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Happy birtheay 琳くん
Happy birtheay 琳くん
Happy birtheay dear……
七月六日
十六年前の今日。鞍田家の長男でわたしの弟である琳翔 が生まれた日。
テーブルの夕食はいつもより華やかで、母さん手作りの小さなショートケーキにはバースデープレートが飾られていた。
三人で手を叩いてハッピーバースデーを歌ったあと、隣の席を見て母さんが目を細めた。
「琳くん、お誕生日おめでとう。もう二歳になっちゃったね。早いねえ」
琳が、……天国へ旅立ってから二度目の誕生日。
誰も座っていない琳の席にはアンパンマンの食器が並べられ、甘酸っぱいソースの掛かったハンバーグにはつまようじの旗が立っている。琳が小さい頃に好きだったやつだ。
「……、パパと莉子から琳にプレゼントがあるからね」
箸を持つ前に父さんが琳の席に話しかけて、わたしはキャビネットにしまっておいた空色の箱をそっと置いた。
「木のおもちゃって言ってたでしょ。消防車のがあったからそれにした」
「わあ、琳くん消防車だって。よかったねえ。明日ママと遊ぼうね」
声が出そうになって言葉を止めた。
口を開いたら大きな声で笑ってしまうか泣いてしまうか分からない。今笑ってしまったら、わたしも母さんと同じ世界に行ってしまう。
一年前 四月十三日 午前二時五十分
琳は……。
夜が明けた頃に掛かってきた電話に母さんはパニックを起こしてしまって、わたしも頭の中ががくがく震えて身体に力が入らなかった。
警察 深夜 徘徊 バイク 暴走 それと……自傷。聞かされたのは、どれもわたしたちの家族である鞍田琳翔とは無縁なことばかりだった。
……ううん、わたしたちが気付けなかっただけ。琳の中にも、琳だけが知ってる世界があった。
早朝の病院。灰色の壁、灰色のドア。目に見えるもの全てが灰色で。ドアに、霊安室、と書かれていたのを思い出す。
日が高くなった頃に女の家から駆けつけてきた父さんに、母さんは叫びながら殴りかかって数人がかりで別室へ連れていかれてしまった。あの時に母さんの心は……。
わたしは入ることを許されず、父さん一人で入ったドアの向こうから低いひくい唸り声がずっと聞こえてた。
父さんも泣くのだと初めて知った。
それからは父さんが毎日帰宅するようになり、母さんは何も話さなくなり、わたしは家の中で大きな声で言い返すこともなくなった。
母さんの心の中にはあの日から赤ちゃんの琳がいて、母さんの世界にいるのは小さな琳の一人だけになってしまった。
金曜日。期末テストが終わった帰り道、塩野と並んで駅まで歩いた。塩野蓮二。名前が蓮二なものだから、れんち、と呼んでいる。
入学式で隣の椅子に座っていたのがきっかけだから、もう三年目という感じ。長いんだか短いんだかは分からない。
「土曜か日曜にさあ、予定ある? なかったら映画行かね? 今スパイダーマンやってるし」
そのシリーズはわたしも好きな映画だ、……けど。週末、わたしにはひとつ計画していることがあった。
「土曜がね、わたし、……港に行こうと思ってて」
「あー、あぁ……、そっかあ」
れんちは俯いて耳の後ろを掻くと、こっちを向いた。
「今度さ、俺も、一緒に行くよ」
「……うん、……そおね」
今度はわたしが首を掻いた。
「わたしもスパイダーマン観たいから、やってるうちに行こうね」
そうだな、と言ってれんちが笑った。
塩野蓮二は春の王様だ。夏の激しさとも冬の厳しさとも違う。そして静穏な秋よりも暖かい。
れんちもわたしも先月に部活を引退して、これからはそれぞれの受験の準備をしないといけない。
れんちはⅢ類採用試験を受けるから、しばらくは遊ぶ時間が作れない。でもふたりの夢が叶ったら、将来は消防士と看護師だ。いんじゃね? と、れんちの真似をして心の中で呟いた。
あっという間に駅に着いてしまい、そこでれんちと別れた。今日はいつもより時間が早く感じた。気まずい時は駅までの時間がとても長い。同じ距離なのに全然違う。ホームの向かいの舗道から電車に乗るれんちを見送って、わたしは自転車で走り出した。
土曜日。今日は朝から良い天気。リビングでは母さんがにこにこしながらおもちゃの消防車を眺めていた。二歳になったばかりの琳は楽しそうに遊んでいるんだろう。これから琳の部屋を掃除してベッドを整えるのが母さんの日常だ。
「わたしもう出るけど、三時頃には帰るから」
「ああ、そう。いってらっしゃい」
ちょっと待ってみたけど母さんは振り向かなかった。小さく、いってきます、と声を掛けて、そのまま自転車で家を出た。
駅前でツナマヨのおにぎり二つとお花を買ってクーラーボックスに入れ、わたしは港を目指して国道の方に向かった。自転車の充電が切れないように気をつけなくちゃ。
本当は湾岸道路から行きたいけど、あの道は自転車では無理そうだから。
住宅地から公園を抜けて、港に通じる国道に出た。バイクならすぐに湾岸道路に出られるんだろう。夜の道をひた走るふたり乗りのバイクが頭に浮かんだ。……。今は走ることに集中しよう。
一時間ほどで、道なりにコンクリートの塀と巨大プラントが現れた。埋立地に聳えたつ製鉄所。港まであと30分くらいか。
確か正門近くに赤い自販機があるはず……あった。この自販機だ。すぐそばに街灯もある。ふたりはここに立ち寄っていたのだと、……あの日警察署で聞いた。
「あら、お姉ちゃん。暑いわねえ」
えっ、と振り向くと犬を連れたおばさんが通り過ぎるところだった。
「こんにちは。……はは、あっついですよね」
わたしは自販機の前でぼんやりしていたみたいだ。少し休憩しよう。
サイダーを二本買ってクーラーボックスにしまい、縁石に腰掛けた。日なたでしっかりと温もっている。向かいの製鉄所の緑がさわさわと揺れるのを眺めながらポカリを飲むと、気持ちがすうっとした。ここでふたりにも……少しでも癒しがあったのなら。
深夜の街灯の下。ふたりは何を話して、何にかきたてられて、ここから埠頭まで行ったのだろう。ただパトカーから逃がれようとしていただけだったのか。
……。そうなんだろうか。……ふたりはここで一度バイクから降りたあとに、自分たちの意志で海を目指した、、のではないだろうか。そう思えて仕方がなく、いつもわたしは怖くてそれ以上は考えることができない。
琳とは中高に上がってからはもう喧嘩をすることもなく、そして打ち解けた話をすることもなくなっていた。琳はどういう風にものを感じて、自分を傷つけていたんだろう。最後に見た琳。食卓で俯いていた。
わたしからもっと話しかければよかった。
……キッチンで母さんに何を言われても言い返したりしなければよかった。あの夜、もっと静かに過ごしていれば、琳が家から抜け出したことに気付けたはず。
製鉄所を追い抜かし国道から下道に下りると、潮のにおいが一段と濃くなってきた。
青い標識に港への矢印。
左折して正門をくぐると、土曜日の駐車場は色とりどりの車でいっぱいだ。時折り強くなる海風は弟の気配に似ていた。ここから一歩ずつ、近づいていくんだ。琳、来たよ。さっきから心臓がばくばくしている。
遊歩道から岸壁に出ると最初に見えたのは海の向こうの煙突だった。さっき通ってきた製鉄所だ。
お昼どきの海浜広場は親子連れがお弁当を広げ、明るい声が響いていた。
中央埠頭I岸壁。
むっとする潮風の中で、わたしは一人で何度も呼吸を整えた。此処で琳は、ふたりきりで真っ暗な海に打たれて……どんなに苦しかっただろう。
息が止まりそうな気がしてぐっと踏ん張った。堪えながら目線を下げると足元のコンクリートとよく似た藍色の波が小さく打ち寄せ、ちかちかと光を反射している。
ここは釣り場になっていて、少し離れたポイントでは釣り人が二人、竿を振っていた。
琳、やっと此処に来れたよ。暑かったでしょう。海は潮のにおいばかりだから、製鉄所んとこの自販機でサイダーを買ってきたよ。あの縁石に座ってふたりで話をしていたんだね。
額から汗が滑りおちた。頭がぼおっとなりそうな蒸し暑さだ。腕からは汗がぷつぷつと浮き出ている。首に掛けたタオルで顔を押さえて、クーラーボックスの上に向日葵とおにぎりを置いた。横にサイダーを二本並べてみたけれど、ふたりからちゃんと見えるかしら。
ここに来るまでに四百五十日も掛かってしまった。わたしは薄情な姉だ。琳、ごめんね。三人で来るのは、あと少し待っていて。
四百五十日。
毎日まいにち、笑っている時でも心には靄がかかってる。どれだけ泣いたってこの靄は明日も晴れることはないのだ。
毎日まいにち、琳ももやもやした思いにあえいでいたんだろうか。重いもの全部捨てて、二人で一緒に飛んでいってしまったのか。不慮の事故であるよりも、自分の意志であった方がまだしも救いはあるのか。ああもう、全てが憶測と願望に過ぎない。どうして。琳。父さんも、母さんも、わたしも、そんな思いを掬うことができなかった。
「ねえ、何でよ」
理不尽な感情が急に溢れだして、わたしはサイダーを手に取った。刹那の刺激でこのもやもやを晴らすように何度もなんども思いっきり振った。
どうしてよ。帰ってきてよ。文句でも何でもいいよ。言ってよ。だから帰ってきてよ。琳。なんか言ってよ。
「ねえ! 」
蓋を開けると、ばしゅっ、と大きな音がしてサイダーが飛び出した。白昼の花火のように冷たいしぶきと甘い涼やかな香りがはじけた。ほんの一瞬のことだったけど、琳たちにも届いてほしい。
色のない塊が空中でゆっくりほどけていった。そのまま透明な泡になって消えていく。お願い、もう行かないで。
「琳! 」
一歩踏み出したのに気付いて慌てて足を引っ込めた。風にまぎれて釣り人たちの会話が聞こえてきた。どうやら彼らは魚を海に帰すことにしたらしい。海に帰ってゆく魚。ううん、あの魚も琳じゃない。身体中から汗が噴き出て頭がくらくらした。冷たい水を飲まなくちゃ。
ああ、眩しい。なんだか身体がとっても邪魔で。足は攣りそうだし目は沁みるし。まるで黄色い太陽に灼かれてひからびたレモンみたいだ。そのまま透明になってしまったら、わたし琳を探しに行けるのに。
汗を拭くふりをしてタオルで目を押さえたけれど、それだけでは足りなくて両手で顔を覆った。
遠くで鳴る汽笛の音はとても優しく、蜃気楼のような煙突から白い煙が流れていた。真昼の岸壁はかもめと青い波が揺れているだけだった。
────
身体をなくした者は誰もが等しく同じところに帰るんだ。
居場所は、それぞれ違ったとしても……。あの二人は先に行ってしまった。いつか皆が還る場所へ。魂の行き先が区別されるだなんて思わない。そんなもの、あるのならわたしが蹴散らしてやる。
琳と、三村くん。
わたしと、れんち。父さんも。母さんだって。
わたしはそう信じてる。
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