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33.飲み会
五月の始め、連休と連休の間の出勤日、部署内で飲み会が行われた。そんなに飲むつもりなんてなかったのに思った以上に飲まされてしまった。会社の飲み会でこんなに飲むことなんてそうはないのだけれども。
頬がほてっている。右頬を右手で押さえ、啓は人気の絶えた公園の片隅にあるベンチに座り、背もたれに身を預ける。
今日は金曜日だ。けれど飲み会と言っておいたから、椋は今日は来ない。
スマホをスーツのポケットから出し、しばらく眺める。いまごろ彼はなにをしているのだろう。あの家のソファーでお茶でも飲んでいるか、あるいは執筆活動に勤しんでいるか。
邪魔しちゃ悪いかな、そう思ったとき、スマホが震えた。驚いて取り落しそうになる。持ち直して表示を認め、啓は思わず微笑んだ。
椋だった。
『飲み過ぎてない?』
するりと声が耳に滑り込む。うん、と答えると、椋は少し黙ってから柔らかく言った。
『俺、今池袋。啓は?』
「なんでそんなところにいるの」
『友達と飲んでた』
そう、と答えた声が少し掠れた。変だな、と啓は自分で自分に少し驚く。友達だというのなら本当に友達なんだろうに。
啓の心のもやもやをよそに、電話の向こうの声は相変わらずの優しさと奔放さをはらんだまま、いまどこ、と聞く。
「家の近くの、児童公園のとこ」
『ああ、知ってる。家まであと少しじゃん。なにしてんだよ』
声が少し笑う。その声を聞きながら啓は目を閉じる。
「なにかな」
夜風が頬を撫ぜる。少し湿った風を受けて目を閉じていると、声が優しく聞いた。
『今から家、行っていい?』
問われて啓は目を開ける。なんでだろう。この声を聞いているといつもなんだか泣きたくなる。
うん、と短く答えると、待ってて、と言って電話は切れた。
沈黙したスマホを見下ろし、啓はふと気づく。
家に帰らずこんなところにいたわけ。からっぽな自分の家に帰るのが嫌だったからだ。寂しいと思ってしまったからだ。
彼に会いたいと、思ってしまったからだ。
そこにあるのはただ、寂しさだけ。彼に恋しているからじゃない。ただ彼に頭を撫でられたかった。優しく抱きしめられたかった。酔って少し心細くてただそれだけで。
そう思ったらなんだか胸が痛くなった。
こんなこと、終わらせなければならない。
彼に甘えるだけのこんな関係を、続けるわけになんていかない。
彼は優しすぎる。全身全霊で愛してくれ過ぎる。
そんな彼を、これ以上縛りつけておくことなんてしてはならない。
そう思うのに。どうして自分はこんなに弱いんだろう。
ただ一つ言えるのは、この関係は長く続くものではないということ。きっといずれ彼も気づく。自分に愛情を傾け続けることの無意味さを。そして気づいたら最後、彼はきっともう二度と自分を見ないだろう。それがわかる。
それはいつだろう。わからない。でもその時が来たら自分はどうなるんだろう。
ふうっと息を吸ってベンチから身を起こしたとたん、頬にぽろりと涙が落ちて啓は慌てた。
「なんで」
呟いて啓は頬を拭う。酔っぱらい過ぎだな自分、と思ったけれど、なぜか涙はまだあふれていて啓は動揺した。
早く止めなければ、彼に気づかれてしまう。また心配させてしまう。
でもこの涙の理由が自分にはわからない。
花の絶えた桜の枝が頭上でざわめく。その音を聞きながら、涙、早く止まれ、とただ祈った。
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