愛を望む

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このたった一言が言えなくて、20年ずっと後悔していた。 「何を言っているんだ? 不老不死なんて苦行を大事な人に勧められるわけがないだろう! 私がどんな思いで、愛をヴァンパイアにしたいという思いを飲み込んできたと思っている? 愛の血を吸っているとき、どれだけ理性を保つのに必死だったと思っている? しかも今すぐだと? 老人になってからでも、それこそ子孫を残してからだって良いだろう!」 「でも、人間でいる限りいつ死んじゃうか分からないじゃない! 今だって、エイミーが助けてくれなかったら死んでたよ」 エイミーは私を平手打ちした。 「愛はバカだ! 大馬鹿者だ! 世界で一番の愚か者だ! Stupid!  Idiot!」 古今東西のありとあらゆるスラングで馬鹿だとなじられた。途中からはドイツ語になり、単語の正確な意味までは分からなかったが、頭がおかしいと言われていることはその表情と口調で分かった。 「バカで良いよ。エイミーをいつか傷つけるくらいなら」 「本当に良いのか? 後悔しないのか? 愛がやっと結ばれた男とともに年を重ねることは出来ないし、これから出会う全ての人間は、愛よりも必ず先に死ぬんだ。その苦しみに、耐え続けられるのか?」 「でも、エイミーはずっと耐えてきたんでしょ?」 スーツのブラウスの第二ボタンまで開けて、首筋をさらけ出した。 「エイミーと同じ痛みをちょうだい」 エイミーの頬を涙が伝った。初めて見る涙だった。エイミーは私に縋り付いて号泣した。無垢な14歳の少女が母に泣きつくように、300年分の涙を流した。私はそれを受け止めた。私たちはお互いを欲していた。過去、現在、未来にどんな男性に恋をしていても、ともに愛の歌を奏でた少女の愛を渇望していた。 「本当に良いんだな?」 私は頷いた。少しでも迷いがあれば二度と目覚めることはない。けれども私には微塵もためらいはなかった。私は今から1度死ぬ。エイミーに命を預けることになる。それでも、エイミーのことならば無条件に信じられる。  エイミーがぼそぼそと、これから歌う曲を反芻していた。 「清三郎さんの時と、同じ曲?」 「なんだ? 清三郎に嫉妬しているのか? 安心しろ。あれからもう何十年も経つんだ。その間、君と何曲作ったと思っている?最高傑作を歌ってあげるよ」 「でも、エイミーが私以外の歌詞に曲つけるの、ちょっと妬いちゃうかも」 「どの口が言うんだか。君は私以外の曲に詞をつけることを生業としていたくせに」 「嫉妬してくれた?」 「いや、君の詞が世に羽ばたいてくのを見るのは幸せだったよ」 20年ぶりにエイミーが私の首筋を噛んだ。牙が深く動脈に刺さり、人間としての私が消えていく痛みを感じた。エイミーは、痛みや不安ごと私の血を吸い出した。意識が遠のく。  夢の中で、エイミーの歌声を聞いた。その旋律に、ゆりかごの中にいるような安らぎを感じた。母なる音というものがあるのなら、まさにこれだというメロディを名も無き吸血鬼の詩につけた。私はエイミーほどの人格者ではないからほんの少し、顔も名前も知らないヴァンパイアに嫉妬した。  エイミーの腕の中で目を醒ますと、日陰だというのに太陽の眩しさにクラクラした。 「おはよう」 エイミーが20年前と同じ優しい目で笑う。ずっと、恋しかった。20年の空白はとてつもなく寂しい物だったけれど、きっとすぐに埋まる。これから先、何千年だって一緒にいられるから。  そうだ、せっかく長い命を得たのだからピアノの練習を始めようか。あなたと連弾をするために。それともヴァイオリンを始めようか。あなたとふたりでエルガーの『愛の挨拶』を奏でるために。いや、その前に今の気持ちをまたふたりで曲にしたいな。でも、その前にまずはずっと伝えたかった言葉を言わなくちゃ。 「ねえ、エイミー」 白木澤先輩には「好きです」と言った。夫には「愛してる」と言った。仕事で数え切れないほどの愛の言葉を書いてきた。だから、まだ誰にも言ったことのない言葉でエイミーに伝えたい。今はまだ拙いドイツ語かもしれないけれど、あなたが生まれた国の言葉で「何があってもあなたを離さない」と伝えたい。 “Egal was kommt, ich werde dich nie verlassen.”
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