26.後悔している

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26.後悔している

 目の前に並べられた料理を見回し啓は感嘆する。何か月ぶりだろう。自宅で出来合いのものじゃない夕食を取るなんて。思った以上に編集者は呪われた仕事だ。 「テレビ、つけましょうか」 「あんたの家だろ、好きにしろよ」  素っ気ない口調に、啓はやれやれと肩をすくめる。本当にこの人は直球でいろいろ言うくせに、とことんツンデレだ。  テレビをつけたけれど内容はほとんど素通りだった。葵は料理が思った以上にうまくて、おいしいとそればかり思った。  そういえば遠藤も料理が好きだと言っていた。小説家というのは家にいることが多いだけに料理の機会も多いのだろうか。まあこれからは結婚するんだし彼の妻が料理はするのだろうけれど。食べ終わった皿を下げて流しにさっさと運ぶ葵の背中を見送り、そんなことを考えてしまった。 「そのままでいいですよ。後片づけくらいします」  流しに並ぶと、葵は、いいよ、と短く言ってから、こちらを見てすらりとした首を傾げた。 「どうした?」  問われて啓は逆に首を傾げる。自分はなにかおかしいだろうか。  そう思ったとき、ふっと頬を涙が滑るのを感じた。ぎょっとしてとっさに顔を背けたけれど落ちた雫は一粒ではなくて啓は慌てた。 「あれ、なんでだろ。ちょっと涙腺が」  おかしいな、と笑おうとしたとたん、腕を引かれた。ぎゅっと抱きしめられて啓はとっさに腕を振りほどこうとしたけれど細いのに思ったよりも力のある腕は啓を離さず、自分より背の高い彼の肩に強引に顔を押しつけられた。  出しっぱなしの水道からざあざあと水音がする。水が、と呟くと、啓を片腕で抱きしめたまま葵が腕を伸ばして蛇口を止めた。居間の点けっぱなしのテレビからバラエティの笑い声が耳をかすめる。 「後悔してる」  耳元で囁く声に、啓は止まらない涙に狼狽しながら、なにが、と返した。 「あんたが泣いているのは俺のせいだから。俺が、余計なことをしなければあんたは泣かないで済んだのに」  ごめん、とかすかな声で告げられ、抱きしめる力が強くなった。  確かに直接的な理由は彼のせいかもしれない。でも葵が背中を押してくれなければ自分は遠藤に思いを伝えることはできなかった。多分、一生。  それはそれで友人として、そして担当編集として彼を支える、そういう意味で満足だったかもしれない。でも小さく、かすかに自分の中に根差した心の軋みはやがて自分を壊してしまうほど大きくなって自分を蝕んでいったろう。今ならそれがわかる。  まっすぐに思いを伝えることはとても恐ろしい。怖くて、受け入れられなければ痛くて、もう動きたくないと思う。  それでも、自分と向き合うこと、自分の気持ちを認めてやることはこんなにも目の前を明るくすることだったのだと知った。  知ることができた。 「あなたが、いてくれてよかった」  そっと囁くと葵の腕が震えた。そうっと顔を上げると、信じられないものを見るようにこちらを見つめる目があった。 「感謝、しています」  そう囁く端からぽろりと涙が落ちる。さすがに恥ずかしくて目を伏せると、冷たい指先にそうっと頬を拭われた。
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