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第六章
次の日。
私は朝起きて、学校に行って、家へ帰って、寝た。
その次の日。私は朝起きて、学校に行って、家へ帰って、寝た。
そしてまた次の日も、私は朝起きて、学校に行って、家へ帰って、寝た。
帰りの電車の中。
息ができない。
酸素のうすい水の中にいる魚みたいに。
深呼吸しようと空気を吸い込んでも、肺の一割しか空気を取り込めず、なけなしの空気はすぐに身体の外に出てしまう。
肺の中には、もわもわとした物体が溜まっていた。それが原因。
息ができないから心臓の鼓動が速くなり、深夜に味わうような一種の興奮状態にいる。
どうしてこうなったんだろう?
考えてみた。
すると、ストンとある言葉が降ってきた。
六花がいなくなったから。
腑に落ちた。
そうか、六花がいなくなったからか。
六花がいなくなったからか。
六花がいない……?
パーティーの夜の記憶が私にどっと押し寄せてくる。
六花は笑顔で早乙女カイリの手を取った。
六花は私から離れていった。
肺の中のもわもわと胸の中のどす黒いものが、こみ上げてきて、私はとっさに口もとを手で覆う。
現実を改めて捉えた。
でも、その現実はあまりにも残酷だった。
そういえば、どこかで今と似た感覚になった気がする。どこだったか。
少し考えを巡らせると、答えが出てきた。その答えにおののいた。
——六花が死んだときだ。
いきなり突き落とされた絶望のどん底。
昨日までいた六花とは二度と会えない。
六花がこの世からいなくなっただなんて信じられなかった。
もうあんな思いはしたくない。
また六花を失いたくない。
そうだ。六花を取り返さないと。
取り戻さないと。
今すぐに。
それは、啓示のように私に下った。
私には六花が必要だ。
六花がいないとだめなんだ。
ガタガタと電車が揺れる。
その揺れに合わせて、私の身体も、ほかの乗客の身体も揺れる。
手すりにつかまっていないと、倒れてしまいそうだった。
私は早乙女カイリの豪邸に来た。
六花を取り返すために。
彼の家は、相変わらずヴェルサイユ宮殿みたいだった。
門のところにあるインターフォンを押す。
「いらっしゃいませ。ご予約はされていますでしょうか?」
「いえ」
「お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
「成瀬清花です」
私の名前を聞き、インターフォンの奥の人はうろたえた。
「あ、えっと、カイリ様のご友人ですね。申し訳ございません。ただ今、カイリ様は外出していらっしゃいます。お帰りは遅くなるかと……」
わかりました、と言って私は門に背を向けた。
次の日も、私は早乙女カイリの家へ来た。
今日も私の名前を言ったら、彼は外出していると言われた。
その次の日も、私は早乙女カイリの家へ来た。
お決まりの流れの後、私の名前を告げると、今日は家の中を大掃除していて中に招くことはできない、と言われた。
とっくに私は、私を中に入れたくないという意図に気づいていた。
私の名前を聞いたとたん、声色が変わって、無理な言い訳をしているから。
でももちろん、あきらめる気はない。
そして、早乙女カイリの家に通って一週間が経った。
「意味ないよ」
私がインターフォンを押そうとすると、声がした。
横を向くと、梧桐が立っていた。
「六花に会いに来たんだろ?」
うん、と私はうなずく。
「残念だけど、会わせることはできない」
「なんで?」
「彼女が会いたくないって言ってるから」
「え⁉」
私は自分の耳を疑った。
「彼女はあんたに会いたくないって」
理解できていない私に、梧桐はもう一度言った。
「嘘だ」
「本当」
「六花が私に会いたくないなんてありえない」
たしかに六花は自分から早乙女カイリのもとへ行った。
だけど、だからといって、私に会いたくなくなるなんてことはない。
急に会いたくないだなんて、おかしい。
「愛想を尽かされたんじゃないのか。あんたが彼女に執着しすぎるから」
「そんなこと」
ない、と最後まで言えなかった。
耳が、痛い。
パーティーでのことを思い出す。
私は六花を束縛している。
あのとき梧桐の言っていたことは、間違っているとは言い切れない。
もしかしたら、そんな私のことを六花は嫌いになったんじゃ……?
でも……。でも、そんなはずない!
六花が私のことを嫌いになるわけがない。
そんなこと、ありえない。
私は目つきを鋭くして、梧桐に言った。
「会わせてもらうまで通い続ける」
「その日は永遠に来ないな」
「なら、門を蹴破ってでも中に入る」
梧桐は、はあとため息をつく。
「普通の人間は、会いたくないって言われたら、気まずくて距離を置くぞ」
「普通とか、そんなのどうでもいい」
私は梧桐の目をまっすぐに見つめる。
「私には六花が必要なの」
彼は明らかに顔を歪めた。
「あんた、おかしいんじゃないのか?」
そのとおりなのかもしれない。
私はおかしい。
でも、どうしようもないんだ。
変えられないんだ。
こんな自分になんだか少しだけ違和感を覚える自分がいる。
「……梧桐にそう言われると、応えるよ」
梧桐は私と同じ人種だから。
まるで、自分から言われているみたい。
間があった。
梧桐がぼそっとつぶやく。
「あんたみたいにはなりたくないな」
彼の顔は少し悲しそうで、そこには哀れみがにじんでいた。
「うん、それがいいよ」
梧桐は屋敷に顔を向けてから、また顔を戻した。
「何にせよ、あんたを家の中に入れることはできない」
梧桐はそう言い捨てて、門の中に帰っていった。
早乙女カイリの家からの帰り道。
息を大きく吸って吐く。深呼吸する。
外の新鮮な空気で頭の中をいっぱいに満たして、頭の中に渦巻く不安定な感情を身体の外に吐き出そうとする。
でも、そんなことできるはずもなくて。
一向に苦しさを実感するばかり。
歩いていたら、道端に自転車を停めて立ち話をしている、中学生の女子たちを見つけた。
私は顔をしかめる。
中学時代は特に人間関係が大変だった。
自分のことも、他人のことも、人付き合いのこともよくわかっていなかったから、学校のあちこちでいざこざが起きていて、学校の至るところが歪んでいた。
刃と刃の向け合いだった。
もっとも、私は自分から刃を向けず、他人から刃を向けられないように気をつけていたけれど。
本当みんな、なんで人間関係を面倒なことにしたがるんだろう?
そう思いながら、中学生たちを通り過ぎたとき、ある考えが頭をよぎった。
「あははは」
その考えについ笑ってしまう。
私は六花を早乙女カイリに盗られた。六花は会いたくないと言っているし、梧桐もやめとけと言っているのに、六花を取り戻そうとしている。
今の私の人間関係は複雑だ。
私は、今まで人を冷めた目で見ていた。馬鹿にしていた。
けれど、いつの間にか、自分の人間関係は面倒なことになっていた。
結局、私もほかの人たちと同じなんだ。
あの中学生たちと変わらない。
笑っちゃう。
笑いとともに、目が熱く痛くなってきた。
耐えられなくなって、私は顔を上へ向ける。
なんで私はこんな人間になっちゃったんだろう?
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