30.彼のいる日常

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30.彼のいる日常

 忙しい。  忙しすぎて倒れそうだ。めまいを覚えながら啓はメールを打つ。営業に出す企画書の締め切りも今日までだ。  ああ、もう一本手があればいいのに、そう思ったとき、デスクの電話が鳴った。 「はい、文芸部です」  くそ、こんなときに、と思いながら受話器を取り上げて名乗ると、受付の女性だった。 『中川さんですか? 澤守先生がいらっしゃいましたので第二応接室へお通ししてます』  言われてはっとした。確かに今日打ち合わせの予定だった。スケジュール表を確認しながら啓はいつも通りの声を作った。 「わかりました。ありがとうございます」  受話器を置いてデスクの書類を片づけ立ち上がると、斜め向かいに座った瀬戸が怪訝そうな顔をした。 「中川さん、なんかありました?」 「え?」  首を傾げると、瀬戸はうーん、とうなった。 「なんか、うれしそうじゃありません?」  うれしそう?  啓は内心の動揺を呑みこみ、手近の書類を机の引き出しにしまう。 「そんなことはないよ」 「あ、それならいいんです。なんかそんな気がしちゃって。すんません」  ひらひらと手を振って、瀬戸は仕事に戻る。  うれしそうなんて言われたこと、今までなかったのに。  妙な気分になりながら自席を離れた啓は応接室にたどり着くと、ふっと呼吸を整える。  緊張することなんてないのに、なぜかどきどきする。  仕事しなければ、と軽く首を振り、ドアをノックすると、はい、と返事が返ってきた。椋の声だ。  軽く息を吸ってからドアを開けると、窓際の席で外を眺めていたらしい椋がこちらを振り向いた。差し込む陽光に淡い色の髪が柔らかい光を放っている。  綺麗な人だなあと場違いな感想を抱いてしまう。数秒見つめ合ってしまってから、いけない、と我に返った啓はそっと笑みを作って頭を下げた。 「お待たせいたしました」  椋は答えない。ただまっすぐにこちらを見つめるばかりだ。綺麗な薄茶の目が自分を映しているのを見て、まいったな、と思いながら、啓は手にしたファイルを開く。 「この間、雑誌の対談受けていただきましたよね。あれが実は好評でまた対談をやりたいという依頼が来ていまして」 「へえ。あんなのが好評だったわけ」  つまらなそうに頬杖をついて椋がこちらを流し見る。その目には恋心ばかりがあふれていて、啓は俯く。その啓の頬に机越しに手が伸ばされた。冷たい指がそっと頬を包む。 「好き」  触れられて頬が熱くなる。なんだってこの人はこうもあけすけにそんなことを言っちゃうんだろう。
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