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六.太上老君の使い
「だっはっはっ!」
どちらの笑い声だろう、と玄奘は外界の声に耳をそばだてた。瓢箪の中にいるせいか、どことなくくぐもって聞こえるが、多分金角だろう、と予想する。
金は銀に比べて若干だみ声だからだ。
瓢箪に吸い込まれるやいなや、沙羅の手から離れた両刀を掴んだ玄奘は、瓢箪の内壁に刀を突き立てる事で落下を免れていた。更に、壁がごつごつしていたお陰で両足をひっかける事にも成功。
現在は、気を失ってしまった沙羅を腹の上に乗せた状態で、大の字に四肢を突っ張っている。
「おっしょさん、中の酒溜まりにはまっちゃ駄目ですよ! 二・三時間で溶けて血水になっちゃいますからね! はまってたら急いで出て下さいよ!」
なるほど、だから一緒に吸いこまれた石ころが底の方で発砲しているのか。
玄奘は、瓢箪の底を満たしている酒溜まりを覗き見た。
湯に放りこんだ氷の如く、拳大だった石がどんどん解かされてゆく。
瓢箪の中は明るいが全体に赤く、底の酒溜まりはまるで血の池のようだ。玄奘はぞっとした。
ちなみに、こちらの声は外に届くのか。試しに「悟空!」と叫んでみた。
すると外から
「ああ、おっしょう様が生きてるよぉ!」
「生きてるに決まってんだろボケ!」
「早く助け出さねば!」
という三つの反応が返って来た。
怪我は無いかと悟空が訊ねてきたので、怪我は無いが両手足をつっぱって転落を免れている状態なので、あまり長くは耐えられない事を伝える。
「こちらで、どうにかして外へ出る方法はないんですか?」
聞くと、「あるわけなかろうが」とだみ声が答えた。
「外に貼った『太上老君急々如律令奉勅(たいじょうろうくんきゅうきゅうにょりつれいほうちょく)』のお札を剥がして栓を開けぬ限り、お主らは出られんわい」
そして最後に、がはは、というガラガラした笑い声。
「ねえ今、太上老君って言ったの?」
腹の上でもぞりと動きがあったので視線を向けると、沙羅が目を覚ましていた。
玄奘の腹の上で頬杖をつき、うつ伏せに寝そべっている。
沙羅は頬杖をついたまま少し顎を上げると、またクンクンと匂いを嗅いだ。
「そうか。あいつら道教の神の使いだったわけね。線香臭いと思ったわ」
なるほど神の使いならば、悟空が妖力を使えなくなった経緯を知っていてもおかしくはない。玄奘は納得する。
それにしても、妖魔のみならず神まで敵に回すとは。あまり穏やかとはいえなかった。
「悟空はあちらで、神の使いとまで戦ったんですか」
「らしいわね。あっちじゃ、あいつ敵ばっかよ。実際」
玄奘に全身を支えられている沙羅は、優雅に膝を屈伸しながら玄奘にこたえた。まるで布団の上で寛いでいるようである。
今度は銀角の声が聞こえてきた。
「菩薩が老先生に話しているのを聞いたのじゃ。お前が異界の三蔵を助けに地上へ下りたとな。のう、金兄ぃ」
「そうとも弟よ。老先生の目を盗んでこっそり抜け出し、牛魔王の作った通路に我らも独自に道を繋いだのじゃ。これにはいささか苦労したなぁ」
「さあ悟空。今一度、盛り比べといこうではないか」
「さあさあ!」
外は盛り上がってきているようだ。
金角が瓢箪を動かしたのだろう。玄奘と沙羅がいる内部が大きく揺さぶられ、酒溜まりがチャプチャプと音を立てて波打った。
玄奘は落とされまいと、必至に四肢を突っ張る。
これから『盛り比べ』が始まるのだろうか。もし瓢箪が回転させられようものなら――
―― 落ちる。例え耐えられたとしても、酸の酒を全身に浴びる。
これは『のっぴきならない』を越えてしまった大変な状況である。
玄奘は青ざめた。
「迷惑! チョー迷惑!」
悟空のキンキンした声が二人の童子を怒鳴りつける。
「ったくお前ら、首輪すっぽ抜いて脱走する犬っコロじゃあるめえし! 太上老君が心配してるぞ! 早くお家に帰んなさい!」
「「断る!」」
もはや打つ手なし。戦うしかなさそうである。
沙羅が「はああ」と大きなため息を吐いた。
「駄目ね、これは。望みなしだわ」
早々に諦めたらしい沙羅が、まな板の鯉の如く、玄奘の上でだらりと四肢を投げ出した。親にしがみつく幼子がするように、顔面を玄奘の胸にぐりぐりと擦りつける。
「……でもまあいいわ。自分に惚れてる相手と一緒に死ねるなら、それほど不幸とは思わないし」
―― !?
その呟きはおそらく、独り言だったのだろうと思われた。しかしその内容には、独り言として聞き流してはならない大きな誤りがあった。
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