甘州にて

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五.黒風怪の部屋 「これは……凄い」  部屋の壁という壁を覆い尽くすように、金色(こんじき)の袈裟が飾られていた。 「え、なに? なんか全面キンキラ金ね」  丸い目を細めた沙羅が、風情の無い言い回しで部屋の様子を表現した。よく見えていないのだから、それも致し方ない。 「袈裟がかかっているんですよ。分りますか?」  床に下ろされ、しっかり四本足で立った沙羅は「なんとなく」と答えた。  頭を柱にぶつけた時よりは、視力が回復しているようである。  それにしても、壮観だった。  玄奘は部屋の中央に進み出て、四方を囲む袈裟の山を眺めた。  黒風怪が盗んだものとみて間違いは無いのだろうが、どれをとっても芸術品と言える素晴らしい一品ばかりである。  よくこれだけ袈裟ばかり集めたものだと、玄奘は黒風怪の執着ぶりに呆れた。 「あたし達もね、念の為目薬を買っておいたのよ。一個だけね。それで、ついさっきまで誰が使うかでもめてたんだけど、あんたの匂いがしたから一番小柄なあたしが目薬を使って、穴を掘って抜け出して来たの。鼻も耳もよく利くしね」  黄風大王に見つかって捕まったのが二日前。つまり目薬一つに二日間も争っていたという事か。  玄奘はこれにも呆れたが、「なるほど」と相槌程度でとどめておいた。 「その目薬なら、私も持っています。大仏寺の住職に頂いたので」  丁度二瓶、衣の袖にあると言うと、沙羅が「でかした三蔵!」と弾んだ声を出した。 「それで、悟浄と八戒の所へはここからどうやって――」  沙羅に振り返り、どうやって行けばいいのか訊ねかけた玄奘だったが、慌てて顔を戻した。沙羅が犬の姿を解いていたからである。床にぺたりと座り込んでいる人間の体に、衣は羽織られていなかった。 「地下に通じる階段があるのよ。方向は匂いで分るわ。でももう少し視力が回復してからにして頂戴」  沙羅の説明を背中に聞きながら、玄奘は「分りました」と頷いた。しかし、後ろからかけられた「どうしたの?」という問いが耳元で聞こえたため、驚いて飛び退く。   「まずは服を探しましょう」  挙動不審に部屋を漁り始めた玄奘に、沙羅は合点がいったのだろう。「ああ」と低い声で不機嫌な応答をした。  ぺたぺたと裸足で石床を歩く音が遠ざかる。  距離を取ってくれたのだと分り、玄奘は安堵した。 「食べられるはずのものを食べないとか、女を遠ざけるとか。僧侶は生き物をやめたいんだとしか思えないわね」  しかし、しっかり文句は言われた。 「煩悩解脱(ぼんのうげだつ)。すなわち本能から自由になる為、持戒(じかい)は不可欠ですから」  答えながら、玄奘は肩を落とした。一応、部屋を一通り探しはたが、袈裟以外何も見つからなかったのである。袈裟だけで裸体は隠せない。  ブッ、と沙羅が吹き出す。 「煩悩解脱したんなら、そうやって目を逸らす必要すらないんじゃないの?」  からかうように笑ってきた。 「解脱したのではなく、解脱しようとしているんです」  玄奘は、自分の法衣を一枚脱いで沙羅に羽織らせた。まだよく見えていないようなので、袖を通すのを手伝った。その際、牛魔王に刻まれたという新術の証を左胸に見つけた。肌に根付いているような墨文字に禍々しいものを感じたが、何も言わず襟を合わせ、衣の紐を結んでやる。  沙羅は幼子のように、黙って着衣を手伝わせた。そもそも、裸体を隠そうという気がなさそうだった。  妖魔は裸体をさらす事に抵抗が無いのだろうか。それとも沙羅が大胆過ぎるだけなのだろうか。  どちらにしても、服がある場所まで犬の姿でいてくれたならよかったのに。と玄奘は、つい恨み言を頭に浮かべてしまった。  どう頑張っても目に入ってしまった沙羅の体は、白骨夫人が化けた豊満な肉体とは似ても似つかない細作りだった。しかし、肌は真珠のように(やわ)い輝きを秘め、全身の輪郭は白樺の木のようにしなやかで美しかった。  柱にぶつけてできたコブは、早くも引いていた。  玄奘は指の背で、艶やかな前髪に覆われている額をサラリと撫でた。      玄奘の法衣は沙羅には大きすぎた。腰から下は両側に切れ込みが入っている為、脚はさばきやすいが、裾を()ってしまうのが難点だった。沙羅は適当に一枚袈裟を壁からはぎ取ると、肩紐部分を引きちぎってそれを腰に巻いて帯とし、裾の長さを調節した。    やがて黒い瞳に本来の輝きが戻り、焦点も合うようになった沙羅は、袈裟の山を見まわして、にやりと悪戯な笑みを浮かべた。 「これは使えるわね」  何か妙案を思いついたようだった。
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