2.恋愛小説は

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2.恋愛小説は

 正直、恋愛小説は好きじゃない。  恋愛小説は自分が恋愛に溺れていないときは平気で素通りできるただのエンターテイメントであるけれど、心に傷があるときに読むと劇薬ばりの効果を発揮するからだ。  多分、今読んだら確実にまずいと思う。 ──六月に、結婚することになった。  さくら出版文芸部。忙しげにみなが立ち働くオフィスの片隅で、中川 啓(なかがわ ひろむ)は頭の中にリフレインする台詞を聞きながら、パソコンの画面を意味なく凝視してそんなことを考えていた。  のろのろとノートパソコンを閉じ、じっとしていると動けなくなりそうで怖くて机の上の書類を片付けようと手を伸ばしたとき、手元の電話が鳴った。  啓が手を伸ばすより一瞬早く、斜め向かいの席の瀬戸 壮太(せと そうた)が鳴り出した電話を取る。はい、はい、と短く返事をしながらちらりとこちらを見たのに気づいて啓は片づけの手を止めた。  伝えます、と言って受話器を置いた瀬戸が積み重なった書籍の間から伸び上ってこちらを見る。 「中川さん、第三会議室で澤守(さわもり)先生がお待ちだそうですよ」 「ああ、うん。ありがとう」  嫌な電話を受けさせてしまった瀬戸に軽く頭を下げ、啓はため息を押し殺して立ち上がる。  啓がこの文芸部に編集として在籍してから約十年。何人かの作家を担当し、その作品を世に出す最初の玄関口として仕事をしてきたが、実は恋愛小説家を担当したことはあまりない。たまたまその機会が少なかっただけともいえるが、もともと恋愛小説自体苦手だ。恋愛小説が好きじゃない自分が恋愛小説家を担当することになったというだけでも冗談じゃないのに、今日のこの最低な気分のときによりによって初顔合わせとは。呪われている。  しかも、相手が悪い。  澤守 葵(さわもり あおい)。今日初顔合わせをする小説家。  軽く頭を振って、啓は手元の資料にさらりと目を通す。  澤守葵は名前だけ見ると女性のようだが実は男性らしい。らしいというのは実際に会ったことがないからだ。だが評判はいろいろ聞いている。  確か今年で二十五のはずだが、著者近影の写真を見るともう少し若く見える。外国の血が混ざっているのか全体的に色素が薄く、くせのなさそうな薄茶の髪が額に落ちかかっている様子などフランス映画の俳優のようだ。その甘い雰囲気の外見にふさわしい繊細な文体と、胸をしめつけるような切なさに満ちた彼の小説は、二十代三十代の女性から絶大な支持を受けているが、その支持の裏にはこの容姿のおかげも多大にあるだろう。  だがそんな風に世間には支持されている澤守葵だが、啓が籍を置く文芸部の中では微妙な扱いを受けていた。
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