第五章

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第五章

 ついにパーティー当日になってしまった。 「じっとしててね」  私はそう言って、六花のドレスの背にあるチャックを上げた。  今日のパーティーのドレスコードは黒。  私は肩の開いた大人っぽいドレス。  六花のドレスは、裾の前が短く後ろが長いフィッシュテールの形になっていて、裾が外へふんわりと広がっている。生地にはオーガンジーも使われていて、女の子らしくひらひらしている。  私は黒や寒色が似合うからいいけど、パステルカラーや白が似合う六花が、黒を着るのはもったいないと思った。もちろん、かわいいけど。  今日はお兄ちゃんも一緒に行く。  今日のお兄ちゃんは、いつものラフな格好ではなくスーツ。  細身の身体にスーツがぴったりと合い、繊細に整った顔立ちも相まって、大通りを歩いたら、すれ違った女の人が振り向きそう。  支度をしているときの六花は生き生きしていた。  姿見の前でうれしそうにくるくる回っている。  私もあんなにパーティーが嫌だったのに、いざ当日となると、わくわくしてきた。  パーティーはどんな女の子にとっても憧れだからかな。  移り気な自分にあきれてしまう。  とはいえ、やっぱり今日の六花を見ていて、いい気はしない。  六花にはドレスもメイクもいらない。  そのままで十分かわいい。  白い肌の上にファンデーションをベタベタ塗りたくる必要はないし、ばら色の頬にさらにチークを重ねる必要もない。やわらかい印象の目もとがいいのに、アイラインを引いて目をくっきりさせる意味もない。リップなんて付けたら、もともとの愛らしい唇が台無し。  六花は鼻歌まで歌い出した。  そんな様子に耐えられなくなって、私は六花に背を向け、玄関へスタスタと歩き出した。 「六花、お兄ちゃん。行こう」 「あっ、待って、清花ちゃん」  後ろから六花が小走りでやって来るのが聞こえた。  やっと六花が私のほうを向いてくれた。  ちょっと強引だけど、これで、六花の気持ちが私のほうを向いてくれるならかまわない。 「清花。少し大人げないよ」  お兄ちゃんが私をたしなめる。 「いいもん、大人げなくて」  私はそうぼそっとこぼした。  私たち三人は、早乙女カイリの家の前で立ちつくす。 彼の家はヴェルサイユ宮殿みたいな豪邸だった。 前に世界史の教科書でヴェルサイユ宮殿を見たとき、こんな現実離れした、きらびやかな建物に本当に人が住んでいたのかな、と思った。 でも、実際に目の前の豪邸に、早乙女カイリは住んでいる。  ということは、ヴェルサイユにも王族や貴族が住んでいたというのは本当だったんだ、と勝手に納得する。  入り口に来ると、執事さんに声をかけられた。 「ようこそいらっしゃいました。招待状を拝見させていただきます」  私はバッグから上質な封筒を取り出して、彼に見せる。彼は一目見てそれを確認すると、ありがとうございます、と言った。  そして、私たち三人に仮面を渡した。 「今回のパーティーの参加者は全員、仮面をつけることになっています」  仮面舞踏会ならぬ仮面パーティーというわけか。  言われるまま、私たちは仮面で目もとを隠し、彼に見送られながら、さっそく中へ入った。  目の前に広がる光景を見て、私も六花もため息をもらさずにはいられなかった。  天井できらめくシャンデリア、壁際には白いテーブルクロスを敷いた丸テーブルがいくつもあり、その上には見たこともないようなご馳走がのっていた。どの料理も味見したい。会場の真ん中では、黒い服に身を包み、黒い仮面をつけた人々がダンスしている。 「夢みたいな光景だねえ」 「うん。おとぎ話の中にいるみたい」  ホールの中に入ったはいいものの、どうすればいいのかわからない。  自分でこんなことを思うのもなんだけど、私たちは一般家庭とはいっても普通よりちょっといい暮らしをしている。とはいえ所詮一般家庭だから、こんなきらびやかで豪華なところは住んでいる世界が違う。  とりあえず私たちは壁の花になることにした。  人と人の間を縫って壁際へ向かう。  人が多い上に、どこを向いても、黒い衣装を着て、黒い仮面をつけた人しかいなくて、めまいがしそう。  普段は聞かないクラシック音楽が、私を幻想へと誘う。  アンドゥトロワ、アンドゥトロワ。  回れ回れ、くるくる回れ。  アンドゥトロワ、アンドゥトロワ。  翻るはスカート。  笑い声のさざめき。  腕を組む男女。  仮面の奥の目と目が合ったら、それは運命。  華麗なターンをすれば、床に黒い花が咲く。  仮面をしていて誰が誰だかわからない。  今宵は無礼講。  現実のことなど忘れて踊りあかそう。  アンドゥトロワ、アンドゥトロワ。  回れ回れ、くるくる回れ。  アンドゥトロワ、アンドゥトロワ。  やっとのことで、私たちは壁際にたどり着いた。  ウェイターさんが持ってきてくれたグラスを受け取って、一息つく。  私はすでに心がぐったりしていた。  そんな私にかまわず、お兄ちゃんは踊っている人々を見つめながら、ぶつぶつつぶやいていた。 「あの花柄のレースはかわいいなあ。今度、人形のドレスに取り入れよう。チャイナドレスっていうのもいいよね。エキゾチックで珍しい子になる……」  その様子を見ながら、私は、やっぱりと思った。  人の集まるところに行きたがらないお兄ちゃんが、パーティーに行くなんて、そんなの人形が関わっているに決まっていた。  ときどき六花にも話しかけていて、六花はお兄ちゃんの話を相づちを打ちながら聞いてくれている。  そんな私たちに声がかかった。 「今日は来てくれてありがとう」  早乙女カイリだ。  今日の彼はスーツ。いかにも高そうなスーツが、すらりとした長身の身体に似合っていて、まるでテレビの中の俳優のようだった。  私はふと、早乙女カイリの隣に見知らぬ男の子がたたずんでいることに気づいた。  早乙女カイリも背が高いけど、その男の子はもっと背が高くて、一九〇センチくらいありそう。柔道をやっていそうながっしりとした体格をしている。  何よりも印象的なのは、その表情。ムスッとした、感情を表に出さない顔で、何を考えているのかさっぱりわからない。  人当たりのよさそうな早乙女カイリとは対照的だった。 「来てくれないんじゃないかって、そわそわしてたよ」  早乙女カイリは、あのさわやかな笑みを私たちに向ける。  その笑みがどうも私の癇に障った。 「六花がどうしても行きたいって言ったから来ただけだから」  つんと返した私とは反対に、六花は丁寧におじぎをする。 「今日はお招きありがとうございます」  そのとき、早乙女カイリは私たちのそばにお兄ちゃんがいることに気づいた。 「人形作家の成瀬千明さんですね」  はい、とお兄ちゃんは答える。 「僕はあなたの大ファンなんです。お会いできてとてもうれしいです」 「こちらこそ。そう言ってくれてうれしい」  お兄ちゃんは、早乙女カイリの差し出した手を握った。  もう、お兄ちゃんまで早乙女カイリと仲良くしちゃって。  そういえば、早乙女カイリは今日のパーティーのことを「小さなパーティー」と言っていた。  でも、実際に来てみればまったく小さくなく、豪華だった。  お金持ちの言うことは信用できない。 「今日のパーティーで、君の心も変わるはずだよ」  早乙女カイリは六花に顔を近づけて言った。  六花は恥ずかしそうに目をそらしている。  それを見て、私はふんと鼻を鳴らしたくなった。  ふと、早乙女カイリがホールの真ん中を見た。 「せっかくだから、君たちも踊ろうよ」  私は横に首を振る。 「嫌。そんなことするわけないじゃん」 「私、ダンスできなくて……」  六花は残念そうに顔をくもらせた。 「大丈夫。僕がリードするから」  早乙女カイリの言葉を聞いて、六花はパッと顔を明るくさせた。 「それなら……」 「ちょっと、六花」  私は六花に小声で言う。  六花が男の子とくっつくなんて、しかもダンスをするなんて、とんでもない。 「ねえ、いいでしょ? 私、ダンスしてみたかったんだ。お願い、清花ちゃん」  六花は手を合わせて頼みこむ。  私は六花のお願いに弱い。どんなに反対していても、六花にお願いと言われたら、ついうなずいてしまう。私の負けだ。 「わかった、いいよ。それなら、私もダンスする」 「じゃあ、決まりだね。君は僕と、君は梧桐と組んで」  六花の手を取る早乙女カイリの後ろから、あの男の子が出てきた。 「紹介がまだだったね。彼は梧桐。僕の部下」  梧桐という男の子は、よろしく、と一言だけ言った。 「お互い知り合いになったことだし、さっそく行こう」  私と六花は、ひらひらと手を振るお兄ちゃんに見送られながら、ホールの真ん中に行った。  私は、手をつないだ六花と早乙女カイリを見つめる。  もちろん、ただ踊るわけがない。  隙あらば、二人を邪魔してやるつもり。  そのために、私もダンスすることにしたんだ。  たしかに、ちょっとは、ちょっとだけ、ダンスに憧れていたっていうのもあるけど。  六花と私は、早乙女カイリ、梧桐の手を取って人の群れの中へ入っていった。 「私、ダンスできないから、リードよろしくね」  私がそう言うと、梧桐は返事をせずにうなずいた。  さっそく曲が始まる。三拍子のワルツ。  私は左手を梧桐の肩に掛け、梧桐は私の腰に腕をまわす。グッと距離が縮まった。  見上げれば、すぐ上に顔。不愛想だけど、キリッと整った顔だった。  急に心臓がドキドキしだした。  普段学校にいて、男子とこんなに密着したことなんかない。それに、腰に腕をまわされている。  こんなとき、どんな顔をしていいのかわからなくなる。  みんなが動き出した。  梧桐のリードは完璧だった。  動きのわからない私でも、彼がリードしてくれるおかげで勝手に身体が動く。  私がよろめいたり、スッテプを間違えたりしても、梧桐はゆるがず、私を支えてくれる。  一曲終わったころには、ダンスにだいぶ慣れてきた。  そろそろ実行しよう。  二曲目が始まり、私は踊りながら話しかける。 「ねえ、梧桐、さん」 「梧桐でいい」 「じゃあ、梧桐。六花のいるところに近づきたい」  梧桐はゆっくりと私を誘導してくれる。  六花たちを見つけた。  六花も早乙女カイリも、楽しそうに踊っていた。  六花の腰には、早乙女カイリの腕がある。  私は無意識のうちに、下唇をかんでいた。  黒い感情が湧き上がってきて、二人を邪魔したい気持ちが高まる。  六花たちの隣に来たら、ついうっかりとぶつかったり、よろめいて倒れたりするんだ。ほかには……。 「ねえ、もっと近くに」 「これ以上は無理。危ない」  そうこうしているうちに、私たちと六花たちのあいだに、別のペアが入り込んできた。  くっ、邪魔が入ったか。  でも、まだあきらめてはいない。  しばらくして、割り込んできたペアが移動した。  チャンスとばかりに私は近づこうとしたけれど、そのとたん、六花たちは離れてしまった。  そのまま六花たちの後を追おうと思ったけど、ほかのペアの波にのまれて、私と六花の距離はさらに遠くなった。  いや、まだまだ。  その後も、私は六花たちを邪魔しようとしたけれど、すべて失敗に終わった。  ついていないなあ、と落ち込んでいると、私はバランスを崩し、倒れそうになった。  とっさに梧桐が、私の身体を力強い腕で支える。 「危ない」  梧桐がつぶやいた。 「ありがとう」 「あんた、あの人形のほうばっか見ているだろ。集中してないとまた転ぶぞ」  私は彼が気づいていたことに驚いたけど、つんと返した。 「お気遣いどうもありがとう」  彼はなおも話しかけてくる。 「どうしてあの人形を見ているんだ? 人形がどうかしたのか?」 「心配なの」 「なぜ?」 「そんなの、六花が悪い男に惑わされているからに決まってるじゃない」 「カイリを悪人扱いするな」 「六花に近づく男はみんな悪人」  私はそう吐き捨てた。 「だから、早乙女カイリが六花に何かしないように見守ってるの。それと、隙あらば、六花と早乙女カイリを引き裂くため」  こんなことを言ったって、梧桐は取り合わないだろうから、素直に口にした。 「ふうん」  思ったとおり、梧桐はその一言しか発さなかった。  その後も、私は六花たちを監視し続けたけど、一向に二人を邪魔するチャンスは訪れず、楽しそうな姿ばかり見せつけられた。  ダンスなんかうわの空だったから、私は梧桐の足を踏みまくったり、転びそうになったりと、散々だった。  私の身体は疲れていくいっぽうで、そんな自分がばかばかしくなってきた。 「ああ、もう嫌!」  そう叫んで、私はダンスの輪から外れた。  まっすぐとお兄ちゃんのいる壁際へ向かう。 「おかえり、清花」  お兄ちゃんはのんきにお酒を飲みながらドレス鑑賞をしていた。  私はムスッとお兄ちゃんの隣に並ぶ。 「どうしたんだい? ダンス、楽しくなかった?」  私は首を横に振って、大きなため息をつく。 「全然二人を邪魔できなかった」  お兄ちゃんはびっくりしたように少し目を見開いた。 「まさか、そんなことをするために、ダンスに参加したのかい⁉」  そうだよ、と私はうなずく。 「このままだと、六花が早乙女カイリの毒牙にやられちゃう」 「清花もそろそろ六花離れしないとね」  ははは、と笑うお兄ちゃんに、私は頬を膨らます。 「もう、笑いごとじゃないってばー」  六花から離れたくない。  六花から離れない。  私は六花とずっと一緒にいるんだ。  すると、私とともに輪を抜けてきた梧桐が、会話に入ってきた。 「別にあの人形が何をしたっていいだろ。彼女の自由だ」 「うん、そうだよ。何? なんだか、私が六花を束縛しているみたいな言いようじゃない?」 「傍からはそう見える」 「私は六花の自由を奪ってないよ」  でも、本当にそうなの?  私は自分に問いかける。  今の六花は、たまにしか外へ出られないし、私とお兄ちゃん以外の人と親しくなれない。  こんなの、不自由だ。  もしかしたら、六花は笑顔の裏に、息苦しさを隠しているんじゃないか。  だとすると、自分は六花の自由を奪ってない、なんて断言はできない。  考えているうちに、私はいつの間にか顔をうつむかせていた。 「そりゃあ独占したくなるよ。だって、清花は六花のことが大好きなんだから」  耳に、お兄ちゃんの声が飛び込んできた。 「清花は六花とゆりかごからずっと一緒にいるもんね」 「そんなに小さい頃から?」  私は梧桐に、いとこだからね、と言う。 「私たちは今までずっと一緒にいたの。初めて立ち上がったときも、幼稚園のお遊戯会も、学校の放課後も、大きな嵐が来て怖かった日も、七五三も、初めて中学校の制服を着たときも、試験勉強のときも」  そう、私たちはずっと一緒にいたんだ。いつでも、どんなときでも。  そんな私たちの間には絆がある。  私と六花にしかわからない絆が。 「ふうん。そりゃ、執着するな」  梧桐は腕を組む。 「でも、誰にだって、それぐらい好きな人はいるものじゃないかな」  お兄ちゃんは梧桐にほほ笑んだ。  そんなお兄ちゃんが発した言葉は、妙に真実味があった。  違う世界の住人のお兄ちゃんが言うからかも。  とはいえ、六花を早乙女カイリに盗られそうだし、自分が六花を束縛しているかもしれない不安で、今の私はムシャクシャしていた。 「とにかく、今はなんだか腹の虫が治まらない」  私は、私の踊っている間にお兄ちゃんが取ってくれたケーキをもぐもぐ食べる。食べ終わると、近くのテーブルからスイーツをお皿に所せましとのせてきて、ひたすらに食べた。  そんな私のやけ食いする様子を見て、お兄ちゃんは苦笑いした。 「ところで梧桐君。君は早乙女カイリ君の部下なんだよね? それなのに、なんだか二人は友達みたいだね」  お兄ちゃんの質問に、ああそれは、と梧桐は答える。 「たしかにおれはカイリの部下だけど、カイリに普通に接してほしいって言われたんだ。だから、そう見えるのかもな」 「で、本当のところはどうなの?」  私はお皿から顔を上げて尋ねる。  梧桐は、さあな、と返事をぼかした。  でも、私にはわかる。  人々を、物事を冷静に見つめる眼差し。  その目にちらつく冷淡さ。  けれど、そんな瞳も早乙女カイリを映したときだけは、かすかに光が灯った。  梧桐は私と同じ目をしている。  私と同じ雰囲気。  「さあな」の意味は簡単に想像がつく。 「それにしても、あんたはカイリを警戒しすぎ」  梧桐は私を横目で見た。 「そりゃ警戒もするよ。私の大事な六花を狙ってるんだもの」  六花はまだ早乙女カイリと踊っている。  六花、帰ってきて。  早く帰ってきてよ。私のもとに。  切実に思う。  六花は私のそばにいなきゃだめなんだよ。  そんな男のところにいたらだめだよ。  私は梧桐を見上げて、こう言った。 「あなたも早乙女カイリに悪い虫が付いたら、私と同じことを思うでしょうね」  梧桐は一瞬目を見開き、それから、ははははと声を立てて笑った。  私もつられて笑ってしまった。  音楽が終わった。  私たちのもとへ、六花が息を弾ませて帰ってきた。肩を大きく上下させている。 「ただいま!」  とても晴れ晴れとした顔。  こんな顔にさせることができる早乙女カイリが憎らしい。 「長かったね」 「だってダンス、すっごく楽しかったんだもの。ほんと、夢みたい!」 「そう言ってくれて、うれしいよ」  早乙女カイリも満足げにしている。  そのとき、この家の執事さんが私たちのところへやって来て、カイリ様、お客様がお待ちです、と告げた。  わかった、と早乙女カイリは返事をする。 「ちょっと用事ができたから、席を外すね。また来るよ」  早乙女カイリは執事さん、梧桐とともに立ち去った。  戻ってくるな。  私は心の中でつぶやく。  同時に、お兄ちゃんも席を外した。花を摘みに行ってくるらしい。  そのワードのチョイスにつっこんでしまう。  私は六花と念願の二人きりになった。 「清花ちゃんはダンス、どうだった?」  まあまあ楽しかった。それより、もう帰ろうよ。  軽い気持ちで六花にそう言おうとして、開きかけた口を閉じる。  ——あんた、彼女を束縛してるんじゃないのか。  梧桐の声が頭に聞こえた。  私には、六花をこんなに明るい顔にすることはできない。  家の中に閉じ込めている私には、六花をこんなに晴れやかな気持ちにすることはできない。  そう思うと、出かけた声を引っ込めた。 「うん。楽し、かったよ」  かろうじてのどから絞り出した。 「……本当?」  思っていることを吐き出してしまいたい。  でも、楽しそうな六花に水を差したくなかった。 「うん、本当だよ。ちょっと疲れちゃっただけ。私、もう帰ろうかな」 「え⁉ 清花ちゃん、もう帰っちゃうの?」  今の六花を見ているのがつらい。 「うん。疲れちゃったから」  六花は少し迷っていたけれど、こう言った。 「それなら、私も帰ろうかな。でも、最後にカイリさんにあいさつしていこう」  カイリ、さん……?  自分の耳を疑った。  眉間にしわを寄せる私を見て、六花はあわててつけ加えた。 「あ、えっとね、ダンスのときに仲良くなって、それで、下の名前で呼ぶことになったの。特に意味はないから!」  そう言っているときの六花は、とてもかわいかった。  まるで、友達と恋バナをしているときに、「例の彼とはどうなの?」と訊かれた女の子みたいに。  こんな表情、私には引き出すことはできない。  そんな六花を早乙女カイリは引き出したんだ。  私の中にまた、ダンスのときに湧いたあの黒い感情が浮かび上がった。  悔しい。許せない。嫌だ。 「へー、そうなんだあ」 「……清花ちゃん、怒ってる?」 「怒ってないよ」  下唇をかむ。 「怒ってるよね?」 「怒ってないよ」 「ううん。清花ちゃん、怒ってる」  この激情は隠しても隠しきれない。  私は観念して、素直に言葉にした。 「うん、怒ってるかも。私は六花だけがいればいいのに。でも、六花はそうじゃないみたいだから」  それを聞いて、六花は目をそらした。 「そんなこと、ないよ……」  なんだか、ためらっているみたいだった。  六花はまっすぐに返せないんだ。 「そっか。やっぱり六花は私と同じように思ってくれていないんだね」 「そんなこと、ない」 「嘘だ。だって六花、言いよどんでるもん」  二人の間に沈黙が流れた。  しばらくして、六花が口を開いた。 「あのさ、清花ちゃん。私たち、もうちょっと距離を取ったほうがいいよ」 「え」 「私たち、もうちょっと距離を取ったほうがいいと思うの」  六花は私の目をしっかり見て、はっきりとした声で言った。  その言葉が信じられなかった。 「どうして、そんなこと言うの……?」  私は震える声で尋ねる。 「六花は私のことが大切じゃないの」 「大切だよ」 「じゃあ、なんでそんなこと言うの」  六花は息を大きく吸って吐いてから言った。 「私、ときどき、清花ちゃんのことが心配になる。清花ちゃんは私を心の支えにしてくれている。よく言ってくれるでしょ? そう思ってくれて、私うれしい。  でもたまに、清花ちゃんは私しか見ていないんじゃないか、私以外のことはどうでもいいんじゃないかって思うことがある。私と二人きりで塔に閉じこもっているような。そんなとき、怖い」  六花は一生懸命、私に思いを伝えようとしている。 「私のせいで、清花ちゃんをだめにしているんじゃないかって思うの。清花ちゃんは強い子。しっかりしていて、周りの意見に左右されないで、自分の意思を持っている。私の憧れ。清花ちゃんなら、広い世界でもっと自由に生きていけるよ。  上手く言葉にできていないんだけど……」  私は六花の言っていることがわからなかった。 「二人きりで塔に閉じこもっている。良い表現だね。それでいいじゃない。何がだめなの?だって、何も生活に支障はないんだから」 「それはそうだけど……。でも、なんだかよくない気がする」 「気にしすぎだよ。六花って考えすぎちゃうところがあるから」  うーん、と六花は腑に落ちない顔をしている。 「じゃあ、六花は本当に私と離れたいの?」 「そんなことないよ。私は清花ちゃんとずっと一緒にいたい」  口もとがほころぶ。 「なら、それでいいじゃない。お互い離れたくないって思っているのに、距離を取る必要なんかないよ」  けれど、六花は意見を変えてくれない。 「でも、やっぱり私はこのままじゃだめな気がするの。清花ちゃんのために」 「私のために?」 「そう。清花ちゃんは私から解放されて、自由になるべきなんだよ。それが清花ちゃんにとって一番いい」  どうしても私を突き放そうとする六花に、だんだんイライラしてきた。 「六花は、六花はどうしても私から離れたいんだね」 「違うよ。でも……」 「そういうことじゃん!」  その大きな声にハッとした。  ほかでもなく、自分の声だった。  めったにカッとしない私が、怒りに身を任せて怒鳴ってしまった。しかも、六花に対して。  おびえた目を六花はしていた。  私はあわてて謝る。 「ごめん、大きな声出して……」 「ううん……」  私は六花の顔を見られなかった。たぶん、六花も。  気まずい空気が流れる。  私はそろりと口を開いた。 「今日はせっかくのパーティーだから、この話はもうなしにしよう」 「そうだね」  ちょうどそのとき、 「お待たせ」  早乙女カイリと梧桐が戻ってきた。 「時間がかかっちゃってごめんね」 「いえ、大丈夫です」  戻ってきてほしくなかった。とりわけ、六花と微妙な雰囲気のときに。 「パーティーは楽しい? 退屈してない?」 「はい、とっても楽しいです」  六花は気持ちを切り替えて、早乙女カイリと会話していた。 「ただいま」  お兄ちゃんも戻ってきた。 「新しい人形の注文を受けちゃったよ」 「ほんと? すごいね」  パーティーに来てまで依頼を受けるなんて。さすが、お兄ちゃん。  お兄ちゃんと話しながら、私はチラチラと六花を見ていた。  あの人見知りの六花が、会ったばかりの男の子と打ち解けている。  六花はすごく人見知りで、なかなか人に心を開かない。一年経っても、厚い壁を間に築いたままの人もいる。  本当に仲良くなったみたい。  危ない。  焦りが、今までよりもじりじりと迫ってきた。  こんなところにいてはだめだ。  六花を早乙女カイリに盗られてしまう。  早く帰らないと。  そのためにはどうすれば?  どうすれば、どうすれば、どうすれば……。  ぐるぐると思いつめた末、私はあることを思いついた。  私はグラッと横によろめき、手に持っていたお皿を六花の胸に押しつけた。  黒いドレスに白いクリーム、スポンジ、フルーツがべちゃあと貼り付く。  六花は自分の胸もとを見て、ぼうぜんとした。 「うわあ! 六花ごめん! 本当にごめん! どうしよう⁉」  私は血相を変えて謝る。  ドレスの汚れはひどすぎて、ハンカチは役に立たない。  私は心の中でニヤリとする。  これ、わざと。 「私が六花のほうに倒れたせいで……。ドレスが台無し」 「いいよ。気にしないで」  六花は私を責めず、逆になぐさめてくれた。  そのやさしさで、胸が痛くなった。  私はわざとやったのに、六花はそれに気づきもせず、責めもしない。  でも、六花がいけないんだ。  私は自分に言い聞かせた。  六花が私から離れていこうとするから。  早乙女カイリのほうばっか向いてるから。  嫌がらせの一つや二つはしたくなる。 「こんな格好じゃあ、パーティーにはいられないなあ。今日はもう帰るしかないね」  六花がそう言ったときだった。 「大丈夫だよ」  私たちは早乙女カイリのほうを見た。  彼は余裕の表情を浮かべている。 「実は今日、君に着てほしくてドレスを用意してあるんだ」  まさか、ドレスを用意してあるなんて……。  想定外の出来事だった。 「よし、さっそく着替えに行こう」 「え⁉」  早乙女カイリは六花の手首をつかんで行ってしまった。  六花が着替えに行っている間、私はお兄ちゃんと梧桐とまだか、まだかと待っていた。  グラスにもスイーツにも手が付けられない。 「別にカイリは取って食ったりはしないよ」  腕を組んで、人差し指をトントンさせている私に、梧桐がおもしろそうに言った。  突然、ざわめきが起こった。  何事かと思って、人々の視線の先をたどると、大階段の上に、早乙女カイリにエスコートされた六花がいた。  六花はピンクのふんわりとしたドレスを着ていた。まるでお姫様のよう。  その隣に立つ早乙女カイリは……。  六花と早乙女カイリは、お互い見つめ合ってほほ笑む。  見たくない光景だった。 「いばらの棘も毒りんごも、もう敵わないね」  梧桐が私を見て言った。  黒いドレスの闇の中に一輪の花が咲く。  希望の花。春の花。  それが六花だった。  隣に私がいなくても、六花は一人でこのパーティーの華になっていた。  私の入る隙間はない。 「みなさん」  早乙女カイリの声が高らかに響く。 「こちらが、今日のパーティーの主役です!」  そう言って、彼は六花を示した。  会場からいっせいに拍手が巻き起こる。  早乙女カイリは六花の前で片膝をついた。 「必ず幸せにします。僕のところへ来てくれませんか」  その手には指輪が。  六花は口もとを手で押さえる。  そのとき、ふと、六花は早乙女カイリから視線を外した気がした。  会場へ目を向ける。  ——私だ。  六花は私を見ていた。  お互いの目が合う。  一瞬の出来事。  いつの間にか六花は視線をもとに戻していた。  気のせいだったのかもしれない。  すると、六花は花がほころんだような笑顔になった。 「はい」
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