3.澤守葵

1/1
76人が本棚に入れています
本棚に追加
/80ページ

3.澤守葵

 この作家はすこぶる性格が悪いらしいのだ。  まず笑わない。それこそ一切、笑わない。しかも凄まじい毒舌で、気に食わないアドバイスをしようものならけんもほろろに言い返してくるという。  啓の前任者の保科(ほしな)は仕事のできる女性だった。頭の回転も速く編集者としての勘も鋭い。けれどそんな彼女も澤守葵には手を焼いていた。 「原稿アップの日に一切連絡つかなくて、なんでかって聞いたら主人公の兄が滝に打たれるシーンがあって、そこの感じがどうにも納得いかないからって長野の奥地に実際に体験しに行ってたからだって。そこまでしなきゃいけないシーンじゃないのよ。ほんとあり得ない。力入れるところがおかしいのよ」  などと言った愚痴を言っているのを啓も何度か聞いたことがあるが、彼女は彼女なりにこのほうが盛り上がるとか、このほうが作品としてしまるとか、親身になって澤守葵に助言していたようだった。もちろん作家は作家なりの思いがあるだろうが、大方は編集者と話し合って着地点を探るものだろう。だが、澤守葵は違っていた。 「あんた、合わない。あんたに任せたら俺の作品が死ぬ」  すっぱりと言い切ったが最後、以来保科とは一切連絡を絶ってしまった。  問題なのは澤守葵がそう言ったのは保科が初めてじゃないということだ。保科の前に彼を担当した編集者は二人。啓で四人目となる。  彼を担当した編集の中には、彼を心酔してやまない、彼の信者ともいえるほど彼のファンである編集者も交ざっていたが、そのときの言葉は今でも文芸部の中では伝説と化している。 「あんた、編集者失格。さっさと辞めれば」  そんなややこしい作家の担当など御免こうむりたい。しかしそんな思いもむなしくなんの因果か啓が彼を担当することになってしまった。部長の「中川なら、無感動にいろいろ受け流せるだろう」の鶴の一声で。  無感動なんて失礼極まりない、と内心思う。確かに周りからは笑顔でそつなくいろいろこなすけれど常に淡々としてなにを考えているかわからないとか、まじめすぎるとか、いろいろ言われるけれど、別に自分は無感動ではない。人並みに喜怒哀楽はあるし感動だってする。そうでなければ感動を世に伝える本を作る仕事になんて携わろうと思わない。  誰かを好きになることもなく、友人との電話のたった一つのセンテンスを繰り返し思い出して心を騒がせることだってない。  啓は短く息を吐いて会議室のドアをノックした。偏屈な小説家を内側に収めた会議室のドアはむっつりと沈黙を守っている。やれやれ、とため息をつき、啓はドアを開けた。 「失礼いたします」  中へ入り丁寧にドアを閉めて室内へ向き直り、啓は驚いた。  日当たりのよい窓に肩を預け、澤守葵は眠っていた。額から落ちかかり頬を覆った薄茶の髪が窓からの光で金色に輝いて見える。  無造作に投げ出された足は長く、プロフィールにはなかったけれど身長も高いに違いない。やたら長い睫毛やすっと通った鼻筋を見るにつけ、美青年というのは本当にいるのだな、と啓は感嘆した。  世の女性が彼をあがめる理由が少しわかった。王子様幻想を満たすには最高の外見だから。  さて、どうしたものか。起こすべきか。まあ、打ち合わせに来ておいてうたた寝するなんてあまり大人としてよろしいものじゃない。怒ってもいいところだとは思うが。  迷ったけれど啓は声をかけず、会議室の端の椅子を引いて座った。最初の顔合わせだし彼の著作に話を触れることもあるだろうと彼の書いた最新作「花の谷」を持参している。一度読んだそれを啓はぱらりと開いた。
/80ページ

最初のコメントを投稿しよう!