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円周率は知っている。
自分の兄貴的存在、コウタロウが電信柱の陰に隠れてなにを見ているかを。
「静かにしろよ、円周率」
小声でそう言い、コウタロウは首を伸ばす。
時刻は十八時半。そろそろ散歩を終えて帰らなければならない時間だ。お腹もすいてきた。ドッグフードってやつの良さが最初はあまりわからなくてハンストしたりもしていたが、最近、ドッグフードの上に柔らかい魚の肉をほぐしたものを乗せてもらえるようになり、食べてみたらドッグフードとのマリアージュがたまらず、早く家に帰って食べたいと円周率は思っている。
だからここで、わん、と一声吠えれば、この覗き行為も終わらせられるので、吠えてやりたいところではある。
しかし、コウタロウの気持ちを考えるとそれも気が引けた。
コウタロウが覗くそれを円周率も電信柱の傍らからついと顔を覗かせて眺める。
道路を挟んだ向かいにコンビニがある。そのコンビニの横手に人影がある。人影は二つで若い男女だ。
どちらもコウタロウより少し年上に見える。その彼らは常に同じ行為をしていた。
その行為とは……キッスである。
彼らは飽きもせず毎日毎日、同じ時間にあの場所でキッスをしていた。
本当なら円周率の散歩コースはこの道ではない。だが、気まぐれに円周率が散歩コースを変えた日、偶然彼らがキッスをしている姿を目撃してしまってから、コウタロウは円周率との散歩コースをこの道に変えてしまった。
そして電信柱に身を寄せ、彼らの姿を飽きもせず眺めるようになった。
円周率としてはそんなことより早く帰ってご飯を食べたい。
けれどコウタロウが彼らの行為にいたくご執心であることはわかる。
自分にご飯をくれ、散歩を毎日欠かさずしてくれるコウタロウが、これほどに夢中になっているのだ。
自分も応援したい。
「ああやってさあ、つい外でキッスしちゃうのってさあ、やっぱり恋してるからなのかなあ。恋かあ。俺もしたら恋してる物語書けるのかなあ」
……コウタロウの将来の夢は作家だ。
作家になるためにはいろんな感情を知らなければならない。コウタロウがまだ知らない恋という感情も。
だからコウタロウはこうして電柱に張り付いている。
・・・ということになっている。
けれど円周率は知っている。
コウタロウがしばしば、散歩コースの途中にあるスイミングスクールの看板に描かれたお姉さんの胸に顔を埋めて、えへへ、と呟いているのを。
円周率、という自分の名前を、あのお姉さんの看板を眺めているときに思いつき、π(パイ)からイメージして、円周率にしたことも。
ようするに……こじつけなのだ。
夢のためも確かにあるかもしれない。
しかし覗きたい衝動に抗えず、コウタロウは今、電信柱の陰でこうしている。
しょうがないなあ、と円周率は思う。
思うが……円周率はこんなコウタロウも嫌いじゃない。
いいじゃないか。どんなだって。
あほだなあ、とは思うけれど、彼らのキッスがあるおかげで、前よりもコウタロウは散歩に積極的になってくれた。
連れて行ってもらう側としても仕方なしにリードを持たれるよりは、うきうきで持ってほしい。その意味でこれは悪くない。
それに、円周率はコウタロウの発する「キッス」という言葉が好きだなあと思ってしまう。
キッス、というその発音がなんだかとても大切なもののことを言っているように聞こえるからだ。
コウタロウにとって、彼らのキッスはそれだけ特別ということなのだろう。
誰かにとっての特別。
それはなんて素敵なことなのだろう。
コウタロウにとって自分は特別だろうか。
時々、円周率はそんなことを考える。
キッスみたいに、自分もコウタロウにとって特別だったらいい。
コウタロウにとって、自分が特別なイッヌになれたらいい。
円周率はコウタロウ共々首を伸ばし、彼らのキッスを眺める。
キッスに夢中の彼らはコウタロウにも円周率にも気づいていない。
それでいい。
今後もコウタロウのために、そしてコウタロウと円周率の散歩が楽しくて実りあるものとなるために彼らにはキッスを楽しんでほしい。
どうかこれからもよろしく頼むよ、と念じながら、円周率は今日も電信柱に張り付くコウタロウの隣で、巻いた尻尾をついと上げて立っている。
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