愛を望む

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 愛されるようにと名前をつけるくらいなら、あとほんの1マイクロメートルほどでも我が子に対する配慮が欲しかった。困っていることがあるなら何でも先生に相談しなさいと声をかけるくらいなら、せめて上辺だけの友達とくらい同じクラスにしてほしかった。そんな呪詛を頭の中から追い払うために、私は図書館で借りた本の最後の一説を何度も読み返した。 「我々の音楽は楽譜という小包によって後世に伝えられるだろう。しかし、袋詰めの過程で削ぎ落とされたニュアンスの欠片はヴァンパイアが花籠に詰めて未来へと運んでくれると信じている」  18世紀ドイツの作曲家、エヴァーハルト・ヴァルシュミーデの自伝である。この本は去年卒業した白木澤先輩が読んでいた。文芸部の先輩で、クラシック音楽好きな人だった。そして、彼は私の初恋の人だった。先輩には振られてしまったけれど、未練がましくこうして面影をなぞっている。  最後の一説の意味は分からない。文筆ではなく音楽を生業としているため独特の感性を彼は持っているようだ。 「アイウエオちゃん、面白い本読んでるねえ」 私の本を取り上げてクラスメイトの黛清恵がニヤニヤと笑う。 「それ、私のおじいちゃんが翻訳したの。私はドイツ語しゃべれないんだけど、帰国子女だったおじいちゃんは翻訳家でね。うちの家系、昔からドイツ留学してる人多いの。そういえばアイウエオちゃんも帰国子女だから発音綺麗だよね。ねえ、英語しゃべってよ。マイネームイズアイウエオーってさ」 黛が指さす表紙の翻訳者名には黛清彦と書かれていた。黛の絡み方は心底迷惑だけど、平穏な学校生活のためには邪険にすることも出来ない。エリート家系の目立ちたがり屋で気が強い黛に目をつけられたくなかった。テレビ番組の企画の一般人カラオケ大会で入賞したこともある黛には、誰もが一目置いていた。黛は教室の強者だから誰かの彼氏を奪っても、人の悪口を言っても許される。 「そんなことないよ、黛さんの方が英語うまいって」 機嫌を損ねないよう愛想笑いでその場をしのいだ。チャイムが鳴った後、ようやく本を返してもらえた。  上尾愛。本当はアゲオと読むけれど、ウエオとも読めるので、アイウエオと馬鹿にされる。幼少期アメリカに1年住んでいたので多少英語はできるが、名前と名字の順番が逆になるので英語の授業は嫌いだ。  もちろん親だって悪ふざけで名前をつけたわけではない。生まれた時は違う名字だったが、両親が離婚し、母が再婚した結果こうなってしまったのだ。籍を入れる前に少しは娘の名前にも気を配って欲しかったけれど。  4時間目、音楽の授業でヴァルシュミーデのピアノソナタを聴いた。音楽教師がその曲について解説をする。 「先生、その解釈は間違っています」 今年ドイツから留学してきたエイミー・シュナイダーが手を挙げて発言した。彼女は、独自の意見を展開した。少しばかり難解な日本語の使い方に間違いがあったものの、先生とは激論を交わしていた。ヴァルシュミーデの自伝を読む限りでは、私には彼女の発言が的外れな物には思えなかった。 「イキリオタク」 「意識高子ちゃん」 「中二病」 「だからぼっちなんだよ」 黛一派が昼休みにエイミーの陰口を叩いていた。彼女には直接分からないように、教科書に載っていない若者言葉を使っていた。  悪口が趣味の人がいる教室の空気は淀んでいる。ぼっち呼ばわりされたくないというだけの理由で一緒にお昼を食べているクラスメイトのこともあまり好きではない。ギャルにハブられた、仲が良い子とクラスが離れたなどの事情があるはぐれ者同士でつるんでも、グループ内には見えないヒエラルキーは存在し、私は格下だ。だから、彼女らに「アイウエオちゃん」と黛が勝手につけた蔑称で呼ばれても彼女らがそれを愛称だと言えば受け入れるしかないのだ。息苦しい。  5時間目終了後、10分休みは個人行動をしても嘲笑の対象とはなりにくい。なので、ゆっくり本が読める。 「愛さん」 呼ばれ慣れない本名で呼ばれて、びっくりして顔を上げるとエイミーが目の前に立っていた。 「ヴァルシュミーデ、よく聴くんですか?」  白木澤先輩がクラシック好きな人だったから、話を合わせたくて勧められた音楽を聴いていた。幸いにも、半分だけ血が繋がった妹の情操教育の一環で、家族で何度かコンサートに行ったこともあるので教養が足りず話にボロが出るようなことはなかった。私の時はそんなことしなかったくせにというドロドロした感情を昔は抱いたけれど、それを浄化してくれたのは先輩だった。でも、先輩に振られてしまった今、両親の愛を一身に受ける妹への嫉妬心が再燃している。 「うん、時々」  そんなことをおくびにも出さないようにつとめながら、笑顔を作って答える。するとエイミーからも嬉しそうな声が返ってきた。 「ヴァルシュミーデが好きな人とお会いできて嬉しいです。少しお話をしませんか?」 「あ、うん、いいよ」  彼女とはほとんど話したことがないので少し緊張した。その時、黛が私の席の近くを通った。 「センセーイ、その解釈ハー、間違ってイマース」  ねちっこい声でエイミーの言葉を真似する。 「アイウエオちゃんが迷惑そう、空気読めない子に絡まれちゃって可哀想」  くすくすと笑いながら私たちを見下している。エイミーが「空気が読めない」の意味を分かったかどうかは定かではないが「迷惑」の意味はさすがに分かったのかはっとした様子だ。 「読書の邪魔をしてごめんなさい。それでは」 悲しげな瞳で、静かに言うとエイミーは自席に戻った。  放課後、日傘を揺らしながら一人で帰るエイミーを目にした。私と同じ方面だった。彼女はいつものように無表情だった。  幼い頃いたアメリカでは言葉と文化の違いに悩まされ、友達が出来なかった。住んでいた場所は治安が悪く、日本人が多くいるような場所ではなかった。銃社会ゆえに時折乱射事件が起きていた。  エイミーも異国の地で独りぼっち、寂しいんじゃないかな。お節介な偽善だと分かってはいたけれど、彼女に声をかけずにはいられなかった。 「迷惑じゃなかったよ」 エイミーが振り返る。 「わざわざ、それを言いに来てくれたんですか?」 「うん。あと、音楽の授業の時も、かっこよかったよ」 エイミーは少し驚いた顔をした後、初めて微笑んだ。 「愛さんは優しいですね。ありがとう」 どんなに綺麗事の言い訳をならべても、私は結局嬉しかったのだ。彼女が私の名前をからかわないのは漢字が読めないからだとしても、対等に接してくれた。私はそれほどに、健全な人間関係に飢えていた。  表向きは「愛ちゃん」呼びする文芸部の友達も、陰で私が先輩に振られたという噂話に花を咲かせていることは知っている。虐待されているわけではないけれど、母も義父も結局妹の方が可愛いことは分かっている。実の父は再婚してから私と会わなくなった。寂しい。誰かに愛されたい。  誰にも言えない本当の気持ちは、詩の形にして日記帳に書きためた。両親が離婚した日も、先輩に恋をした日も、告白して玉砕した卒業式の日も、私は詩を書いていた。
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