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第七章
「ただいま」
私はお兄ちゃんの部屋のドアを開けた。
「おかえり、清花」
お兄ちゃんは仕事の手を止めて、こちらを振り向いた。
——おかえり、清花ちゃん。
お兄ちゃんに続いてそう言ってくれる人はいなかった。
そのことが、やけに六花のいない空白を際立たせた。
沈んだ気持ちを払い去るために、私はキッチンからポテトチップスの袋を持ってきて、包を開けた。
バリバリと食べ始める。
満たされない心を食べ物で満たすように。口の中に詰め込む。
「清花。最近、毎日スナック菓子を食べてるね。身体に悪いよ」
お兄ちゃんが口をとがらせた。
「知ってる」
「お手伝いさんが夕食を用意してくれてあるんだよ。夕食がお腹に入らなくなる」
「食べないとやっていけないよ」
「困った子だなあ」
お兄ちゃんはやれやれ、と苦笑した。
お兄ちゃんは私に甘い。
私が何をやっても怒らないし、文句も言わない。
私はそれを知っていて、お兄ちゃんに甘えている。
「それにしても、今日は一段と機嫌が悪いね。どうしたんだい?」
お兄ちゃんが、作業台から顔を上げずに尋ねてきた。
普通、こういうことは訊きにくい。なのに、そこをストレートに言えてしまうのが、お兄ちゃんらしい。
「……ちょっとね」
なんとなく話しづらかった。
けれど、この胸にわだかまっているものをなんとかしたい。
それに、お兄ちゃんなら、私の話をちゃんと聞いてくれるはず。
私は大きく息を吸った。
「今日、早乙女カイリの家に行ったの」
「六花を連れて帰ろうと思ったんだね。最近、帰りが遅かったのは、彼の家に寄っていたからでしょう?」
私は驚いて、お兄ちゃんのほうをバッと振り向く。
「どうしてわかったの?」
「自分の妹のことならわかるよ」
お兄ちゃんは何でもないかのように言う。
「家の前で梧桐に会ったの。で、梧桐に六花に会わせてって言ったら、彼女はあんたに会いたくないって言われて」
「突然おかしいね」
「でしょ?」
私はお兄ちゃんのほうへ身を乗り出した。
「六花を私に会わせたくないからって、梧桐と早乙女カイリが嘘をついてるんだよ」
突然、会いたくない、だなんてこれしかありえない。
「その可能性はあるね」
私は何度も力強くうなずく。
「でも、もしかしたら嘘ではないかもしれない」
「え?」
その言葉に、私は止まる。
「六花に直接話を聞いていないから、本当のところはわからないんだけどね。もし嘘ではないとすると、六花のことだから、何か理由があるんじゃないかな」
お兄ちゃんの話は思ってもみなかった。
たしかに、もし六花が会いたくないと言ったのなら、六花のことだから、何か理由があるに違いない。
それなら、理由は……。
——私たち、もうちょっと距離を取ったほうがいいよ。
パーティーでのことを思い出す。
あのとき、六花はまだ私から離れることをためらっていた。
でももし、心変わりしたとしたら……?
不安がいっきに広がる。
「私、六花に嫌われちゃったのかな……?」
パーティーで六花に打ち明けられてから、ずっと拭い去れないでいる感情。
一度口に出したら、どっと不安があふれた。
「そんなことないよ」
お兄ちゃんは作業台を離れ、私に寄り添い、肩を抱いてくれた。
そんなお兄ちゃんのやさしさに後押しされて、私はパーティーで六花と言い合いをしたことぽつぽつと話した。
お兄ちゃんは静かに話を聞いてくれる。
話を終えると、お兄ちゃんは少し考え込んでいた。
そして、言いづらそうにゆっくりと口を開いた。
「六花の言うとおりかもしれないね」
「え」
「ちょっと距離を置いたほうがいいのかも」
その言葉が意外だった。
お兄ちゃんは私のことが好きだ。甘やかしてくれる。
そんなお兄ちゃんから言われるなんて、味方に裏切られたような気分になった。
「お兄ちゃんもそんなこと言うの?」
「うん。言いたくないけど……」
「信じていたのに」
口からこぼれていた。
その声は、固く冷たかった。
雹の粒は止まない。
「お兄ちゃんなら、私のことをわかってくれていると思っていたのに」
「清花……」
だんだん感情が昂ってくる。
「でも、お兄ちゃんもわかってくれなかったんだね」
「清花の気持ちは痛いくらいわかるよ。でも……」
ついには感情がワッと氾濫した。
「お兄ちゃんに私の気持ちはわからないよ。変わり者のお兄ちゃんには」
そのときのお兄ちゃんの顔を私は一生忘れない。
繊細な顔立ちは悲しみで陰り、私につけられた傷で苦しみの表情を浮かべる。
私は口にしてしまってから、自分がお兄ちゃんにひどいことを言ってしまったことに気づいた。
このときほど、「言葉は刃になる」という教えを強く実感したことはない。
「ご、ごめんなさい」
私はとっさに謝る。
「お兄ちゃん、ひどいこと言って本当にごめん」
「うん」
お兄ちゃんは、悲しみの色がにじんだ顔をうつむかせている。
謝ったけれど、気まずい空気は変わらない。
しばらくして、お兄ちゃんが口を開いた。
「さっき清花が、父さんや母さん、親戚たちみたいに見えた。清花だけは、僕を遠ざけないでほしい」
お父さんやお母さん、親戚たちはあからさまに、お兄ちゃんに変なものでも見る目を向け、冷たく接している。
私は、お兄ちゃんがそう扱われていても、顔色一つ変えないから、何とも思っていないのかと思っていた。
けれど、こんなお兄ちゃんだけど同じ人間だ。
人間なんだから、傷つくに決まっている。
そんなあたりまえのことに気づけなかった自分が、浅はかでどうしようもなく思える。
ましてや、同じように変人呼ばわりするなんて最悪だ。
「本当にごめんなさい」
「いいよ」
何度謝っても足りないくらい後悔。
お互い何も声を発せないでいると、お兄ちゃんが先に声を発した。
「清花はやっぱり六花に会うつもりなの?」
「もちろん」
「どうやって?」
「わからない。でも、忍び込んででも六花に会いに行く」
その思いは変わらない。
「僕も協力するよ」
「え?」
その言葉に驚く。
「かわいい妹が危険にさらされるのは嫌だからね」
お兄ちゃんはほほ笑んだ。いつものお兄ちゃんだ。
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