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「『愛人探偵』はそんな売れなかったのね……。もう続編だって書き上げてるのに」
文花は、昼出版の応接室にいた。
夫の担当編集者の常盤と向かい合い、クレームをつけた。愛人探偵が打ち切りになって、夫が恋愛小説家に戻って、また不倫し始めたら「どうしてくれるの!?」と泣いて叫びながら文句をつけた。
常盤が持ってきた客用のお茶はすっかりぬるくなっている。
窓の外の木々の葉は赤や黄色に色づき、もうすっかり秋だった。
夏頃に発売された浅山ミイをモデルにした結婚相談所を舞台にしたラブストーリーは話題になって売れた。あの頃はまだ桜村糖子の金銭トラブルなど例の事件が騒がれていた。
秋になった今は、事件の話題はすっかり風化し、浅山ミイも桜村糖子もちっとも話題にされていない。
文花は涙をハンカチで拭う。少しは落ち着いたが、全く怒りは治らない。
常盤は、『愛人探偵』がいかにセール的に振るわなかったか説明した。田辺の本で最下位の売り上げで、書店から返品され在庫の山になるだろうという話だった。
「仕方ないですよ、奥さん」
常盤はため息をついて、文花を宥めた。
「それに田辺先生が不倫すると決まったわけじゃ無いでしょ」
「気休めだわ。恋愛小説書いて、また編集者や取材先の女と不倫するのに違いない…」
グスッと鼻をすすり、お茶を飲んだ。センブリでも飲んでるみたいに苦く感じた。怒りで味覚も狂っているのかもしれない。
「それに夫の本が蔑ろにされたみたいで悔しい」
「ちょっと文花さん、そんな風に貶めないでくださいよ。我々編集だって本当に頑張ったんですから」
常盤は文花の対応に苦慮したが、51人も不倫された妻ならこんなものなのかもしれない。不倫は心の殺人で、妻がメンヘラになっても仕方がないのかもしれない。
「それにもう不倫はしないでしょ」
「そうかしら…」
「先生も浅山ミイの事件っで反省したって言ってましたよ」
泣いている赤ちゃんをあやすように常盤は笑って見せた。
文花が帰っていき、常盤はようやく肩の力が抜けて、自分のディスクに戻った。そこへ上司でもある文芸局編集長・紅尾が常盤に声をかけた。
「田辺さんの奥さん、なんだって?」
「いや、『愛人探偵』の打ち切りが不満だったみたいです。これでまた夫が不倫したらどうしてくれるのって」
「うわぁ。ドン引き。相変わらずメンヘラ地雷女だな。迷惑極まりない」
紅尾は、半分笑いながら言った。自分は田辺の担当者じゃないから、他人事なのだろう。昼出版では文花はメンヘラ地雷女だと有名だった。
浅山ミイの事件の時は誰もが文花が犯人だと疑っていた。紅尾もその一人で今も文花が犯人だと思っている。
「『愛人探偵』は酷い感じじゃなかったけどさ。ヒロインがトンデモ女すぎて一般人にはクドイんだろうな。ヒロインの方が犯人じゃないかっていうギャップが笑えるんだけどね。まあ、本当の文花さんよりかなり誇張して書かれてるけどさ」
「そうですか」
売り上げは悪かったが、内容は担当編集者として満足いくもので、紅尾のコメントにちょっとカチンとしてしまった。
「まあ、俺たちはボランティアでやってる訳じゃないし、売り上げ悪いのは切るしかないだろう」
「そうですけど…」
確かに売り上げも大事だだが、発売日から数日で打ち切りが決まるのは厳しい現実だった。よく作家や漫画家達もSNSで、発売後すぐに買うように読者に呼びかけている。本も昔より売れなくなり、本屋の数も減っている。
出版不況はまだまだ続くだろう。それにニュースなどで見ると日本の経済状況も悪く、本を買う余裕のないものも多い人がいる事もわかる。無闇矢鱈に読者に買ってというのも難しい気がするし、だからといってこのまま何もしないっでいるのも違う気がする。常盤は何を出版不況について何をすべきか答えは出なかった。
ただ作家をサポートし、良いものを作るだけだ。実際そんな中でも売れてる作品はあるので言い訳は出来ない。
「やっぱり田辺先生は、ミステリ作家になるのは難しいですかね」
「まあ、あの奥さんは可哀想だけど、今まで通り、恋愛小説書いて貰うしかないな……。お前、ちゃんとこの事、田辺先生にも奥さんにも言えよ」
文花から更に怒りを買う事を予想し、常盤の胃が痛くなった。
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