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31.うれしいのに
「仕事、しなきゃ」
そっと微笑んでそう言うと、するりと手を引いて椋は、いいじゃん、と唇を尖らせた。
「あんた毎日仕事ばっかりしてて週末にしか会えないんだし。せっかく会えたんだからもっと甘えられたいのに」
「週末はいつも一緒だよ」
椋と一緒にいるようになってもうすぐ一か月が経つ。その一か月で啓の生活は大きく変わったと思う。
会社勤めの啓は土日休みだが、金曜日の夜になると椋が家に訪ねてくるようになった。彼は家に来るとせっせと夕飯を作り、一週間分の食事を作り、タッパーに小分けにして冷蔵庫へ入れた。母親か、と思うくらいまめまめしく。そんなことしなくていいと言ったのに、椋はまったく取り合わず逆に叱り飛ばされた。
「食べないでいい仕事できると思ってんの。糖分だけじゃ栄養は取れないんだよ。なに、あの棚のチョコパイの山!」
確かに甘党の自分は常にチョコパイを欠かさない。言い返せなくて黙ると椋はため息をついて言うのだ。
「頼むから心配、させるな」
逆らえるはずがない。
でも、そんな風に甲斐甲斐しく世話を焼いてくれながらも、椋は啓を抱こうとしなかった。キスもするし抱き合うけれどそれ以上のことをしようとしなかった。
その意味を時々考える。それは啓が椋を好きじゃないから。無理強いなんてするべきじゃないと思っているから。
その心遣いがうれしい。うれしいのに。
「啓?」
呼ばれてはっとする。全然仕事とは関係ないことを考えてしまっていた。しかもかなりはしたないことを。
「ちょっと疲れてて」
笑みを作って言うと再び椋の手が頬を包んだ。どきりとした啓の目を淡い茶色の瞳が覗き込む。
「昼飯、また抜いただろ」
「今日は食事取る時間がなくて」
相変らずなんでも見抜かれてしまう。この人の読心術はその道のプロレベルだな、と度肝を抜かれながら思っていると、椋は大げさなため息をついた。
「なんでちょっと早起きして弁当詰めるくらいできないんだよ。冷蔵庫に常備菜入れてあるのに」
だから、君は僕の母親か。
心の中でそう思いつつ啓は目元を和ませる。自分を、自分だけを見てくれる彼。若いせいかときにわがままだったり、すぐすねたりするところもあって、仕事のパートナーであることをつい忘れそうになってしまうけれど、それはあってはならないと思った。
彼の作る作品は、彼の紡ぐ言葉はやっぱり芸術で、それに関われることがうれしいと思えていたから。編集として彼の作品をきちんと世に出したい、多くの人に触れてほしい、そう思えてきていたから。
「続き、話していいですか?」
柔らかく促すと、椋はぷいと顔を背けた。
「対談って、相手誰」
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