金角・銀角

6/10
前へ
/43ページ
次へ
六.太上老君の使い 「だっはっはっ!」  どちらの笑い声だろう、と玄奘は外界の声に耳をそばだてた。瓢箪(ひょうたん)の中にいるせいか、どことなくくぐもって聞こえるが、多分金角だろう、と予想する。  金は銀に比べて若干だみ声だからだ。  瓢箪に吸い込まれるやいなや、沙羅の手から離れた両刀を掴んだ玄奘は、瓢箪の内壁に刀を突き立てる事で落下を免れていた。更に、壁がごつごつしていたお陰で両足をひっかける事にも成功。  現在は、気を失ってしまった沙羅を腹の上に乗せた状態で、大の字に四肢を突っ張っている。 「おっしょさん、中の酒溜まりにはまっちゃ駄目ですよ! 二・三時間で溶けて血水になっちゃいますからね! はまってたら急いで出て下さいよ!」  なるほど、だから一緒に吸いこまれた石ころが底の方で発砲しているのか。  玄奘は、瓢箪の底を満たしている酒溜まりを覗き見た。  湯に放りこんだ氷の如く、拳大だった石がどんどん解かされてゆく。  瓢箪の中は明るいが全体に赤く、底の酒溜まりはまるで血の池のようだ。玄奘はぞっとした。  ちなみに、こちらの声は外に届くのか。試しに「悟空!」と叫んでみた。  すると外から 「ああ、おっしょう様が生きてるよぉ!」 「生きてるに決まってんだろボケ!」 「早く助け出さねば!」  という三つの反応が返って来た。  怪我は無いかと悟空が訊ねてきたので、怪我は無いが両手足をつっぱって転落を免れている状態なので、あまり長くは耐えられない事を伝える。 「こちらで、どうにかして外へ出る方法はないんですか?」  聞くと、「あるわけなかろうが」とだみ声が答えた。 「外に貼った『太上老君急々如律令奉勅(たいじょうろうくんきゅうきゅうにょりつれいほうちょく)』のお札を剥がして栓を開けぬ限り、お主らは出られんわい」  そして最後に、がはは、というガラガラした笑い声。 「ねえ今、太上老君(たいじょうろうくん)って言ったの?」  腹の上でもぞりと動きがあったので視線を向けると、沙羅が目を覚ましていた。  玄奘の腹の上で頬杖をつき、うつ伏せに寝そべっている。  沙羅は頬杖をついたまま少し顎を上げると、またクンクンと匂いを嗅いだ。 「そうか。あいつら道教(どうきょう)の神の使いだったわけね。線香臭いと思ったわ」  なるほど神の使いならば、悟空が妖力を使えなくなった経緯を知っていてもおかしくはない。玄奘は納得する。  それにしても、妖魔のみならず神まで敵に回すとは。あまり穏やかとはいえなかった。 「悟空はあちらで、神の使いとまで戦ったんですか」 「らしいわね。あっちじゃ、あいつ敵ばっかよ。実際」  玄奘に全身を支えられている沙羅は、優雅に膝を屈伸しながら玄奘にこたえた。まるで布団の上で(くつろ)いでいるようである。  今度は銀角の声が聞こえてきた。 「菩薩(ぼさつ)が老先生に話しているのを聞いたのじゃ。お前が異界の三蔵を助けに地上へ下りたとな。のう、金兄ぃ」 「そうとも弟よ。老先生の目を盗んでこっそり抜け出し、牛魔王の作った通路に我らも独自に道を繋いだのじゃ。これにはいささか苦労したなぁ」 「さあ悟空。今一度、盛り比べといこうではないか」 「さあさあ!」  外は盛り上がってきているようだ。  金角が瓢箪(ひょうたん)を動かしたのだろう。玄奘と沙羅がいる内部が大きく揺さぶられ、酒溜まりがチャプチャプと音を立てて波打った。  玄奘は落とされまいと、必至に四肢を突っ張る。  これから『盛り比べ』が始まるのだろうか。もし瓢箪(ひょうたん)が回転させられようものなら―― ―― 落ちる。例え耐えられたとしても、酸の酒を全身に浴びる。  これは『のっぴきならない』を越えてしまった大変な状況である。  玄奘は青ざめた。 「迷惑! チョー迷惑!」  悟空のキンキンした声が二人の童子を怒鳴りつける。 「ったくお前ら、首輪すっぽ抜いて脱走する犬っコロじゃあるめえし! 太上老君が心配してるぞ! 早くお家に帰んなさい!」 「「断る!」」  もはや打つ手なし。戦うしかなさそうである。  沙羅が「はああ」と大きなため息を吐いた。 「駄目ね、これは。望みなしだわ」  早々に諦めたらしい沙羅が、まな板の鯉の如く、玄奘の上でだらりと四肢を投げ出した。親にしがみつく幼子がするように、顔面を玄奘の胸にぐりぐりと(こす)りつける。 「……でもまあいいわ。自分に惚れてる相手と一緒に死ねるなら、それほど不幸とは思わないし」 ―― !?  その呟きはおそらく、独り言だったのだろうと思われた。しかしその内容には、独り言として聞き流してはならない大きな誤りがあった。
/43ページ

最初のコメントを投稿しよう!

4人が本棚に入れています
本棚に追加