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「これからもよろしくね。」とそう言って差し出された右手を、どうしようかと思ったけれど、ボクは結構力を入れて握りしめた。言葉はなにも返すことができなかったけれど。
だって、ズルいじゃないか。そんなカワイイ笑顔を見せて、あっからかんと明らかに悪気もなくそんなことを言ってしまう。
ボクはとても顔を上に向けられないよ。このままこうやって、涙がこぼれ落ちないように精一杯我慢してる。きっと肩がガクガク震えてる。そしてこのまま、握りしめたこの手を離すことができない。だって、この手を離してしまったら、もう二度と触れることができないって、分かっているから。
それはほんの短い数分のようにも感じられ、永遠のように長くも感じられた。きっと、行き交う人たちはボクらのことを見てる。いいよ。いいじゃないか。見せつけてやるよ。きっと、女の子とこんな風に、こんなに長く手をつないでいられるのは、今日で最後かもしれない。この手を離す日がくるなんて、付き合い始めたあの頃には想像すらしなかった。
声をかけてくれたのは君の方だったじゃないか。ああ、落としたハンカチを拾ってくれたんだったっけ。気づかず足早に去って行こうとしたボクを、一生懸命走って追いかけて来てくれたんだったね。桜の花びら舞い散るなか、春の精が舞い降りてきたのかと思ったよ。あんな眩しい笑顔を見たのは初めてだった。雨の日も風の日も、やさしい光を降り注いでくれたね。「すき」って二文字が運んでくれるとてつもない喜びも教えてくれた。甘美なきもち、やわらかな感触、この上なく甘い香り、絹が擦れる音の心地良さ、藍色の夜明け、なにもかもを教えてくれた君だったのに。
それはあんまり突然に、そんなにも簡単に、「ほかに好きな人ができたの」って。ボクは雷に撃たれたかのごとく、その衝撃に耐えることができなかった。そこへ立て続けに、握手をしろだなんて笑顔で言う君を…、この手を握り潰して、その腹に蹴りを入れて、顔には唾を吐きかけて、頭を踏みにじってやりたいくらい腸煮えくり返るこの憎しみを、なんとか胸に抑えたまま、やっとの思いで顔を上げて、手を離して、気をつけをして、できる限りの無表情で、口をへの字にして…なんにも言わずにその場を立ち去った。
「さようなら」をくれてやらなかったのは、ボクのせめてもの強がりだ。
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