双叉嶺にて

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双叉嶺にて

一.唐僧、玄奘 ~ 双叉嶺にて  玄奘(げんじょう)は立ち往生していた。奇妙な輩に、東西南北から囲まれてしまったからである。  二十代の終わりにさしかかるその精悍な面ざしを緊張させた彼は、油断なく四方に視線を巡らせた。背中に守っている二人の少年僧を、この危機的状況から逃がそうとしていたのである。  ここは、双叉嶺(そうしゃれい)を抜ける山道。緑が深く、松をはじめとした針葉樹やブナなどの落葉樹の林が広がっている。  まずそこで、玄奘達の行く手を塞いだのは盗賊だった。人数は五名。いかにもといわんばかりの、人相の悪い無頼漢ばかり。  彼らは、林から躍り出てきたかと思うと、玄奘の正面を塞ぎ、剣を片手に「荷物を捨てろ」と恫喝して来た。  涼州(りょうしゅう)から道案内役として遣わされた、慧琳(えりん)道整(どうせい)という二人の少年僧を行李(こうり)(竹や柳、籐などを編んでつくられた、つづら籠の一種)の後ろに庇った玄奘は、錫杖を構え応戦する姿勢をとった。そこで、後ろから声がかかった。 「見つけたぞ三蔵法師(さんぞうほうし)!」  振り向くと、動物の頭をした人間が三人、刀を手に仁王立ちしていた。六尺近い(百八十センチに近い)玄奘を越える、大男ばかりであった。ちなみに、三人の頭は左から熊、虎、牛だった。  少年僧二人と盗賊の一人が、異形の人を前にして甲高い悲鳴を上げた。  すると今度は、林から若い女が一人、飛び出してきた。  美しい娘だった。しなやかな痩身に黒い胡服をまとい、腰まで届く艶やかな黒髪の一部を両側頭部で丸めていた。飾り気はないが、黒目がちの大きな瞳と鮮やかな唇を持った愛らしい面ざしは蓮の花のようで、その可憐さを色白の肌が一層引き立てていた。  玄奘と少年僧二人はその娘の登場に一瞬恐怖を忘れたが、その娘が腰から短刀を抜いて両手に構えた事。そして、異形の男達が「沙羅、抜け駆けするなよ!」とその娘を牽制した事で、恐怖が戻って来た上に落胆まで禁じえなかった。 「玄奘さま、こいつらは何者です!」 「ご存知なのですか?」  慧琳と道整が順番に、玄奘にしがみついた。  国禁を犯そうとしている玄奘に、追手がかかっているのは二人も承知していた。故に二人は、この異形の三人と美しい娘を、長安の回し者だと考えたのだ。 「私にも分らない」  初めて目にする獣人の登場に、玄奘も肌を泡立たせた。玄奘は獣人三人と美しい娘から、盗賊達とは異なった妙な『気』を感じ取っていた。  清涼の気候になりはしたが、残暑は厳しく、日中の陽射しはまだ強かった。そこに極度の緊張が加わり、玄奘の額から無精髭が残る顎に向かって、嫌な汗がつるりと流れた。 「とにかく、ここは私が何とかします。お前達は逃げなさい」  玄奘は、唯一退路が残された南へと少年僧二人を走らせようとした。しかしここで、邪魔が入った。 「おっしょさーん!」  新たな乱入者が登場したのだ。しかも、頭上から。   ―― 猿?  空から降って来た者の姿に、玄奘は目を見開いた。  その毛むくじゃらの生き物は、四尺(百二十センチ)足らずの身体に、虎の皮で作ったさるまたを履き、擦り切れた十徳を纏っていた。頭には金色の額飾りをつけ、手には赤い棒を握っていた。 ―― と、ブタ?  猿に続いて、黒豚の頭を持った、チベット風の衣裳に身を包んだ出腹の男が。彼は、まぐわを握っていた。 ―― 青黒い人間と、馬も!  次に、青黒い肌に赤い毛髪の僧が。彼は天秤棒の両側に、三日月形の刃と(スコップ)がついた武器を握っていた。  最後に、立派な白馬が。 「危ない!」  とんでもなく高い空の彼方から落ちてきた彼らが無事に着地できるとは思わなかった玄奘は、思わず声を上げた。  三人はずしんと重い足音を響かせはしたものの、両足でしっかりと着地した。白馬は着地に失敗し、林に落ちて痛そうな嘶きを上げた。しかし、どっこい生きていた。  空からの乱入者が塞いだのは、南だった。  逃げようと思っていたちょうど目の前に落下してきたとあって、少年僧二人は腰を抜かさんばかりの勢いで後退すると、再び玄奘にしがみついた。 「な、何だお前ら!」  西。盗賊がへっぴり腰で、獣人や空からの乱入者に剣を向けた。 「あーっ! てめえ、孫悟空だな!」  東。獣人が猿に向かって牙をむいた。 「お前ぇら、死にたくなけりゃあとっとと失せやがれ!」  南。猿がさっと鉄棒を構えた。  北。娘が片足を引いて重心を下げ、臨戦態勢をとった。  玄奘を挟んで、四つ巴の図が出来上がった。  
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