双叉嶺にて

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四.人語を喋る猿 「あたしの知ってる三蔵法師はねぇゲホっ。 水気たっぷりの体で、血は蜜の味オエェ……。ほどよく締まった肉は甘い脂肪と香草の香りが漂うぅえぇ、それはそれは美味しそうな人間なのよおゲェ。 なのにあんときたらガチガチのカスカスじゃないの!ーーウエッ」  えぐられたのは、上下左右の犬歯四本分。もっていかれた肉も、すすられた血も、(さかずき)一杯分もない。  しかし、沙羅は摂りこんだ玄奘の血肉を最後の一滴まで吐きだそうとしているかのように、可憐な容姿にはとことん不釣り合いなえずき声を出しながら、嘔吐を繰り返した。  その拒絶ぶりには、流石の玄奘もいささか傷ついた。思いきり噛られた左前腕部は、ずきずきと痛むし、出血もひどい。正直、苦言を呈するべきはこちらであろうもと思ったが、先程から気になっていた事柄があったため、苦言よりも、そちらを優先する事にした。 「人違いでは? 私は、三蔵ではありませんので」 「何言ってんの。あんたどっからどう見ても三蔵じゃないのよ」  人間違いを指摘したが、間髪いれず自信満々に返された。  獣人達が沙羅と呼んでいた、この娘。この娘は自分を知っているようだったが、どうにも言う事がズレている。先程から、会話が噛み合っていない。  玄奘は、はてどうしたものかと束の間思案し、再び口を開いた。 「いえその。三蔵というのは経・律・論の三つの蔵に精通した僧に与えられる僧官で、私は未だ――」「御託はいいのよ宗教なんて大嫌い!」    駄目だ聞く耳を持っていない。  玄奘は押し黙った。 「とにかくあんた、体内環境が最悪なのよ。栄養失調と、疲労とストレスでボロボロじゃないの。それじゃそのうち死ぬわよ! 過労死よ!?」  沙羅がヒステリックに捲し立てた。  どうやらこの娘は、血肉の味で人間の体調が分るらしい。玄奘はこの、人のようで人でない不思議な娘の事を、少しだけ理解できた気がした。  この娘は、自分とは全く異なった世界で生きているのだろう。人知を越えた肉体を持ち、当たり前に人を喰らい、信仰を遠ざける世界で。  きちんと会話をしたいのならば、こちらから歩み寄るしかないのだ。  玄奘はまず、沙羅の世界について理解を深める事にした。それが、この娘とのまともな会話に繋がる近道だと考えたからである。 「あなたは日常的に人を食するんですね」 「そうよ。人肉はご馳走。それも、あんたみたいな高僧は珍味なの」 「何故、宗教がお嫌いなんですか」 「身体が受け付けないからに決まってるでしょ」 「僧侶の肉は好むのに?」 「だからそれはーー」  流れるような質疑応答が続いた最後。玄奘の問いかけに対し何かを答えかけた沙羅だったが、「あ」の口のまま固まった。口を開けたまま眉を寄せ、首を傾げる。 「……そうね。言われてみたら妙だわ。何でかしら」  口元に手を当てると、難しそうな顔で考えはじめた。  どうやら根は素直な娘らしい。ころころと表情が変わる様も、見ていて面白いと感じた玄奘は、ほんの少し、沙羅に対する警戒を解いた。 「とにかくあたしはお館様のお言いつけで、あんたを食べない事には元の世界に帰れないの! そんなわけだから我慢してイタダキマあいやぁっ!」  心臓に近い場所であれば比較的血が清いと判断したのであろう。今度は喉笛に噛みつこうとしてきた沙羅だったが、可愛らしい悲鳴を上げるとその額を玄奘の胸元に激突させた。  ずるりと崩れ落ち、動かなくなる。  沙羅の傍には、どこかで見たような赤い鉄の棒が転がっていた。  どうやらこの赤い鉄棒が沙羅の後頭部を直撃したらしいと判断した玄奘は、自分の腿の上で気絶している沙羅の丸い頭をまさぐり、傷を負っていないか確認する。    すると、大岩の下からニョキリと手が伸び、岩の端をむんずと掴んだ。子供のもののような小さなその手は、純白の毛に覆われていた。   「くぅぉんのクソ女がぁ~っ……! おっしょさんに何しやがる!」  岩を掴む手の方から、怒髪天をついた声が聞こえてきた。その声は、子供のものではなかった。どちらかといえば青年期を迎えた男のものに似ている。  せり上がって来た顔は、猿。黄金色の額飾りの下に並ぶ二つの赤い目が、これでもかというほど吊りあがっていた。  玄奘は思い出した。この赤い鉄棒は、猿が持っていたものである。  確か熊の獣人が、猿に向かって『そんごくう』と呼んでいた気がするがーー。  そして、猿がその全身を岩の上に持ち上げた時、玄奘は己の目を疑った。 「玄奘様!」 「ご無事ですか玄奘様!」  慧琳と道整が、猿の背中に乗っていたのである。  猿の身長は十歳の子供程度。それが、背中に十五歳の慧琳と、十六歳の道整を負ぶっていた。つまりこの猿は二人を背負いながら、山頂まで登って来たのである。この短い時間で。  おまけに慧琳と道整の二人は、玄奘の錫杖を持ち、行李まで背負っていた。 「ご……ごくう?」 「はいよぉ、おっしょさん」  気絶している沙羅を睨みつける猿が、フウフウと憤怒の息を吐きながら返事をした。  やはり『悟空』というらしい。  奇怪な事ばかりが立て続けに起きている。猿が人語を話した、という珍事など、もはやどうでもいいくらいに、玄奘は混乱していた。
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