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我に返ると、私はマンションの部屋の玄関の前に立っていた。
そして、隣の玄関の前には令が立っていた。
「それじゃ」
私はバッグから鍵を取り出した。
ふと、冷蔵庫には何も入っていないし、ベットのシーツは剥がしてあるし、掛け布団もクローゼットに片付けてしまったことを思い出した。
「菜々さん、あとで行ってもいい?」
令がいつものセリフを言った。
「今、うち、何もないの。お茶も淹れられないのよ。だから…」
そう言いかけた私を彼が腕を掴んで、引き寄せた。
「じゃあ、今日はこっちにおいでよ」
彼は玄関の扉を開けた。
「さあ、どうぞ」
彼は私を抱き寄せたまま、中に入り、後ろ手で鍵を閉めた。
「今夜は眠らせないよ」
彼は、私の耳に唇を寄せ、甘くとろけるような蜂蜜ボイスで私に囁いた。
「だめよ、明日もライブでしょ。ちゃんと喉のケアをして寝なさい。私は部屋に戻って寝るから」
私は彼を押し戻して玄関のドアノブに手をかけた。
「本当に?本当に帰っちゃうの?本当に帰りたいのかな?」
私は帰らなくちゃとわかってはいるけれど、その甘い声には逆らえそうにないことに気がついていた。
私達はこれからどうなるのだろう。私は無職になってしまったし、先行きは不安だらけだ。
けれど、今は、この甘くとろける蜂蜜に溺れてしまいたいと思った。
私はドアノブから手を離し、振り返って、彼の胸に飛び込んだ。
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