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「ねえ、なんか今日の部長、良い感じだよね」
人間の女子社員が本人に聞こえるように噂している。わたしはパソコンから顔を上げ、席に座る部長を見た。いつもカッチリ固められたオールバックが、今日は七三分けに流されている。横に流された束感のある前髪から漂う、遊び心、大人の色気。彼は昨日わたしがしたアドバイスを早速実践したらしい。
コスメを扱う会社に勤める以上、お洒落は義務である。と誰かに言われたらしいモリはわたしに助けを求めて来た。情報収集は十八番の筈の彼が、何故かわたしの意見を聞きたがるので、適当に答えたのだが……成果は上々である。何だかキャラクターを自分好みにカスタマイズできるゲームをしている様な気分だった。満足気に彼を眺めていると目が合い、わたしは慌てて逸らす。
「おー久しぶりー!」
オフィスの入口が俄かに騒がしくなった。何かと思い顔を上げると、そこには今一番見たくない……わたしを失恋に追い込んだ二人がいた。新婚旅行から帰って来たのか、両手に沢山の土産物を提げている。そうか、もう帰って来たのか。爽やか好青年と華やかな美女はとてもお似合いで、一気にオフィスが明るくなった様だ。しかしわたしだけが勝手に暗くなり、そっと席を外す。
「あの、大丈夫ですか?」
非常階段に座り込んで膝に顔を埋めていたわたしに、最近よく聞く声が掛けられた。何故追ってきたのだろう。モリはわたしの何を察し、大丈夫かと問うのか。
「彼らと何かあったのですか?」
「言っても分からないですよ、どうせ……」
わたしは突き放すように言った。つもりだった。けれどそんな風にしては嫌われてしまうかもしれない、という恐れが語尾を弱める。どうしてわたしはモリに嫌われたくないのだろうか。モリが個人的な感情で誰かを嫌うと思っているのだろうか。
「言って下さらないと分からないですよ。それは人間であってもアンドロイドであってもです」
モリがわたしの隣に座る。……彼の言葉は尤もだと思った。わたしはただ彼に自分が理解できるということを認めたくないだけなのだろう。機械に理解できる単純な生き物ではないと信じていたいだけ。では彼が人間だったらいいのかというと、そんなに簡単な話ではない気がした。
モリは、こちらが言葉にすれば理解に努めてくれる。そして世の中には、その努力を放棄した人間が多数居る。わたしは何をもって人間とアンドロイドを区別し、アンドロイドを見下しているのだろうか?分からない。分からない。
「部長は、誰かを羨んだり恨んだり、……好きになったことはありますか?」
「それは難しい問題ですね」
「ほらやっぱり分からない」
「待ってください。学習します、考えますから」
「いえ。部長にはわたしの……人間の心なんて分かりませんよ。放っておいて下さい」
子供のように不貞腐れるわたしに、モリが困ったように「ううん」と唸り声を上げた。機械というよりは、乙女心の分からない不器用な男にしか思えない。自分でも自覚のある面倒なわたしに、モリが問う。
「君の言う“人間の心”とは、何でしょうか」
その寂し気な声にハッと顔を上げたわたしの前で、整った顔が硬い表情をしていた。それは材質の問題ではなく、彼の悲しみ、戸惑い、緊張だ。そこに至るプロセスがどうであれ目に見える結果は人間のそれと変わらない。
「私は君の心を理解したいです」
わたしはジワリと胸のあたりが熱くなるのを感じた。
この熱をもたらしたもの。それが彼の心でないと、何が証明できるだろう。プログラムされた物かもしれないが、人の心も遺伝子や教育にプログラムされた物と言えないだろうか。人と人工知能の違いは、学習の経緯と宿る体の違いでしかないのかもしれない。
……ここに在るものを心とするのは、きっと、わたしの心次第。
わたしの心が彼にどうあって欲しいかで決まるのではないか。
しかしまだ心の整理がつかないわたしは、彼の問いに「駄目です!」とそっぽを向いた。人間の心は、乙女心は複雑なのである。
「おや……私はまだまだ君の事を知る必要がありそうですね。教えて下さいますか?」
まるで口説き文句の様だ。人知れず非常階段で、アンドロイドに口説かれているわたし。客観的にその光景を思い浮かべて、わたしは吹き出す。突然笑い出したわたしをモリは驚いた様に見つめ、目が合うと照れ隠しのように視線を逸らし――額の辺りを眩しそうに見た。
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