甘州にて

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七.観音真言  五人と一頭は、容赦なく弓を射られた。飛んでくる矢を避けながら、逃げるのがやっとである。反撃の隙などなかった。  正に多勢に無勢である。 「ははははは! 放て放てー!」  優勢になった黒風怪(こくふうかい)は、黄風大王(こうふうだいおう)の妖群を指揮しながら、嬉々として悟空達を負い回す。 「こんにゃろう調子に乗るんじゃねーっ!」  いきり立った悟空が、玄奘の肩から飛び出そうと両手足を踏ん張って尻を浮かす。  いくら悟空でも、この数を相手にするのは無理である。玄奘は虎のさるまたを履いた小さな尻をぐいと下に押して、飛び出しを阻止した。   「師父、何でもいいので真言を唱えて下され! お願い致す!」  膝を高く上げ胸を張るような姿勢(フォーム)で隣を走っている悟浄が、大きな目を更にまん丸に広げて、玄奘に要求してきた。 「何でもといわれても――」  玄奘は困った。真言は数千、数万存在するのである。玄奘が覚えているだけでも、二千はくだらない。それを一から唱えていては、日が変わる。  痛い! と悟浄の隣を走っている八戒が悲鳴を上げた。見ると、尻に矢が一本刺さっていた。  もはや事態は待ったなしである。  「奴の輪っかは観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)がはめたもんだから、とりあえず観音真言からだ!」  悟空が叫んだ。  玄奘は頷く。玄奘が覚えている観世音菩薩の真言は、二つ。 「唵嚕鶏入縛羅紇哩」 「違うそれじゃねえ!」    悟空が如意棒で矢を跳ね返しながら不正解を告げた。ならば次である。 「唵摩訶迦嚕尼迦娑縛訶」 「それもボツ!」  今度は沙羅が、後ろを振り返りながら言った。絶妙なタイミングで、黒風怪のピンピンした笑い声が聞こえた。  玄奘はそこから、手当たりしだい様々な仏の真言を唱えてゆく。途中、うっかり緊箍呪(きんこじゅ)を唱えてしまい、頭を抱えた悟空が「あんぎゃあ!」と悲鳴を上げて、玄奘の胸元からぽろりと落ちた。 「すみません間違えました!」  玄奘は慌てて戻り、悟空を拾った。頭を押さえて丸くなっている小さな塊を胸に抱いて矢を避けながら、引き続き真言を唱える。  ふと、視界の隅に小さなお堂の扁額(へんがく)(看板)が見えた。そこには梵字(ぼんじ)で仏の名が刻まれていた。  一つの可能性を見出した玄奘は、頭に浮かんだ真言を唱える。 「ॐ अवलोक्तेश्वराय स्वाहा(オーム アヴァローキテーシュヴァラーヤ スヴァーハー)」 「おぎゃああ!」  後ろで悲鳴が聞こえた。振り向くと、黒風怪が頭を抱え、悶絶していた。 「当たりだよぅ!」    八戒が飛び上がって喜んだ。矢が尻に刺さったままである。妖魔は存外、丈夫な生き物のようだと玄奘は感心する。  黒風怪の後ろをついてきた妖群は、先鋒が突然戦闘不能になったことで、弓を射るのも忘れておろおろしている。  これ以上逃げる必要はないと判断した玄奘らは、足を止めた。玄奘に担がれていた悟空以外全員、玉龍までが、ぜえぜえと肩で息をしている。 「何の真言だったの?」   「サンスクリット語の、観音、真言です」  沙羅からの問いに、玄奘は息を切らせながら答えた。 「「「「あ、そっちか~!」」」」  四人が揃って額を打って天を仰いだ。黒風怪に罵り返した時も声を揃えていたが、この四人はなかなかに気が合うようだと玄奘は思った。 「よっしゃ今のうちだ! 赤札大盤振る舞い!」  襟の中にさっと手を入れた悟空が、妖群全体を見下ろせる高さまで跳躍した。そして襟から手を抜いた悟空は、妖群目がけて赤いお札を一斉にばらまく。  青空の下、一面に赤い花弁が舞い散ったような釈迦如来の御札は、まるで意思を持っているように、ぺとりぺとりと妖怪達の体に貼り付いていった。  槍を落としてばったり倒れている黒風怪を残し、妖魔達は景色に溶けて消えていった。 「やれやれ。手間かけさせやがって」  悟空が赤札一枚を手に、黒風怪に近づく。黒熊の武者はピクリとも動かない。気を失っているようだ。  悟空が皮鎧の背中にお札を貼ろうとする。 「ちょっと待って」  その手を、沙羅が掴んで止めた。  あっちに帰す前に、黄風大王(こふううだいおう)の居所を吐かせなければならないのだ、と沙羅は言った。  悟空が目を丸くする。 「イタチ野郎までいるのかよ」 「そうよ。この寺にいるのは確かなんだけど、風を吹かせて匂いの痕跡を消してるから、探せないの」  やれやれ、と首を左右に振った悟空は、如意棒で黒風怪をつついた。 「おい起きろ、黒助」  「おん?」と黒熊の頭が持ち上がる。 「黄風大王(こうふうだいおう)は今どこにいる。答えろ」  のそのそと巨体を起こし、胡坐(あぐら)をかいた黒風怪は、ペッと唾を吐き捨てた。 「知らんわい。あいつは食事の時以外、姿を見せん臆病者だからの」 「あそ。じゃあいいわ」  反抗的な黒熊を半眼で見下ろした沙羅は、玉龍に歩み寄ると、鞍に積んであった袈裟の山を一押しした。どさどさと地面に落ちた袈裟を見て、黒風怪が「あ゛~っ!」と絶叫する。  玄奘を含めその場の全員が、どうするつもりなのかと沙羅の行動を見守っていた。  沙羅は淡々とした動作で玉龍をどかせると、袈裟の山にプッと火を吹いた。  あれよあれよという間に、金色(こんじき)の山が炎に包まれる。  八戒が突っ立ったまま、「あ~、やっちゃった……」と呆れた。 「あああああ! 我の、我の袈裟がぁ~っ」  四つ這いになった黒風怪(こくふうかい)は滝のように涙を流しながら、メラメラとよく燃える袈裟の山を前に、震える手を伸ばす。 「全部盗んだもんだろがタコ」  悟空がにべもなく言い放った。  黒風怪が前にバタリと倒れる。続いて腹のあたりから、ぶちぶちと千切れるような音がした。   「何の音ですか」  眉をひそめた玄奘に、悟空がケラケラと笑う。 「おおかた腸が千切れたんでしょ? 『断腸の思い』なんちって」  冗談なのか、それとも本当に腸が千切れたのか。悟空の物言いに、玄奘は判断に迷った。しかし本当だとしたら命に関わる大事である。  無事を確かめようと皮鎧をまとった肩に手を伸ばした玄奘だったが、手が届くより先に、悟空が鎧にぺたりとお札を貼った。  黒風怪の全身が、透けて消えてゆく。  袈裟泥棒のお帰りだった。  次帰還させるべくは、怪風を生み出す黄風大王(こうふうだいおう)である。
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