を私に見せる。 「清花はどっちがいいと思う?」  もちろん、お兄ちゃんが自分の頭に付けるウィッグじゃない。人形の髪だ。 「シャイニーブロンドの髪とピーチピンクの髪、どっちもいいんだよねえ……。シャイニーブロンドは誰もが好きだから外さないし、ピーチピンクはより甘い印象になる。どっちにしよう……」 「お兄ちゃんの好きなほうでいいんじゃない?」  お兄ちゃんはうっとりと髪の束を見つめていた。  その光景が何とも異様だった。  お兄ちゃんは、私たち凡人とは違う世界に生きている。  普通の人とは発想がかけ離れていて、価値観も基準も違う。 だから、神秘的で恐ろしいと人から思われる。  何気なく話しかけると、聞いてはいけないことまで語られてしまい、やけどする。  しかも、お兄ちゃんは繊細な顔立ちをしているから、普通の人よりもよりいっそう怖く見える。  そんなお兄ちゃんだから、親戚たち、そしてお母さんとお父さんまでもが、お兄ちゃんのことを『狂人』と呼んで、腫れ物に触るような扱いをする。  性格もそうだけど、人形を作っていることも原因の一つだと思う。  人形を作るのって珍しいから。  しかも、お兄ちゃんの作る人形はとってもリアル。  それでみんなはよけいに、お兄ちゃんに近寄りたがらない。  でも、私は別。  私はお兄ちゃんが好き。  たしかに、ちょっと変わっているところもあるけど、私にとってはやさしいお兄ちゃんだ。  人形を作れるのだって、すごいことだもの。  まだ髪の束に見入っているお兄ちゃんをよそに、六花が私に声をかけた。「清花ちゃん。今日私ね、新しいお人形のドレスのデザインを考えていたの」  私にスケッチブックを見せる。  そこには、ピンク色の布地に、白色のレース、フリル、リボンがふんだんにあしらわれた、お菓子屋さんのショーケースに並んだケーキみたいなドレスが描かれていた。 「いいじゃん」  私の返事を聞いて、六花はにっこりと笑う。  家族以外には、六花のことは秘密になっている。  みんなを混乱させてしまうから。  だから、六花は普段、家の中でお兄ちゃんの仕事を手伝ったり、本を読んだりして過ごしている。  六花の両親にも、六花が蘇ったことは知らせていない。  六花のお母さんは六花が死んだことを、とても悲しんでいた。  精神が壊れてしまいそうで、親戚たちはみんな心配していた。  一年経ってやっと、六花のお母さんは、娘が亡くなったことから立ち直ろうとしていた。  六花が蘇ったなんて伝えたら、六花のお母さんは本当に心が壊れてしまう。 「六花は今日も、白とピンクの甘々のドレスを描いたんだよ。たまには清花みたいに、黒メインのゴシック調の服もデザインしてほしいよ」  お兄ちゃんはそう文句を言いつつも、まあ、かわいいんだけどね、とつけ加えた。  ドレスのデザインからわかるように、私と六花の性格は正反対。  友達からよく言われるんだけど、私はクールな性格。  いつもサラッとしていて、めったなことで熱くなったり、はしゃいだりしない。  反対に、六花はおっとりした、やさしい性格。  いつも顔にやわらかい笑みを浮かべていて、春のぽかぽかした日差しのよう。  改めて考えると、私たちって本当に真逆。  でも、そんな私たちだからこそ、バランスがとれているのかも。  そのとき、私はさっき郵便ポストから取ってきた手紙を思い出した。 「お兄ちゃん。ポストにこれが入ってたんだけど、これ、お兄ちゃん宛ての?」  私は持っていた手紙をひらひらとさせる。  封筒には差出人が書かれていなかった。  クリーム色の質の良さそうな封筒だったから、お兄ちゃんの仕事関係の手紙だと思った。  お兄ちゃんは私から手紙を受け取ると、じろじろと眺めた。 「いや、違うよ。父さんと母さんからじゃないかな」  お兄ちゃんは手紙の封を開けた。  お父さんとお母さんは今、海外にいる。  魂の宿った六花の人形を見て、二人は恐ろしくなったと同時に、お兄ちゃんがもっとおかしくなったんじゃないか、と思った。  ちょうどそのとき、お父さんに海外への転勤の話が来た。  それを良い機会だとばかりに、お父さんは海外に行き、お母さんはお父さんについていった。 「違うみたいだ」  お兄ちゃんは私に手紙を見せる。  中には、お父さんとお母さんの書くものとは違う文字が並んでいた。  お兄ちゃんは手紙を読み上げる。 「何なに? ええーと、成瀬様……、突然お手紙を差し上げたことをお詫び申し上げます。私は早乙女カイリと申します。この町に在住の高校二年生です。この度は、あなたにお願いがあり、ご連絡させていただきました。  先日、私は町中で偶然、あなたとあなたの隣で歩く人形を見かけました。私はその人形に一目惚れしました。文字どおり、一目惚れです。私は今まで、あれほど素晴らしい人形を見たことがありません。  私には、彼女が機械仕掛けで動いているのではなく、彼女に魂が宿っているのがわかりました。魂の宿った人形はこの世のどこを探しても存在しません。そのような貴重な人形を目の当たりにして、熱心な人形愛好家である私の心は、震えずにはいられませんでした。  その上、本物の人間よりも人間らしい姿。お見受けしたところ、あの人形は成瀬千明氏の作品ではないでしょうか。あの天才人形作家・成瀬氏の作品であるというだけでも、とても価値があります。  つきましては、ぜひとも私にその人形を譲っていただきたいのです。何度も申しますが、あれほど素晴らしい人形はこの世にありません。お礼は存分にいたします。お返事は下記のところまでお願いします。良いお返事をお待ちしております」 「は⁉」  手紙の内容を聞いて、私は驚きのあまり声を上げてしまった。  でも、すぐに冷静さを取り戻して、こう言い放った。 「無理に決まってるでしょ」  六花をほかの人に渡すわけがない。  六花は私の大切な大切な存在なんだから。  そもそも、六花はモノではない。  あげる、とか、譲る、とかそういう言葉は失礼だ。  週末に、私と六花はショッピングモールに買い物に行った。たまには外に出ないと、六花も窮屈だろうから。  そこを早乙女カイリとやらに見られたんだと思う。  六花の身体が人形で、人形に魂が宿ったことをどうやって見抜いたのかは知らないけど、六花をどこぞの知らない人間のところに行かせる気はさらさらない。 「まあ、それも当然のことだね」  私の言葉に、お兄ちゃんはうなずいた。  私は六花のほうを見る。 「六花もその人のところに行きたくないでしょ?」  六花は顔を曇らせて言った。 「早乙女カイリさんって、名前も聞いたことがない人なんだけど……。知らない人の家に行くのは、ちょっと怖いな」  やっぱり、と私は顔をほころばせた。  六花が私を置いて、ほかの人のところへ行くはずがない。  六花も私から離れたくないんだ。  でも、〝早乙女カイリ〟という名前に引っかかった。  どこかで聞いたことがある気がする。  そこだけが少し気になったものの、そんなことはどうでもいい、と首を横に振った。  何であろうと、六花は奴のところへ行かないんだから。  私が用済みになった手紙を八つ裂きにしようとすると、お兄ちゃんが、待って、と止めた。 「断るにしろ、ちゃんと返事を送らないとね」  たしかに。いくら嫌でも、返事は書かなくてはいけない。  私はしぶしぶうなずいた。
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