金川峡にて

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金川峡にて

一.白骨夫人(はっこつふじん)  ここは涼州と甘州(かんしゅう)の真ん中あたり。金川峡のほとりである。  玄奘は松の木の根元にむしろを敷き、野営していた。行李にぶらさげた燭台の灯はいつの間にか消え、辺りはまん丸い月と満点の星明りに、ぼんやりと照らされていた。草の陰では秋虫が涼しげな音色を奏で、湖からはひんやりと湿った空気が漂ってくる。  そんな中、玄奘は一人、静かな寝息を立てていた。  ―― が、草を踏む人の気配を感じ、目を覚ます。 「三蔵法師」  呼びかけられて身を起こすと、黒い胡服に身を包んだ若い女が立っていた。裸足だった。 「沙羅?」  玄奘が見知った妖魔の名を口に出すと、女は、月明りを蓄えた漆黒の目を細め、薄紅色の唇の両端をゆっくりもち上げた。帯を解いて着物を脱ぎはじめる。  草むらを歩みながら、上から順に着物を落としてゆく妖しげな女。月明かりに照らされ浮かび上がったその姿は、やはり沙羅だった。沙羅は一糸まとわぬ姿になると、新雪で作られたようなその肢体で玄奘に覆いかぶさった。   「綺麗でしょう? わたし」  囁くように語りかけてくる。  玄奘はごくりと唾を飲み込むと、沙羅に気取られぬよう顔は見合ったまま、右手を枕の下に差し入れた。  枕の下をごそごそと探る玄奘の手の動きに気付いていない沙羅は、柔らかな掌で玄奘の頬を包み込む。 「欲しければあげるわ。その代わり、お前の体もわたしにちょうだい」  鈴を転がすような声で誘ってきた。  ようやく玄奘の右手が、枕の下で目的の物を掴みとった。金の梵字が書かれた、赤いお札である。 『どこでもいいのさ。どっか身体に貼っちまえば』  別れる前に、悟空に言われた言葉を思い出す。   ―― 顔面は駄目だ。かわされやすい。  玄奘は掴みとったお札を、沙羅の肩に貼ることに決めた。 「私は、出家の身なので……」  会話で注意をそらしながら、そろりそりろりと、札の裏面を乳白色の左肩に近付けてゆく。  そして赤い札が左肩裏に届こうとしたその時。 「ぎゃあ!」  固い物がぶつかった鈍い音とともに、目の前にあった白い裸体が、悲鳴を上げて横へふっ飛んだ。  玄奘は驚いて目を見開く。 「あたしのお尻は、もっと引きしまってる!」  怒声と共に素っ裸の沙羅の後ろから現れたのは、中華鍋を握り締めた沙羅だった。きっちり着物を着ている彼女は、さあもう一撃、と鍋を振り上げる。  慌てた玄奘はお札を握り締めたまま、中華鍋を持つ細腕を掴んだ。 「待って下さい! もう死んでいます!」 「え、嘘でしょ」  嘘ではなく、素っ裸の沙羅は白目をむいて息絶えていた。 「あらホント。でもこの死に顔、ちょっと不細工よね」  本物の沙羅が鍋を下ろして、偽物をもっとよく観察しようと身をかがめる。その時、悟空の怒鳴り声が闇夜に響いた。   「ばっきょろーよく見やがれ! そいつは『解屍(かいし)の法』だ!」   「「えっ!?」」  玄奘は沙羅と顔を見合わせると、もう一度死体を見た。  なんとしたことか。遺体が、沙羅ではない別の女に代わっている。    見知らぬ女の死体を前に言葉を失っている二人の横を、如意棒を脇に挟んだ悟空が猛スピードで走り抜けた。  続いて、半月刃の付いた杖『降妖宝杖(こんようほうじょう)』を構えた悟浄が。最後に、まぐわを担いだ八戒が、腹を揺らして駆け抜けてゆく。 「本体はあっちだよぉ!」  黒豚の短い指が指し示した先を見た玄奘は、「あっ」と声を上げた。  なんと、骸骨がすたこら逃げている。 ―― あれでどうして分解しないのか。  そんな場合ではないと思いながらも、玄奘は不思議で仕方が無かった。 「嘘でしょ何なのあれ!?」  沙羅も鍋を放り投げて走りだした。   「こんにゃろー白骨夫人(はっこつふじん)! オメエのせいで、オイラはおっしょさんに破門されたんじゃぁー! この恨み、はらさでおくべきかー!」   前にいた世界で腹にイチモツ抱える出来事があったらしい。  いきり立った悟空が、二足走行から四足走行へ変える。スピードが増した。  しかし如意棒が邪魔をしているのか、どうにも思ったように走れない様子である。しかも骸骨の逃げ足は存外、速い。  これでは逃げられると思ったその時、一足遅れた白馬が走って来た。玉龍である。玉龍は、玄奘の横で停止した。  乗れ、という事だと玄奘は察した。  飛び乗った玄奘を乗せた玉龍は前足を上げ高く嘶くと、疾風の如き早さで駆け出した。あっという間に沙羅を追い越し、次に八戒を追い越し、悟浄を追い越し、やがて先頭を走る悟空を抜かす。 ―― これなら追いつく!  玄奘は左手で手綱を掴みながら、しわくちゃになったお札を口に挟み、右手で皺を伸ばした。  白骨夫人が目の前まで迫る。  玉龍は速度を落とさなかった。このまま横を駆け抜けるつもりなのだと確信した玄奘は、左手に札を持ち、手綱を少し右へ引いて玉龍を誘導した。    玉龍の頭が、白骨夫人と並ぶ。玄奘は身体を左側へ倒した。  追いついた玉龍と玄奘に振り向いた頭骸骨が、眼窩を広げて「きゃああ」と甲高い悲鳴を上げる。  玄奘はすり抜けざま、骸骨の脊椎にお札を貼り付けた。
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