双叉嶺にて

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三.玄奘の味 「どうしてそんなに不味いのよぅ!」    四つ這いでげえげえとえづいている沙羅を前に、玄奘は困り果てていた。彼女が吐いているのは、玄奘の血肉である。 「大丈夫、ですか?」  苦しそうなのでとりあえず、具合を聞いてみた。 「大丈夫な訳ないでしょゲロマズよ! こんな毒みたいな血、蚊も吸わないわよ!」  涙目で捲し立てられた。  誘拐されたのは自分である。噛まれたのは自分である。傷つけられたのも自分である。なのに、何故か責められている。  納得いかない思いを抱きながらも、玄奘は「すみません」と謝った。  玄奘は今、沙羅と二人、双叉嶺山頂の大岩の頂にいる。平べったい岩の表面に座りこみ、爽やかな初秋の風に吹かれている。風を心地よい、と感じる余裕など微塵も無いが。  このような小惨事を招いたのは、沙羅が玄奘の左前腕部を噛ったからであった。  岩の頂にふわりと着地した沙羅の腕が一瞬緩んだ隙に、玄奘は沙羅の腰にある短剣を一本奪うとその細腰に両腕を巻きつけ、下肢を振り上げ逆立ちになった。そのままぐるんと回転して沙羅を横向きに抱え込むと、彼女の白い首筋に奪った短剣をつきつけた。  沙羅は目を丸くしていたが、怖がっている様子は微塵もなかった。 『こっちの三蔵は逞しいわねぇ』  のんびりとした称賛を聞きながら、玄奘は早鐘を打つ己の心臓を落ち着かせようと、呼吸を整えた。 『答え、て下さい』  喋り出すのが少々早すぎたようだ。声が若干震えてしまった。 『あなたの目的は私の強制送還ですか? 上官は誰です。どれくらいの人員が動いているのですか』  慧琳や道整同様、沙羅を長安からの使者だと考えていた玄奘は、この誘拐をチャンスととらえ、役人の動向を聞きだそうとしていた。  天竺への旅行を許可してくれという再三の願書を悉く却下された末に、密出国という手段を取った自分を、太宗皇帝が見逃すはずは無かった。事実、玄奘は先の涼州にて、自分の人相手配書が届いていると都督から知らされ、引き返すよう強要されたのである。  お陰で玄奘は涼州を出てから昨日まで、人目につかないよう夜間の行脚を余儀なくされた。今日になって人通りが少ない山道に入ったことで、ようやく日中に動けるようになったという状態である。   『なにワケわかんないこと言ってんのよ』  張り詰めている玄奘とは対照的に、沙羅の受け答えは余裕に満ちていた。 『あたしの目的は、あんたの肉を食べること』 『え?ーーぐうっ!』  玄奘は思わず、腕の力を緩めてしまった。あ、と思った時には、沙羅に短剣を奪い取られ、岩肌に背中を押し付けられた。  背中を打ちつけた痛みと胸郭を押される圧迫感に、潰れたような声が出た。  身を起こそうと踏ん張ったが、玄奘を押さえ付けている沙羅の左腕は信じられないほど重く、びくともしなかった。 ―― この娘のやることなす事、人間業とは思えない。  生物としての違いを疑ったその時、まるで疑問に応えるように、妖しく微笑んだ娘の口元から二本、尖った白い犬歯が覗き見えた。 『ああ、おいしそう』  可憐な口角から、じゅるりとヨダレが垂れかかる。沙羅はそれを、手の甲でぬぐった。 『無精髭はいただけないけど、面構(つらがま)えはこっちの方が好きよ。頭は最後まで取っといてあげるわね』  妖しい手つきで玄奘の顎を撫でた娘の瞳が、しっとりとした輝きを放った。実に珍しい、黒曜石の如き漆黒だった。  瞳に魅入ったのは一瞬だった。しかしその一瞬の油断で、玄奘は左前腕部に牙を突き立てられたのだった。  
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