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32.これは、恋愛
仕事ばっかり、と顔に書いてある。機嫌の悪い声に苦笑しながら、啓は手元の資料に目を落とす。
「モデルの高槻 都さん。高学歴モデルでコラムリストもしていて最近はテレビにもよく出ていらっしゃいますが、ご存じですか?」
問いかけると、椋が妙な顔をした。あれ、と思って椋の顔を窺うと、彼はぶっきらぼうに言った。
「悪いけど、断って」
「高槻都、もしかして苦手ですか?」
ずばずばと歯に衣着せず物を言い、しかも頭の回転が速いので言葉の切れ味も鋭い。見ていて気持ちのいい会話のテンポを持っている人だが、苦手な人も多いかもしれない。が、椋もどちらかというとそういうタイプなので案外気が合うと思ったのだけれども。
「苦手っていうか」
彼にしてははっきりしない言い方だ。首を傾げると、椋は渋い顔をした。
「いまさら話すこともないし。向こうもきっとそうだから」
「ええと……」
言いかけたとき、ふいに単調な電子音が鳴った。自分のスマホかと思ってポケットを探って気がついた。デスクに置いてきていたんだった。
「ごめん、俺」
短く謝ってポケットからスマホを引っ張り出した椋は、カバーを開いて画面を確認する。しばらくそうしてから椋はスマホを音を立てて閉じた。
「悪い、急用が入った。今日の打ち合わせの続き、夜、啓の家行くからあとで聞かせてもらっていいか」
「ええ」
頷きながら、少し釈然としない気持ちが残った。
椋は友人が少ない。毎週毎週啓の家にやってくるし、スマホなんて特別なくて困るものでもないと平気で言うし、実際、メールも電話もしているところを見ない。あまり啓以外と会っている様子もないから少し心配になったくらいなのだ。
でも今、スマホを見るや否や椋は打ち合わせを切り上げて出かけて行こうとしている。
なんだかざわざわする。軽く頭を振ってざわざわを追い払いながら、啓は営業用の顔で微笑んだ。
「そういえばファンレターまたたくさん届いていますよ。ご自宅に送っておきますから目を通しておいてください」
「わかった」
立ち上がり戸口へ向かう椋を追いかけ出口へ案内しようとドアに手をかけたとたん、顎がすくい上げられ素早くキスされた。
「夜、行くから。そのときはもっと甘えて」
唖然としている啓の耳元で囁き、椋は少し笑って部屋を出ていく。
慌てて後を追い、エントランスで彼を見送り、啓はのろのろとエレベーターに乗り込む。
本当にどうかしていると思う。なんだってこんなことになったんだか。
唇に残る感触に脳がぼんやりとする。口づけが解かれる刹那の寂しさを思う。
好きじゃない。そう思う。でもこれは間違いなく恋愛だ。こんな風に誰かの体温を思ってしまうなんて恋愛でしかない。
大人の顔を、できなくなってしまいそうになる。
「仕事、しないと」
無人のエレベーターで自身に気合の言葉をかけ、フロアに降り立つ。そのとたん、ふらりと少しよろけた。貧血らしい。
頼むから心配、させるな。
椋の言葉を思い出し、啓は額を抑えて苦笑いをする。
少し食べておこう、そう決めて啓は歩き出した。
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