終曲(フィナーレ)

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 開発されたんは駅前だけで、少し離れれば古びた景色が続く。高校までの道も、校舎も変わりない。土日祝が休みといっても、部活動や夏期講習で使うこともあるから、学校の門は開いている。  玄関でスニーカーをスリッパに履き替え、職員室で鍵を借りると、音楽室に向かう。教師も生徒も少なく、廊下を歩いても、誰とすれ違うこともなかった。二階にある音楽室前で立ち止まり、ドアに手をかけようとして、ふと思う。  あれ、忘れ物ってなんやったっけ?  家族との時間を割いてまで来た。ものすごく大事なことのはずやのに、そもそもなんでここに来たんか、理由すら見失う。  痴呆には早すぎるやろって、首を傾げて苦笑いした時やった。  ――ポロン、ポロン。どこからか流れてくる、優しい音色に鼓膜が震える。寄せては返す波のように、心に触れて引き寄せる。  思わず開いたドアの先には、見慣れた楽器が並んでいる。漆黒のグランドピアノも、変化なくただそこにあるだけ。  明るいのに切なくて、緩やかやのに力強い。この音を知っている。忘れるはずがない、魂を浄化する「子犬のワルツ」。両手を添えた耳に、全神経を注いで奏者を探す。  ここやない。ならあっちか、こっちか。  辺りを見回しながら、手当たり次第に教室を開いては、別の場所に移動する。少しずつ近づいている気がして、夢中で校舎を駆け巡り、どんどん階段で上り詰める。屋上に続く銀色のドアノブを掴んで、乱暴に動かすとガチャンと錠が外れた。体重を預けた勢いで、一気に奥に開いたドアから、爽やかな風が吹き込む。  見上げた空、どこまでも広がる澄んだ青、ああ、聴こえる。あの向こうに、憧れ抜いたピアニストが。もっと、もっと、近くで聴きたい。  たどり着いた金網に手をかけ、足をかけ、高みへ昇る。頂上から望む景色に、伸ばした右手を重ねる。風の感触と鼓動の響きが、曲に溶けて一つになる。俺の青春(じんせい)のすべて。  春歌、もっと、お前の音を聴きたい。  了
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